再び三人が席に着いたが、妙に空気が落ち着かない。
さっきまでの軽口の応酬が嘘のように、テーブルを囲む空気はどこかぎこちなかった。
そんな中、エリルが口を開いた。
「……あのさ、貴族様。名前、聞いていい?」
エリルが、そっと口を開いた。
まだ頬はほんのりと赤く染まり、視線を控えめにこちらへ向けてくる。
その目には、どこか不安と期待が入り混じっていた。
そういえば、まともに名乗っていなかったな。
リサが何度か俺の名前を呼んでいたから、それで十分だと思っていた。
だが、本人からの確認を求められると、不思議と気が引き締まる。
「悪いな、名乗り遅れた。ミズキ・ヴェルノート・ネフェリウスだ」
俺が名を告げると、エリルはぱちくりと瞬きをしたあと、声を上げた。
「えー、ネフェリウス家様だったなんて!」
驚きのあまり、声がわずかに裏返っていた。
どうやら、我が家の名はそれなりに知られているらしい。
まあ、領地の住民なら当然か。
「ミズキ様ね。覚えたよ。私はエリル。家名はないよ」
そう言いながら、彼女は肩をすくめ、どこか照れたように笑ってみせた。
平民の多くは家名を持たない。それがこの世界の常識だ。
「さっき呼ばせた名は、本名だったのか」
何気なく口にすると、エリルの頬がさらに赤く染まった。
そして、目を逸らしながら、か細い声で呟く。
「掘り返されると……恥ずかしいなぁ」
呟く声は小さく、それでもどこか甘さを帯びていた。
まだ頬に残る赤みが、その余韻を物語っている。
「そんじゃ、そろそろ用事を済ませようか」
リサが軽く声を上げると、ふわりと張りつめていた空気がほどけるように変わった。
彼女なりの空気の切り替え方だろう。
あえて雑に振る舞うことで、照れや気まずさを払っている――そんな気がした。
「エリル、花を食わせたスライムの蜜はあるか?」
話題を変えながら、リサがエリルに視線を向ける。
急な本題に、エリルは一瞬だけ目を瞬かせ、それからふと奥の扉へと目をやった。
「ああ、それなら奥の部屋にあるよ」
エリルはふと奥の扉へ目を向け、わずかに逡巡するような間を置いた。
「……ただ、そこでの量はもう残ってないよ。夏だし、果物を漬けるのに、この前使っちゃって」
その説明を受け、リサは「ああもう」と言わんばかりに額を押さえた。
「くそ、タイミングが悪かったか?レモン六個、漬けれる程度の蜜が欲しいんだが」
溜息まじりに呟いた。計算違いを悔やむというより、自身の見通しの甘さを半ば呆れているような声音だった。
「そのぐらいなら残ってるよ」
エリルは少しだけ考える素振りを見せたあと、すぐに答えた。
その言い方はあっさりとしていて、肩の力が抜けるような安心感を与える。
「よかったよかった。ミズキ様がスライムの蜜を欲しがってたんだ」
リサが、俺を親指で軽く指し示しながら、からかうような笑みを浮かべる。
どこか嬉しそうな響きすら感じるのは、からかいの中にも気遣いがあるからだろうか。
「そうだったんだ。全部使わなくてよかったよ。瓶にでも入れて持ってくるね」
エリルは椅子を引いてすっと立ち上がると、軽やかな足取りで奥の部屋へと向かう。その背中はまるで、小動物が跳ねるような無邪気さと柔らかさに包まれていた。
「……それにしても、さっきの行動、驚いたぜ」
静けさが戻った空間に、リサがぽつりと呟いた。
その声は、まるで独り言のように小さく、けれど確かにこちらを向いていた。
手元のカップを持ち上げながら、俺にだけ届くような低く抑えた声音だった。
「さっきの状況は、あいつのお気に入りの小説の一部だ」
静かに、けれど核心を突くように語られる言葉に、俺は思わず聞き返してしまう。
「なんだ、お前も読んでいるのか?」
つい反射的に聞いてしまった。
リサが本を読む、それも恋愛ものの小説を読む姿など、どうにも想像がつかなかったのだ。
リサは苦笑し、肩をすくめて見せる。
「いや、読まされたんだよ。『絶対読んで来い』って、真剣な顔でな。……私には合わなかったけどな」
そして、冷めた茶をひと口すすって、顔をしかめる。
「登場人物が全員乙女か夢見がちの馬鹿に見えて仕方なかったよ。……でもまあ、エリルはあれが好きなんだ」
リサは茶碗を置き、目を細めて微かに笑った。
「それにしても、ミズキ様、よくあんな台詞を言えたな」
からかい半分、驚き半分のその声に、俺は肩をすくめるしかなかった。
「なんとかな」
実際のところ、かなり恥ずかしかった。
あの場では気取った顔で言ってのけたが、内心は顔面が火を吹く寸前だった。
「顔に出さないところが貴族ってやつか。私は絶対ムリだな。あんなの、口に出したら五秒で顔から火が出る」
