少し汗ばむ夏の夕暮れ。蒸し暑さに包まれたアスファルトが、夕陽の赤に染まりながらじんわりと熱を放っている。
その中を、平均的な社会人男性——年齢は二十代後半、身なりは地味すぎず派手すぎず、どこにでもいるようなスーツ姿——が、ようやく一日の業務を終え、駅から自宅へと歩いている。
ネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外す。通り過ぎる風がわずかに涼しく、背中の汗に触れて心地よさを運んでくる。
特にこれといった出来事もない一日だった。会議、メール、上司との雑談。何もかもが「いつも通り」で、「まあ、こんなもんか」と思いながら歩く彼の足取りは重くも軽くもない。
コンビニの脇を通り過ぎたとき、ふと、冷たいビールの映ったポスターが目に入る。
「帰ったら、風呂に入って、ビールだな」
誰に聞かせるでもない独り言が、口から漏れる。
彼のつぶやきをよそに、コンビニの自動ドアが「ウィン」と控えめに開き、誰かが店から出てきた。
高校生らしき二人組。片手にアイス、もう一方には炭酸のペットボトル。
笑いながら通り過ぎていく若い声が、夕暮れの空気に溶けて消える。
彼は一瞬立ち止まり、喉の渇きを思い出す。
「……やっぱ寄ってくか」
ふらりとコンビニに入り、冷蔵ケースの前でしゃがみ込む。ビールは定番の銘柄。
だが、隣には季節限定の缶が並んでいる。
パッケージには「瀬戸内レモン」「夕涼みホワイト」などの文字。
「こういうの、つい買っちゃうんだよな」
またも独り言。だが、表情は少し緩んでいた。
ビールと冷奴用の豆腐、あとは柿の種と小袋の枝豆を手にレジへ。
店員は無言でテキパキと袋詰めし、彼も特に会話を交わすことなく頭を下げて店を出る。
外に出ると、空の色はもうすっかり藍色に変わっていた。
道沿いの植え込みでは、夜の虫たちが短く鋭く鳴いている。
彼はビニール袋を片手に提げながら、再び歩き出した。家までは、あと十分ほど。
その足取りはさっきよりも、わずかに軽くなっている。
住宅街へと続く坂道にさしかかったときだった。
彼はふと足を止め、いつものようにイヤホンを取り出して音楽を流す。
プレイリストは何年も変わらない。スローテンポのジャズが、ゆっくりと鼓膜に届く。
左手にはコンビニの袋。右手にはスマートフォン。
辺りはすっかり夜に染まり、街灯の下には自分の影が長く伸びている。
遠くで犬が吠える声が一度だけ聞こえた。
「……明日、あの資料仕上げないと」
明日が来ることを、当然のように思っていた。
だが、その瞬間だった。
鋭いブレーキ音と、何かが弾け飛ぶような衝撃音。
そのすべては、一瞬の中に詰め込まれていた。
彼が歩いていた横断歩道に、スピードを出した軽トラックが突っ込んできたのだった。
運転していた若者は、スマホに気を取られていたという。
彼の体は宙に舞い、ビニール袋の中の缶ビールがアスファルトに叩きつけられて破裂した。
中身が飛び散り、泡となってゆっくりと地面を流れていく。
その泡は、やがて血と混じり合って、暗がりの歩道を濡らしていった。