喫茶ポレポレの朝は、音から始まる。
コーヒーミルが豆を砕く低い音と、ポットから立つ湯気のかすかな鳴き声。その合間を縫うように、外の通りの気配がガラス越しに滲んでくる。俺はカウンターの端に座り、湯気の立つカップを前にして、まだ口をつけずにいた。
飲めばいい。
分かっている。
でも今は、温度を確かめるだけで精一杯だった。
「……朝から難しい顔やなあ。コーヒーが逃げるで」
背後から、軽い声。
飾玉三郎――この店のマスターは、いつも通りの調子でポットを置いた。声は柔らかく、どこか人を安心させる。それが、逆に胸の奥に引っかかる。
「そんな顔してたら、豆も気ぃ遣うわ」
「すみません……無意識でした」
「無意識でその顔は、だいぶ重症やで」
笑いながら言われて、俺はようやくカップを持ち上げた。指先に伝わる熱。ちゃんと熱い。まだ、ここにいる。
「最近な、来るたびに顔が違う」
三郎さんは俺の前に砂糖壺を置きながら、さらっと言った。
責めるでもなく、問い詰めるでもない。ただ、気づいたことを口にしただけ、という風に。
「昨日と今日で、って話ちゃうで。来るたびにや。疲れてる日もあれば、妙に落ち着いてる日もある。で、今日は……」
少し間が空く。
「どこにおるか分からん顔や」
胸の奥が、わずかに鳴った。
図星だ、とは思わない。
でも、否定もできない。
「……自分でも、そんな感じはあります」
「ほう。自覚はあるんや」
三郎さんは、にやりと笑った。
「それはええことや。自分の顔に無関心になったら、人間終わりやからな」
人間、という言葉が、やけに重く聞こえた。
俺は視線をカップの中に落とす。黒い液面に、自分の顔が歪んで映る。
色――という言葉が、頭をよぎる。
白、青、緑、紫。
戦うたびに選ばれてきた色。
選んでいるつもりで、選ばされている感覚。
「……最近、自分がどんな状態なのか、よく分からなくなる時があって」
俺は、できるだけ曖昧に言葉を選んだ。
この人には、正体を知られてはいけない。
でも、何も言わないままでいるのも、限界だった。
「ほう。若いのに、えらい哲学的やな」
「そういうのじゃないです。もっと……単純で」
単純で、厄介な話。
怒った時、怖い時、迷った時。
考えるより先に、身体が“正しい答え”を出してしまう感覚。
それが便利で、強くて、だからこそ不安になる。
「単純なもんほど、絡まったらほどけへんで」
三郎さんは、俺のカップに目を落とした。
「砂糖、入れへんのか」
「……今日は、このままで」
「苦いで」
「分かってます」
その一言で、なぜか少しだけ楽になった。
苦いと分かっていて、飲む。
それは、俺がまだ選べている証拠みたいだった。
「人な、変わる時は一気に変わると思いがちやけど、実際はちゃう」
三郎さんは、カウンターを拭きながら続ける。
「毎日ちょっとずつや。昨日より今日、今日より明日。ほとんど誤差みたいな変化を積み重ねて、気ぃついたら『あれ?』ってなる」
俺は黙って聞いていた。
白が楽になる理由。
青が逃げ道を残す理由。
緑が痛すぎる理由。
紫が一番、選びたくない理由。
そのどれもが、少しずつ積み重なった結果だ。
「せやからな」
三郎さんは、ふっと視線を上げる。
「『分からん』って言えるうちは、まだ戻れる。分からん言うてる自分を、ちゃんと見とるからや」
戻れる。
その言葉が、胸に残った。
「……俺、ちゃんと戻れてますか」
自分でも驚くほど、素直な声だった。
三郎さんは一瞬だけ考えてから、肩をすくめる。
「さあな。ワシは占い師ちゃうし」
それから、いつもの調子で笑う。
「でもな、ここでコーヒー飲んで、味が苦いって分かってるうちは、大丈夫やと思うで」
俺は、ようやく一口飲んだ。
苦い。
でも、嫌じゃない。
外では、いつも通りの朝が流れている。
事件も、戦いも、まだ始まっていない。
それでも、何かが動き出す予感だけが、確かにあった。
カップを置き、息を整える。
俺はまだ、人の側にいる。
少なくとも、今は。
――だから、もう少しだけ、ここにいよう。