リサはそう言って苦笑する。俺と同じ感想だ。
「まあ……あいつには、響いてたみたいだけどな。いや、響きすぎか、我を忘れて抱き着いちまうほどだ」
苦笑混じりにそう続けたリサの口調には、どこか呆れたような、しかし完全には否定しきれない柔らかさがあった。
「お前も昼間にやたら距離詰めてきただろ」
俺がぼそりと返すと、リサの眉がぴくりと動いた。
そして、すぐににやりと悪戯っぽく笑みを浮かべる。
「私はいいんだよ」
あまりにもさらりと、堂々と。
まるでそれが当然とでも言うような調子だった。
思わず吹き出しかけたが、どうにか表情を保つ。
わかってる。こいつは、そういう奴だ。
「そんなわけあるか」
冷静を装って言い返すが、リサはまるで取り合わずに、また一口、茶をすする。
「おまたせ。持ってきたよ」
エリルが小さな足音を立てて戻ってきた。
その手に抱えられた瓶が、そっとテーブルの端に置かれる。
中には、淡い琥珀色の液体がゆっくりと揺れていた。
光を受けて、小さな泡がきらきらと反射する。
まるで、ほんの一滴に夏の日差しを閉じ込めたような美しさだった。
「……結構な量だな」
中身はたっぷりと詰まっていて、見たところレモン六つどころか十個は余裕で漬けられそうだった。
腕にかかる重量を想像し、内心で「リサに持たせるか」と考える。どうせ帰り道は、彼女が護衛としてついてくるのだ。
「助かる。いくら払えばいい?」
当然のように訊ねると、エリルは一瞬きょとんとした顔になった。
まばたきすら忘れたように目を丸くし、それから小さく首を振る。
「お代はいいよ。元々、売り物じゃないしね」
無理にでも対価を支払うべきかと一瞬思ったが、彼女の言葉に迷いはなかった。押し問答をするのも、かえって無粋だろう。
「そうか……悪いな。助かる」
俺は静かに礼を述べた。
「気にしないでいいよ。それより、貴族様がスライムの蜜を欲しがるなんて珍しいね」
エリルは興味深そうに、目を細める。
小首をかしげながら、観察するようにこちらを覗き込むその仕草には、どこか動物的な柔らかさがあった。
隣で、湯気のほとんど消えた茶をすすっていたリサが、口元を拭いながらぼそりと口を挟む。
「レモンを漬けて騎士団に差し入れしてやるんだってよ」
「へぇ……優しいんだね」
エリルの声が、心から感心したように柔らかく響いた。
彼女の視線は瓶から俺へと移り、そのまま、少しだけ見つめるように止まる。
その視線には、好奇心だけではない、穏やかな敬意と、わずかな親しみが混じっていた。
「今日は蜜レモンの材料を買いに来たのかい?」
「いや、本来は騎士への褒美を探しに来た。だが、いいものが見つからなくてな」
そう言って肩をすくめると、リサがすかさず笑みを浮かべる。
「三日も褒美探しする予定なんだぜ?」
口元には、からかいと少しの呆れが混ざった笑み。
その言葉に、エリルは驚いたように目を見開く。
「そうなんだ。それじゃあ……明日と明後日もこの街に?」
その声音が、どこか弾んでいるように感じられたのは――気のせいではなかった。
彼女の瞳が、一瞬だけ輝きを増す。
「そうだな。足を運ぶことになる」
静かに頷いて返すと、エリルの表情がふわりと柔らかくほころんだ。
その笑顔は、控えめだけれど、確かに嬉しさがにじんでいた。
「それじゃあ、明日と明後日、私も付き合っていいかい?」
不意に投げかけられたその言葉は、思いのほか素直で、少しだけはにかんでいた。
「俺は構わん」
そう答えながらも、自然とリサの方へ視線を向けた。
俺はともかく、護衛の立場である彼女には別の判断基準があるだろうと思ったからだ。
案の定、リサは少し顔をしかめながら腕を組んで言った。
「護衛対象が増えるじゃねーか」
言葉だけを聞けば不満そうだが、その口元にはどこか楽しげな余裕が浮かんでいる。
完全に断る気はなさそうだ。
彼女なりに、にぎやかなのも悪くないと思っているのだろう。
「何時ぐらいに来るんだい?」
エリルが嬉しそうに身を乗り出してくる。その瞳は期待にわずかに輝いていた。
明日の予定も今日と同じだ。
「おおよそ十時半に門を通る」
「私はそこで待っておくよ」
その言葉にはためらいがなかった。まるで、それが当然のことのように、自然に微笑みながら彼女は言った。
窓の外では、すでに日が傾き始めている。斜めに差し込む夕陽が床に長い影を落とし、部屋の空気に淡い橙色を混ぜ込んでいた。
そんな静けさのなか、リサがカップを置きながら口を開く。
「ミズキ様、そろそろ帰るか?」
軽い調子ながらも、ちらりと時計代わりの壁の影を見ているあたり、気配りの細やかさが伺える。
