夜の空気は冷えていた。下水の臭いを振り払うように吹く風のはずなのに、鼻の奥に残る感覚は消えない。血と鉄と油が混じった匂いが、まるで内側から滲み出してくるみたいだった。
自宅までの道はいつもと変わらない。街灯、アスファルト、コンビニの光。すべては日常のままで、違っているのは俺だけだと、嫌でも分かる。
歩くたび関節が軋む。痛みはあるが、それ以上に感覚が鈍い。傷つくことを前提に作り替えられた身体のようで、不安より先に空虚が広がっていく。
守ったはずだった。
そう言い聞かせるが、その言葉は胸の奥で反響しない。
救ったはずなのに、ガラスに映った自分の顔が脳裏に浮かぶ。
あの目は、人を見る目じゃなかった。思わず舌打ちした、その瞬間だった。
夜の奥で、何かが笑った。
足が止まる。街灯の届かない路地の入り口。影が異様に濃い。その中心に、黒い影が立っていた。屈強な体躯に、長い髪を振り乱した姿。輪郭は荒々しく、粗野で、見るだけで胸の奥がざわつく。装飾らしいものはなく、ただ力だけが剥き出しになったような存在だった。
「……0号」
その名を認識した瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。恐怖も、理性も、疑問も消える。ただ一つ、はっきりとした衝動だけが残る。殺したい。理由なんていらない。目の前にいるという事実だけで、十分だった。
「おお……」
楽しげな声が夜に溶ける。その声音が、遺跡での記憶を容赦なく引きずり出す。仲間が死に、逃げ場のなかったあの瞬間。力を植え付けられた、選別の視線。
「黙れええええッ!!」
叫びと同時に身体が前に出ていた。殺気を隠すつもりもない。腹の奥が熱を帯び、ベルトが即座に応えようとする。
「変身――!」
だが完全な変身を待てなかった。待てるはずがない。踏み込み、拳を叩き込む。ただ壊すための直線。だが拳は空を切る。0号の姿が揺れ、現実の方が遅れているかのように、距離だけがずれる。
「焦るな。面白いぞ」
その一言で、血がさらに沸騰する。関節を外し、無理な角度から攻める。暗殺者の動き。紫の殺意。それでも届かない。避けているのではない。付き合っているだけだと、本能が理解してしまう。
「……その目だ。その怒りだ。それが見たかった」
低く響く声と同時に、地面が脈打つ。ぞわりと背筋を何かが這い上がり、直感が告げる。蘇生。二百体規模の同族を蘇らせる力。その事実が、怒りをさらに純化させた。
「……俺が、全部終わらせる」
その言葉に、0号ははっきりと笑った。
「できるとも。そのために、お前は選ばれた」
次の瞬間、影は夜に溶けるように消えた。残された路地で、俺は荒い息を吐きながら立ち尽くす。怒りは消えない。むしろ、身体の奥に定着し始めていた。守るための怒りだったはずのものが、いつの間にか、殺すための衝動と同じ形をしていることを自覚しながら。