エリルは腰が引けたかの様に小さく後ずさり、俺の手はエリルの頭から滑り落ちていく。
俺は一歩近づき、持っていた帽子をそっと元の位置に戻すと、ふわりと彼女の髪に馴染み、元の位置に収まった。
「会計済ませちまえよ」
リサが肩越しに声をかけてくる。
奥で笑いを堪えているが、顔にはそれが隠しきれていない。
面白がっているのがありありと伝わってきる。
エリルはといえば、咳払いし、気まずさを煙に巻くように視線を逸らす。
帽子のつばを弄りながら、落ち着かない様子でカウンターの方へ目をやった。
俺も、そのままカウンターのほうに目を向けると、まるでタイミングを見計らっていたかのように、店主が無言で準備を進めている。
落ち着いた手つきで、包み紙や麻ひも、封蝋の蝋棒まで並べ、あとは品を包むだけといったところだ。
「支払いは、ネフェリウス家宛で頼む。請求書の宛名は――ミズキ・ヴェルノート・ネフェリウスだ」
名乗った瞬間、店内の空気がわずかに揺れた気がした。
音も動きもない、けれど確かに感じる微細な変化。
それは、空気が一瞬だけ硬質に変わるような、張りつめた感触だった。
俺の格好は甚平。
家紋もなく、帯も飾り気のない布一枚。
ここが我が家の領地だとしても、そう簡単に“あのネフェリウス家”と結びつけられるものではなかったはずだ。
だが、店主は顔色ひとつ変えず、深く一礼した。
言葉もなく、ただ静かに、黙々と作業を進め始めた。
丁寧に包み紙で包み、麻ひもできゅっと結ぶ。
仕上げに封蝋を溶かし、魔道具店の印章を押す。
その手つきは手慣れていて、どこか品すら感じられる所作だった。
「持って帰られますか?、それとも請求の時にお持ちしましょうか?」
どうやら、口調が敬語に切り替わったらしい。
俺としては気にしていない部分だったのだが。
店主がそう問うと同時に、俺は目の前の品に手をかける。
思っていたより、ずっしりと重みがある。
とはいえ運べないほどではない。
前世でエコバッグに詰め込んだ特売のペットボトルや冷凍食品。
あれに比べたら、この程度はむしろ軽い部類だ。
迷っている暇はない。
請求がいつ処理されるかも不明だし、模擬戦の当日に間に合わない、なんて可能性もなくはない。
「持って帰る」
そう答え、腕に少しだけ力を込める。
とはいえ、どうせ直ぐに根を上げる体だ。
辛くなったらリサに持たせよう。
ちらりと後ろを振り返ると、リサはすでにこちらを見ていた。
言わずとも察しているのか、目を細めて小さく笑う。
どうせこの女のことだ、すでに察していて、後でからかってくるのだろう。
「ありがとうごさいました」
店を出る前に、店主が静かにそう言った。
顔を上げず、作業の手も止めぬまま、それでもはっきりと届く声だった。
俺は、手を軽く上げて応える。
深く頭を下げるでもなく、声を返すでもない。
この店には、それがちょうどいい。
静かで、寡黙で、無駄がない。
黙々と物を選び、確かな手で包まれ、それを持って去る――そんな場所だ。
扉を押して外に出ると、陽の光が真っ直ぐに降り注いだ。
先ほどまで、ただ暑く不快に感じていた日差しが、今はどこか心地いい。
頬を撫でる風も、じっとりとした熱気も、不思議と悪くない。
一つ、大きな仕事を終えた。
贈り物は手元にある。もう、褒美のことを考え続けなくてもいい。
頭を悩ませ、選び続ける日々は終わったのだ。
清々しい――そんな気分だった。
「よかったね。良い褒美が見つかって」
エリルが柔らかな声で話しかけてくる。
「そうだな。これなら騎士たちも文句は言わんだろ」
俺は微かに笑みを浮かべて答えた。
これで文句が出たら、正直かなり心に来る。
選ぶのだって大変だったし、センスがないと思われるのも何か嫌だからな。