「ああ、そうだな」
俺は立ち上がり、テーブルの脇に置いてあったスライムの蜜が詰まった瓶に手を伸ばした。
が、思ったよりも重く、少しだけ腕に力を込めて持ち上げる羽目になる。
「……重いな。リサ、お前が持て」
そう言って瓶を差し出すと、リサはあきれたように鼻を鳴らす。
「どんだけ非力なんだよ、まったく」
そう文句を言いながらも、リサは手際よく瓶を受け取る。
その動きには、すっかり慣れた護衛としての自然さがある。
なんだかんだで、こういう面倒を嫌がらず引き受けてくれるのが彼女の良いところだ。
「邪魔したな」「それじゃあなエリル」
軽く手を挙げて応じながら、俺とリサは玄関を後にする。
夕暮れは一層濃くなっていて、石畳の道には木々の影が長く伸びていた。
街路を吹き抜ける風は、昼間の熱をすこしだけさらってくれている。
「よし、馬のとこまで一直線で行くぞ」
リサが唐突にそう宣言し、瓶を軽く肩に担ぎ直す。その声には疲れの色はまるでなく、むしろ一日が終わることを惜しむかのような元気さすら感じられる。
門番に一言挨拶を交わし、手綱を受け取る。愛馬は鼻を鳴らしながらも落ち着いた様子で、長い待機にもさして不満はなかったらしい。鞍に荷物を括りつけ、手綱を軽く引いて街を後にする。
街の門を抜けると、途端に喧騒が遠ざかっていく。
朝に通った道を引き返すように、屋敷のある高台を目指して馬を進めた。
夕暮れの風は昼よりいくらか涼しく、頬をかすめる空気が心地いい。
ふと、視界の端に川が見えた。
朝もちらりと目にしたが、夕陽に染まった今は格別だった。
穏やかな流れが橙色の光を跳ね返し、水面が宝石のように瞬いている。
両岸の木々も影を落とし、そのコントラストがまるで絵画のようだった。
「ここで釣りや料理なんかしてもよさそうだ」
思わず口をついた感想に、隣を歩いていたリサがちらりとこちらを見た。
彼女は目を細め、唇の端をゆるく吊り上げる。
「へぇ、ミズキ様、そんな趣味があるとは」
唇の端をゆるく吊り上げて、面白そうに言う。
「いや、やったことはない。ただ、今の景色を見て……少し、思っただけだ」
眼前には、川沿いの緩やかな道と、水面に光を跳ね返す静かな流れがあった。
木漏れ日が揺れ、風が草をわずかに撫でている。
それだけで、心が少し穏やかになる風景だった。
「ふうん?」
鼻を鳴らし、リサは馬の脇腹を軽く叩いて歩を進める。
「じゃあ今度、一緒に来るか。釣った魚でスープでも作ってやるよ。ついでにパンも焼いてやる」
冗談めかした口調だったが、その声にはほんのりと楽しげな響きが混ざっていた。
普段はからかいがちの彼女が、どこか本気に近いことを言っているような、そんな響きだった。
「そういうのも、悪くないな」
短く答えると、リサはにやりと口元を吊り上げ、すぐに言葉を継いだ。
「ただ、今回の依頼が終わってからになるな」
「俺は基本、暇だ。いつでも誘いに来い」
肩の力を抜いたまま、淡々と応じる。
けれどその実、こうしたやりとりがどこか心地よかった。
リサはふふっと鼻を鳴らし、笑いながら言う。
「本当に行くぜ?」
「ああ、門番にでも言えば俺に伝わる」
そのやり取りに、リサは「了解」と軽く応じたあと、ふと声の調子を変えた。
「じゃあさ、その時、私がいつも使ってる道具も見せてやるよ」
「興味あるな」
素直な声に、リサがふふんと鼻を鳴らす。
「結構いいもんなんだぜ? 期待しといてくれていい」
リサが自信満々に言い、俺はふっと笑った。
そんな風に取り留めのない話を続けながら進んでいるうちに、遠くに屋敷の屋根が見えてきた。傾ききった陽がその石造りの壁を金色に染め、まるで一日の終わりを静かに告げているようだった。
「到着だな」
手綱を引いて馬を緩やかに止める。
馬の足音がゆっくりと消え、かわりに耳に届いたのは、遠くで鳴く鳥の声と、かすかな風の音だった。
隣でリサも同じように馬を止め、ふぅっと一息、深く息を吐いた。
「明日も頼むぞ」
「はいよ」
軽く肩をすくめながら答えるリサに、自然と笑みがこぼれた。
門の前では、待機していた騎士が静かに控えていた。
手綱を預けながら、自然と口が動く。
「水はいるか?」
「その辺は大丈夫だ。ミズキ様は屋敷に戻っていいぜ。私はこのままギルドに寄る」
さらりと告げて、リサは手を振った。明るい口調ではあるが、その目はやや鋭く、護衛としての務めをきちんとまっとうしているのがわかる。
「ああ」
短く返し、俺はリサに背を向けた、ゆっくりと屋敷に向け歩を進める。
思っていた通り、褒美は一日では見つからなかった。
明日こそ、いいのが見つかればいいだがな。