倉庫街に残ったのは、戦いの結果だけだった。
焦げた鉄の匂い、ひび割れた床、雷に焼かれた空気。ゴ・ガドル・バの身体は動かず、完全に沈黙している。勝った――そう言葉にすれば簡単なのに、胸の奥に達成感はなかった。代わりに、何かを置き忘れたような空白だけが残っている。
俺は膝に手をついて、荒い呼吸を整えていた。全身が重く、視界の端が揺れる。それでも立っていられるのは、意識がまだ張りつめているからだ。
少し離れた場所で、五代さんは座り込んでいた。背中を壁に預け、肩で息をしている。立ち上がろうとしていないのではなく、立ち上がれないのだと一目で分かった。
「……五代さん、大丈夫ですか」
声をかけると、五代さんはわずかに顔を上げた。笑おうとしたが、口元がうまく動かない。
「悪い……ちょっと、無理だな」
その一言で十分だった。
さっきまで並んで立っていた人が、もう戦えない。その事実が、じわりと現実味を帯びてくる。
その瞬間だった。
空気が、変わった。
寒くなったわけじゃない。音がしたわけでもない。ただ、世界の奥行きが一段、深くなった感覚。背中の内側を、指でなぞられるような違和感。俺は無意識に顔を上げていた。
――いる。
理由は説明できない。でも、はっきりと分かる。
今までの未確認とは違う。ガドルとも違う。さっきまで感じていた雷の残滓とは、質がまるで違う。
五代さんは、気づいていない。
それが、余計に怖かった。
闇の向こうに、人の形をした影があった。
最初からそこにいたかのように、自然に。存在を主張しないのに、視線だけが確かにこちらを捉えている。
ン・ダグバ・ゼバ。
名前を口にしたわけじゃない。
それでも、理解してしまった。俺の中の“力”が、はっきりと反応している。同じ匂い。同じ源。違うのは、深さと密度だけだ。
ダグバは、動かない。
ただ、見ている。
その視線に、明確な感情があった。
殺意だ。
だが、それは怒りでも憎しみでもない。獲物を見つけた時の、純粋な喜びに近い。
――十分、強くなった。
そう言われている気がした。
ゴ・ガドル・バを倒した。その事実が、評価になった。試験に合格したような感覚と同時に、背筋が凍る。ここまで来たから、選ばれた。逃げ場はない。
五代さんが、小さく息を吸う。
「……宮崎君、何か……」
言葉の途中で止まる。
視線の先にいる“何か”を、五代さんも感じ始めたのだろう。だが、正体までは掴めていない。その差が、残酷だった。
「五代さん……動かないでください」
自然と敬語になっていた。
今は守る側と守られる側が、はっきり分かれている。
ダグバが一歩、前に出た。
ただそれだけで、胃の奥がひっくり返るような圧が来る。ベルトが熱を持ち、勝手に反応しようとする。だが同時に、理解する。ここで全力を出せば、俺は確実に死に近づく。
それでも、立つ以外の選択肢はない。
五代さんが、苦しそうにこちらを見る。
「……無茶するな」
その言葉が胸に刺さる。
分かっている、無茶だ。勝算なんてない。これは戦いですらない。ただの時間稼ぎかもしれない。
「すみません……でも、ここで下がれません」
声が震えないように、奥歯を噛みしめる。
勝つためじゃない。生き残るためでもない。五代さんを、生かすためだ。それだけで、身体は動く。
ダグバが、楽しそうに首を傾げた。
「……」
声は聞こえない。それでも、笑っているのが分かる。
逃げないこと。立ち向かうこと。それ自体が、遊びになる存在。
俺は一歩、前に出た。
足が重い。肺が痛い。それでも、目を逸らさない。
この夜は、まだ終わっていない。
さっきの勝利は、ただの前座だった。ここから先は、命の価値そのものを賭ける戦いになる。
それでも――
五代さんが背後にいる限り、俺は立つ。