まあ、冒険者のリサからのお墨付きだ。
自信は持っていいだろう。
「褒美は選び終わったんだ。これからどうするよ」
リサは軽い声で俺の様子を窺う。
俺の答えを待っているのがわかる。
「帰るか。荷物も重い」
俺は包みを抱えながら、どこかほっとした気持ちでそう言った。
「……もう帰っちゃうのかい?」
エリルの声には少し寂しさが混じっているように感じた。
視線も少しだけ揺れて、何か言いたげだったが口を閉ざす。
「用事は済んだからな」
俺は肩の力をふっと抜いて、視線を遠くの空へ投げた。
もともとは三日間、街に出るつもりだったが――もう、その必要はない気がしていた。
騎士たちへの褒美は無事手に入った。あとは、屋敷に戻って身体を休めるだけだ。
「そっか。それじゃあ、明日も街には来ないの?」
少しだけ声の調子が沈んだエリルの問いかけに、俺は視線を戻す。
たしかに、彼女には褒美探しは二日間すると伝えていた。
俺たち三人で歩いたこの時間を、エリルはそれなりに楽しみにしてくれていたのだろう。
「ああ、明日は屋敷で体を休めようと思う」
疲れを癒したい。
たった、二日の買い物程度で何言ってるんだと思われるかもしれないが、この体は本当に貧弱なのだ。
それに、明日は蜜レモンを作ってみようと思っている。
「そうなんだ。当分会えそうにないね」
エリルの声が少しだけ遠く感じられた。
「そうでもない。俺は屋敷で基本暇してる。いつでも遊びに来い」
口元に微かな笑みを浮かべながら、俺は肩をすくめる。
門は堅いが、来客を拒むつもりはない。エリルのような訪問者なら、なおさらだ。
「……ふふ、じゃあ、すぐ行っちゃうかもね」
エリルがふわりと笑った。
その笑顔は、どこか名残惜しさを隠しているようにも見える。
「はー」
そんな空気を、横からため息一つで吹き飛ばしたのは、もちろんリサだ。
わざとらしく肩を回しながら、リサが俺の顔を覗き込む。
「で、ミズキ様。次はいつ空いてるわけ? 昨日の帰りに言ってたろ。河辺で釣りして、その場で魚焼いて食べるってやつ。あれ、日程決めとこうぜ」
さすがというべきか、空気の切り替えがうまい。
ほんのり名残惜しさの残る空気を、自然と次の楽しみに繋げてくれる。
明日、明後日は蜜レモンや模擬戦が入っているが、それを過ぎれば特に用事はない。
いや――用事はないというより、用事を入れようとしなければ、自然と空白になる。
それが貴族という生き物である。
前世の俺が知ったらどう思うだろうな。
平日は仕事漬けだったあの頃じゃ考えられない、堂々たる日程の白さ。
「四日後以降ならいつでもいい」
模擬戦の翌日は一応あけておくつもりだ。
どうせ、あの騎士連中の熱気にあてられて、うっかり訓練に混ざりたくなるに決まってる。
「四日後か。私の予定はスッカスカだから空いてるぜ」
リサが即答する。冒険者は自由な分、暇でもある。
「私も四日後は空いてるよ。注文も落ち着いてるし」
エリルもにこりと笑って言った。
さっき話していた、薬師のような仕事――だが、リサ曰く働いてる日が少ないらしい。
「よくここまで暇な人間が集まったもんだな」
リサが笑いながら言う。俺もそう思ってた。
貴族に、冒険者に、自称・薬師。
肩書きはまるで統一性がないのに、予定表はそろって風通しがいい。
「暇仲間で仲良くしないとだね」
エリルが、くすっと笑いながら言った。
その声音に、どこか愛嬌がある。
「そんじゃあ、四日後。エリルと一緒に、ミズキ様のお屋敷まで迎えに行くわ」
リサが軽く手を振るような仕草で言い、会話を自然に締めくくる方向へ導いてくれる。
こういうまとめ方、やっぱり手慣れてる。
