窓辺のカーテン越しに、眩しい朝の日差しが差し込んでくる。
じんわりと肌を焼く熱気が、確かに朝が来たことを告げていた。
まだ寝ていたい気もするが、二度寝するには暑く寝苦しい。
壁掛けの時計に目をやれば、針は八時半を指している。起きるか。
重たい体をゆっくりと起こし、洗面所で顔を洗い、歯を磨く。
少し動いただけで額に汗がにじむ。
今日の服は、昨日買った甚平だ。
黒地の布が肌にひんやりと触れ、ほんのわずかながら涼しさを感じさせる。
帯を締めながら深く息を吐き、ようやく一日の始まりを受け入れる。
脱ぎ捨てた寝間着は、無造作に籠へと放り込む。
後の処理は、使用人たちが滞りなくこなしてくれるだろう。
すでに朝食の時刻は過ぎている。
アルトに頼んで持ってこさせるか、自ら厨房まで足を運ぶか。
ほんの一瞬だけ思案し、彼は扉の方へと視線を向けた。
貴族としては厨房に自ら足を運ぶなど不作法のうちかもしれないが、今更な気もする。
そもそも少し前までは人間として在り方すら怪しかったのだ。
何より今日は、蜜レモンを作りに厨房の一部を借りる予定だ。
自ら足を運び、言葉で意図を伝えるべきだろう。
扉に手をかけ、廊下に出る。
音もなく開いた扉の先――廊下にはすでに清々しい朝の空気が流れていた。
屋敷のあちこちで、使用人たちがそれぞれの持ち場に散り、手際よく働いている。
足音ひとつ立てぬまま、掃除に、配膳に、帳簿の整理に――貴族の一日は、彼女たちの献身によって形作られているのだと、改めて思わされる。
その中を、先程まで寝台でぬくぬくと眠っていた自分が、これからのうのうと朝食を取りに行くのだ。
どこか申し訳なさが胸の奥に滲む。
部屋を出たすぐ先、廊下の一角に、一人の少女が掃除に勤しんでいるのが見えた。
見覚えのない顔だ。
年の若さや立ち振る舞いからしても、おそらくは新人だろう。
そういえば、この場所は不人気だったな。
理由は、言うまでもない。
以前の俺が、気分次第で怒鳴りつけたり物を投げたりしたせいで、誰も近づきたがらなくなった。
結果、この場所は自然と避けられるようになり、掃除を任されるのは決まって新人ばかりとなった。
いずれ、俺の中身が変わったことが、少しずつ広まっていけばいい。
それが伝われば、この屋敷で働く者たちの息苦しさも、幾分か和らぐかもしれない。
今はただ、その機会を積み重ねていくしかない。
そんな思考の最中、唐突に声が飛んできた。
「お、おはようございます」
掃除に勤しんでいた少女が、こちらの存在に気づいたらしい。
顔を上げるなり、ぎこちなく頭を下げる。
声はわずかに上擦り、動きもどこかぎこちない。緊張が全身に滲んでいた。
「ああ」
短く応じる。
言葉を重ねれば、相手に過度な緊張を与えるだけだ。
早くこの場を離れるのがいいだろうな。
何度か顔を合わせるうちに、この新人もいずれ慣れてくれるはず。
歩みを進めながら考える。
騎士や冒険者、あるいは、俺の過去をよく知らない者たちとの会話は、案外に楽だった。
だが、屋敷で働く使用人たちとなると、そうはいかない。
関係を改めるには、時間がかかるだろう。
まあ、一番被害にあっていたのだ、仕方ない。
そんなことを考えているうちに、厨房の前へとたどり着いていた。
立ち止まり、扉を一瞥する。
勝手には入ってもいいのだろうか。
一瞬だけ迷ったが、すぐに自分の胸中で答えが出た。
ここは自分の家、自分の屋敷だ。
多少のことなら、文句を言う者などいない。
厨房の扉を開け、中へと足を踏み入れる。
朝食の片付けや、昼食の下拵えで忙しいのだろう。
料理人たちは皆、無駄のない動きで手を動かし、声を掛け合いながら所定の持ち場に散っていた。
俺の朝食、まだ残っているだろうか。
「おい、少しいいか?」
声をかけたのは、近くで野菜の皮を剥いていた年若い女性だ。
昼食の準備に取りかかっていたのだろう。
俺の声に、彼女はびくりと肩を震わせて手を止めた。
