工場がリングに変わった気がした。逃げ道はない。焦りが胸に広がり、俺は無意識に拳を握り直す。
「何の用だ。俺を殺しに来たなら、回りくどいぞ」
「殺しではない。俺は貴様を戦士として認め、刃を交えに来た」
次の瞬間、距離が消えた。
踏み込み。拳と拳がぶつかり、骨を叩く鈍音が工場に響く。衝撃が前腕から肘へ抜け、痺れが走る。俺の呼吸が一拍遅れる。その隙を、ガドルは逃さない。肘が肋に突き刺さり、息が強制的に吐き出された。
「ぐ……!」
足が流れる。
床に残った油で踏ん張れない。だが、倒れる前に腹筋を締め、体を戻す。視界の端で、ガドルの動きが読める。次は膝だ。受け止めきれず、腹に衝撃が入る。横隔膜が痙攣し、呼吸が途切れる。
「力は確かに増した。だが、動きに迷いがある」
「……うるさい!」
反射で踏み込み、連打を叩き込む。拳、肘、肩。筋肉が悲鳴を上げる前に動かし続ける。だが、相手は倒れない。受け、耐え、俺の癖を学んでいる。経験の差が、じわじわと効いてくる。
次の衝突で、背中が鉄柱に打ちつけられた。
視界が白く跳ね、歯を食いしばる。呼吸が浅い。腕が重い。それでも、脚だけは動く。脛で相手の足を払う。わずかに距離が開いた、その瞬間だった。
工場の端から、悲鳴が聞こえた。
割れたシャッターの向こう、逃げ遅れた市民が転びかけている。思考より先に体が動いた。俺は踏み切り、ガドル前に割り込む。
「下がれ!」
背中に衝撃が走る。
拳。
二発目。
三発目。
肋が軋み、痛覚が線になって繋がる。それでも俺は立つ。腕を広げ、体重を前に預ける。呼吸は乱れ、視界が狭まるが、背後の気配は守られている。
攻撃が、止まった。
「……ほう」
荒い息の合間に、ガドルの声が落ちる。
俺は膝をつきながら顔を上げる。全身が痛い。それでも、視線だけは逸らさない。
「なぜ、庇った」
「……決まってるだろ。守るためだ」
短い沈黙の後、ガドルは一歩下がった。
構えを解き、静かに首を振る。
「この戦い、勝利とは認めぬ。力で上回っても、それでは意味がない」
そう言い残し、背を向ける。
闇の中へと、その姿は溶けていった。
残された俺は、冷たい床に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
痛みは確かだ。
だが、それ以上に、胸の奥が静かだった。
守れたという事実だけが、夜の廃工場に、はっきりと残っていた。
廃工場に残ったのは、軋む鉄骨の音と、俺の荒い呼吸だけだった。
全身が痛い。肋は軋み、背中は熱を持ち、脚は自分の体重を拒むみたいに震えている。呼吸を整えようとするたび、肺の奥が焼けつくように痛んだ。さっきまで戦っていたという事実が、遅れて現実としてのしかかってくる。
それでも、俺は立ち上がる。
床に手をついたまま、一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと吐く。視界が揺れ、足元がおぼつかない。だが、ここに留まる理由はもうない。ゴ・ガドル・バは去った。市民も無事だ。なら、俺がここにいる意味はない。
一歩、足を出す。
筋肉が悲鳴を上げる。
二歩目で、膝が折れそうになる。それでも止まらない。止まったら、二度と動けなくなりそうだった。
割れたシャッターの隙間から、夜風が吹き込む。冷たい空気が、汗と血に濡れた身体を撫で、痛みを際立たせる。街灯の光が遠くに見えた。日常が、すぐそこにある。その事実が、なぜか胸を締めつける。
俺は振り返らない。
勝利でも敗北でもない戦いの跡を背に、ただ歩く。
ボロボロの身体を引きずりながら、それでも前へ進く。
守るために戦った、その結果だけを胸に抱えて。
夜の廃工場から、宮崎は静かに去っていった。