夜は、もはや戦場ですらなかった。
倉庫街という形だけを保った、処刑場に近い空間だった。
ン・ダグバ・ゼバは、中間形態のまま立っていた。
長い髪を無造作に振り乱し、黒い肉体は光を吸い込むように闇と溶け合っている。黄金の装飾も、洗練された威圧もない。ただ、粗野で、剥き出しで、それだけに圧倒的だった。立っているだけで、空気が歪む。呼吸をするたび、肺が軋む。
五代さんは、もう動けない。
背後で壁にもたれ、必死に意識を保っているのが分かる。視線だけが、俺を追っている。
逃げられない。
逃げれば、五代さんが殺される。
だから俺は、前に出た。
腹部のベルトが、焼けつくように熱を帯びる。
限界を超えているのは分かっている。身体は悲鳴を上げ、筋肉は痙攣し、骨の奥が軋む。それでも、力を呼び起こす。
白だった身体に、金の光が無理矢理流れ込む。
血管の中を、熱い鉄が走る感覚。視界が歪み、世界が一瞬、遠ざかる。それでも立っているのは、意思だけだった。
ダグバは、楽しそうに首を傾げた。
それだけで、背筋が凍る。
次の瞬間、視界が反転した。
殴られた、と思った時にはもう遅い。拳が頬を掠めただけで、身体が宙を舞い、コンクリートに叩きつけられる。衝撃が背中から全身へ走り、肺の空気が一気に吐き出された。
「……っ!」
声にならない息が漏れる。
立ち上がろうとして、脚が言うことをきかない。
ダグバは歩いてくる。
走らない。焦らない。追い詰める必要がないからだ。遊び相手が、勝手に立ち上がるのを待っている。
次の一撃は、腹部だった。
ガードは間に合わない。拳が突き刺さる感覚と同時に、内臓が揺れ、視界が白く弾ける。これは致命傷に近い。分かる。普通なら、ここで終わりだ。
それでも、俺は膝をつきながら、立ち上がった。
理由は単純だ。倒れたままでは、守れない。
「……まだだ」
声は掠れていた。
それでも、確かに言葉になっていた。
ダグバの攻撃は、どれも軽い。
軽く見える。だが、その一つ一つが、確実に命を削ってくる。肩を砕かれ、肋骨が軋み、脚に力が入らなくなる。それでも、動く。無理矢理、動かす。
拳を振る。
当たらない。
いや、当たっても、意味がない。ダグバの身体は、まるで別の法則で動いている。反応速度、出力、すべてが違う。こちらが全力を出して、ようやく届く距離を、向こうは遊び半分で支配している。
殴られ、蹴られ、叩き伏せられる。
そのたびに、身体のどこかが壊れていくのが分かる。
それでも、意識だけは切れなかった。
切れれば、終わりだからだ。
五代さんの気配が、背後にある。
それだけで、立つ理由は十分だった。
ダグバが、少しだけ踏み込んだ。
次の一撃は、確実に終わらせる距離。
俺は、構えた。
勝利なんて、最初から考えていない。
ただ一秒でも、長く。
その一秒が、奇跡に変わる可能性を、捨てなかった。
この戦いに、希望はない。
それでも、諦めない。
諦めるという選択肢だけは、最初から存在しなかった。
――だから俺は、まだ立っている。