無理もない。
この厨房に、俺や家族の誰かが自ら足を運ぶなど、まず無いことだ。
だからこそ、誰も俺の存在に気づいていなかったのだろう。
「ミ、ミズキ様……お、おはようございます。このような場所に、いかがなされましたか……?」
声をかけた料理人の女性が、驚きと戸惑いを隠しきれぬまま、慌てて頭を下げた。
その声音には、怯えと困惑が滲んでいる。
それでもなお、礼を欠くまいと俺の名を呼び、挨拶の言葉を絞り出しているあたり、彼女の勤勉さが窺える。
その声に反応したのだろう、厨房のあちこちで作業をしていた者たちも、次第に手を止め始めた。
全員が一様にこちらへ視線を向け、軽く頭を下げてくる。
場の空気に、薄く緊張が漂う。
「朝食を取りに来た」
俺は、そう簡潔に告げた。
余計な言葉は添えない。
威圧にならず、しかし曖昧にもならぬよう、平静を装って声を出す。
すぐに一人の女性が、ゆっくりとした歩みでこちらへ向かってきた。
中年の、落ち着いた雰囲気を纏った人物だ。
厨房の責任者と見て間違いないだろう。
「お持ち致しますので、どうぞお席でお待ちください」
深く頭を下げながら、丁寧に言葉を返してくる。
さすがに場慣れしているのか、先程の若い料理人ほどの動揺は見られない。
「分かった。それと、朝食の後、厨房の一部を借りたい」
俺がそう告げると、女性はわずかに目を細め、少しだけ警戒の色を帯びた表情を見せた。
「厨房の一部、でございますか? 差し支えはございませんが、何かご用途が?」
「蜜レモンを作る。材料は、すでに用意してある」
要点だけを端的に伝える。
女性はすぐに頷いた。疑念も不快感も、表には出さない。熟練者の所作だ。
「承知いたしました。ただ、もし包丁などをお使いになる場合は、私どもが代わりに」
「手伝わなくていい。怪我をしたところで、お前らの責任にはしない」
少しばかり語気が強くなったかもしれない。
だが、言い切ったほうが相手も安心できるはずだ。
貴族の身が刃物で傷を負えば、その場に居合わせた相手の責任にされかねない。
以前セリスとのやり取りで学んだことだ。
「……」
女性料理人は一瞬だけ黙した。
わずかに目元を伏せ、しかしすぐに顔を上げる。
「承知いたしました」
声色は柔らかく整っていたが、微かな間と、ほんの一瞬揺れた視線の動きに、内心のわだかまりが滲んでいた。
貴族の言葉に真っ向から異を唱えることはできない。
だが、申し出を退けられるのは、やはり少しばかり不本意なのだろう。
ましてや、面倒ごとになりかけない種だ。俺は面倒をかけるつもりはないがな。
「朝食はでき次第、食卓に持ってきてくれ」
そう伝えるや否や、俺は返事を待たずにくるりと背を向け、食卓へと歩き出した。
後ろから小さく聞こえたのは、整った声の返答。
「かしこまりました」
無言のまま、食卓へと向かう足を進めながら思索に沈む。
屋敷の人間たちは、常に俺が怪我をしないよう気を遣ってくる。
その過剰なまでの慎重さには、もちろん理由がある。
俺には「政略結婚の駒」という価値があるのだ。
おそらく、俺の親が使用人たちに「傷一つつけるな」と念を押しているのだろう。
こんな状況で、騎士の訓練に参加など許されるのだろうか。
あの場には剣があり、体術があるのだ。かすり傷ぐらいなら日常茶飯事だろうしな。
俺は意地でも参加したいが、訓練に同行する騎士たちに余計な負担をかけるのは、申し訳ない。
親に一言伝える必要あるよな。
許してくれるだろうか。
基本的に俺には甘い人ではあるんだが。
俺は食卓の椅子を引き、腰を下ろした。
問題は、どう話すかだな。
丁寧に言い回しても、言葉が空回りするくらいなら、いっそ正面からぶつけたほうがいいのかもしれない。
口が上手いわけじゃないし、駆け引きも得意じゃない。
貴族は貴族で面倒なことがあるよな。
まあ、社会人ほどじゃないけど。
いっそ、問題が起きてから親に伝えに行こうか?