「分かった。時間はいつでもいい。門番に俺を呼び出すよう言ってくれ」
俺もそれに応じるように言葉を返す。
「一般市民が貴族を呼び出すなんてね。こりゃあ、街中の噂になるな」
リサが冗談めかして言う。
声には皮肉っぽさもあるが、笑いを含んでいて嫌味がない。
騎士以外見るやつもいないから、噂にはならんだろ。
「帰るぞ」
俺は腕に提げていた魔冷箱をリサの胸元に差し出す。
もう限界だった。情けない話だが、腕がこれ以上もたない。
リサそれを受け取ると、軽やかにエリルの方へ向き直った。
「はいよ。それじゃあなエリル」
「うん。またね」
エリルも手を小さく振って応じる。
その顔には寂しさも未練も浮かんでいない。ただ、柔らかく、穏やかな微笑を湛えていた。
「またな」
俺も軽く手を挙げて応じると、リサと並んで歩き出す。
馬番のいる方角へと、ゆるやかな足取りで向かう。
道すがら、特に言葉を交わすことはなかった。
だが、それが不思議と心地よい。
無言のままでも気まずさを感じさせない空気――それがリサという人物の在り方でもあった。
馬番のもとにたどり着き、用意された馬にまたがる。
軽く手綱を引いて馬を進ませたそのとき、隣からふと声が漏れた。
「……エリルのやつ、ミズキ様にすっかり懐いちまったな」
リサは楽しげに笑いながら言う。
その声音には、どこかあたたかい色が混じっていた。
「そうか」
俺は短く返す。
実のところ、俺も同じことを感じていた。
エリルの表情や言葉の端々に、それは確かに現れていた。
「合わす前から、二人の相性はいいだろうなとは思ってたんだ」
リサの声はいつになく穏やかで、どこか感慨を帯びていた。
冗談の合間に、ふと本音が覗く。そんな調子。
「でも、ここまでとは思わなかった」
俺は少しだけ視線を上げ、木々の間を抜ける風を感じた。
頬をなでるその涼しさに、妙に心が静かになる。
――俺とエリルの相性がいい、か。
言われてみれば、そういう気配はあったのかもしれない。
ただ、当の本人というのは、案外そういうのに鈍いものだ。
自分たちの間に流れる空気を、意識して眺めることなんて、まずない。
それとも、俺が単に、人の感情に疎いだけだろうか。
そう思いかけて、首を軽く振る。
いや、そうでもない。
少なくとも前世を思い出してからは、他人の心の機微くらいは読めるつもりだ。
「理由は?」
風の中、俺はリサにそう尋ねた。
問いというより、自分の整理のために言葉にしただけかもしれない。
隣を走るリサが、ふと視線を前にやったまま、唇を少しだけ引き結ぶ。
その横顔は、どこか静かで――いつもより、少しだけ大人びて見えた。
「いろいろある、説明するのが面倒だ」
そう言って、にやりと笑う。
その笑顔には、余裕と茶目っ気と、少しばかりの思いやりが滲んでいた。
たぶん、本当はちゃんと理由を考えていたんだろう。
けれど、それを全部並べるのは、らしくないと思っただけで。
「今、仲がいいんだ。それで十分だろ?」
簡潔な言葉なのに、なぜか不思議と、心の奥まで染みこんでくる。
まるで、午後の陽だまりのように。
ふいに吹き抜けた風が、リサの髪をふわりと持ち上げた。
その姿があまりに自然で、あまりに涼やかで――
どうしてか、俺はその瞬間に、夏を感じた。
「一理あるな」
俺は短く答え、空を仰ぐ。
「速度を上げるぜ。この道にも慣れただろ?」
リサの声が、風を切るように響いた。
その声音もまた、どこか清々しい。
「問題ない。……風を浴びたかった」
馬の歩調が変わり、リズムが軽やかになる。
風が、前髪を後ろへとなびかせた。
一度そう思ってしまうと、頭から離れなくなっていた。
言葉遣いも、仕草も、表情も。
やはりこいつは、夏が似合う。
気まぐれで、まっすぐで、時に涼しげで、時に熱を帯びる。
そんな季節そのもののような女だ。
そばにいると、つられて笑ってしまうような、そんな陽気な熱。
貴族としての人生には、あまりなかった色だ。
手綱を軽く握り直し、さらに速度を上げる。
風が頬を撫で、耳元をくすぐっていく。
空は高く澄み渡り、夏の名残がかすかに残る追い風が背を押した。
少し駆けただけで、屋敷の屋根が木々の向こうに見えてくる。
もう少し風を浴びていたかったな。
そう思いながらも、馬の速度を徐々に落とす。
リサも同じように馬を緩めていた。
その隣に馬を寄せて、俺は声をかける。
「契約は三日間の護衛だったが――明日はもう来なくていい」
「分かってるよ。次は四日後だろ?」
リサはそっけなく言うが、どこか楽しみにしている子供のような色も混じっている。
「ただし、その時は……報酬は出ないぞ」
あの三人で出かける日に騎士の護衛を付けるのは無粋だ。
つまり、リサには仲間として護衛してもらう事になる。
「へいへい。どうせ体で返してもらうし?」
リサは軽く肩をすくめながら、どこか芝居がかった声色でそう言った。
真に受けたら誤解を招きそうなセリフなのに、彼女の口から出ると、ただの冗談にしか聞こえない。
明るく笑うその横顔には、悪びれる様子もなければ、下心のかけらもない。
まるで風が吹き抜けるような、からっとした軽やかさだけがある。
俺はわずかに眉を上げて、淡々と返す。
「飯は作れんぞ」
「魚ぐらいは釣ってくれよ?」
リサは手綱を操りながら、俺のほうをちらりと見る。
馬上でもぶれないその視線は、どこか挑発的だ。
こっちは冗談を受け流したつもりだったが、すかさず追い打ちをかけてくる。
こういうところ、まったく容赦がない。
「初めてだ」
短く返した俺の声には、ほんのわずかに困惑が滲んでいたかもしれない。
釣りなんて、前世でもした記憶はない。
「――なら、ママがおもりしてやるか」
リサはひときわ大げさにため息をつき、口元に笑みを浮かべてそう言った。
その横顔は、冗談を言っているくせに、どこか安心させるような優しさを帯びている。
思わず、視線を横に流す。
風に揺れる髪が、金色にきらめいていた。
屋敷が近づくにつれ、俺たちは自然と馬を降りた。
リサは手綱を騎士に預け、軽く首を回す。
俺も続いて馬を渡す。
「今回の護衛、助かったぞ」
俺は静かに言う。形式ばった感謝の言葉ではない。
本心から、簡潔に、ただそれだけを伝えた。
リサはふっと笑い、片手で腰を突きながら肩をすくめる。
「仕事だ。それにあんたと出会えたんだ。礼を言いたいのはこっちさ」
その言葉に、俺は少しだけ目を細める。
素直に喜んでいいのか、冗談の延長と受け取るべきか、判断がつかない。
「そうか」
短く答える。
リサはそれ以上多くは語らず、片手をひらひらと振って背を向けた。
「そういうことだ。それじゃ、私はギルドに行くよ。報告が残ってる」
リサはそう言って、俺の腕に軽く魔冷箱を預けた。
受け取ると、まだ中にひんやりとした空気が残っているのが分かる。
「……ああ、またな」
俺の返事に、リサは振り返らずに手をひらひらと振った。
その背中は、相変わらず迷いも淀みもなく、軽やかだった。
少しだけ風吹いた風が、彼女の髪をさらりと揺らしていた。
俺もいつまでも見送ってないで屋敷に戻るとするか。
使用人にギルドへの支払いを頼まなくてはならないし、
魔冷箱の返却と、いつ届くとも知れない請求書への準備もしておいた方がいい。
焼けつくような陽射しの下を歩きながらも、不思議と気分は重くなかった。
乾いた空気の中を、風だけは確かに吹いている。
そんな風に背中を押されながら、俺は静かに屋敷の門をくぐった。