冗談がすぎるな。それだと結局、騎士たちに、迷惑をかけることになる。
朝食を食べ終えたら親の部屋に行くか。
楽しいことは後に残すのがいい。
蜜レモンの作成は、そのあとでゆっくりやるか。
そう考えて、ふっと一息をついた頃――足音が静かに近づいてくる。
「失礼いたします。朝食をお持ちしました」
先ほどの料理人の女性が、膳を両手に抱えて現れる。
動きは淀みないが、伏せがちな目元には緊張が滲んでいた。
皿がカチャリと揺れる音が、朝の静けさにわずかに響く。
「助かった。下がっていいぞ」
なるべく柔らかく伝えたつもりだ。
これ以上、気を張らせては申し訳ない。早く厨房に戻してやろう。
彼女は一瞬だけ戸惑ったように首を下げると、無言のまま静かに踵を返し、奥へと消えていく。
出された朝食は、焼きたてのパン。湯気の立つスープ。軽く炒めた野菜。そして、ハーブの香る卵料理。
華美ではないが、丁寧に手がかけられているのが伝わってくる。
朝の暑さに疲れかけた体へ、じんわりと沁みるような優しさがある。
口に運びながら思う。
前世では一人暮らしの男性ということもあり、インスタント食品や外食が多かった。
もちろん体に悪くて、栄養バランスも偏っているとは分かってはいたが、自炊する気力がなかった。
今は家で料理してくれて、栄養バランスも考えてくれる料理人がいる。
……贅沢なことだ。
食後の皿を端に寄せ、立ち上がる。
軽く伸びをしながら、もう一度、自分の中で決意を固める必要がある。
いやいや行くのだから、仕方ない。
――よし、行くか。
決意だけなら簡単に済んでしまう。
むしろ、問題はいつも、そのあとにある。
なら、思考が鈍る前に動いてしまおう。
屋敷の廊下を進む。
まだ朝の早い時間帯だ。使用人たちの動きも少なく、窓から射す陽光が白い壁に淡く滲んでいる。
親の部屋は屋敷の東側、屋敷の中でもひときわ静謐な区画にある。
正面玄関からも遠く、来客や騒がしさとは無縁の場所だ。
母親との記憶はどれも柔らかく、そして少し眩しい。
優しさも、ぬくもりも、惜しみなく与えられた。
けれど、女性嫌いを発症してからというもの、言葉を交わす時間は目に見えて減った。
反抗期が過ぎた青年が久しぶりに母親に話しかけに行く。
今の自分の姿を言葉にすれば、それが一番近い。気まずさと、妙な照れ臭さが入り混じる。
会いたくない理由なんて、いくらでも挙げられた。
今じゃなくてもいい、話すほどのことでもない――そんな言い訳が、心の内でぐるぐると渦を巻く。
ただ、体は止まらず、部屋前に着く。
扉の前に立ち、しばし無言で深呼吸を一つ。
手のひらに汗が滲んでいるのを、自分でもおかしく思う。
親子の間柄に改まった礼儀など不要だと、理屈ではわかっている。
だが今この瞬間ばかりは、妙に身構えてしまう。
ノックを三度、小さく打つ。
「俺だ、少し話したいことがある」
数秒の沈黙ののち、扉越しに穏やかな声が返ってきた。
「……入りなさい」
扉を開けると、室内には淡く香る花の香りと、ほんのり温かな空気が満ちていた。
日差しを取り込んだレースのカーテンが揺れ、部屋の奥では一人の女性――母が、椅子に腰掛けていた。
廊下で見かけることはあっても、こうして面と向かうのは、ずいぶんと久しい。
その姿は以前と変わらず、優雅で、どこか儚げで。
「おはよう、ミズキ。……朝食は、ちゃんと食べた?」
顔を上げた母の声は、昔と同じ優しさを帯びていた。
けれど、その瞳の奥には、息子の気配を探るような細やかな観察の光が揺れている。
「……ああ、食べた。うまかった」
「そう、ならよかったわ。……それで?」
机の上には数冊の本と、香炉と、ペンと手紙。
それらはそっと脇へ寄せられ、母の視線はまっすぐミズキへと向けられていた。
俺は扉を閉め、ゆっくりと歩を進める。
「……騎士の訓練に、参加したいと思ってる」
口にしたその一言に、揺らぎはなかった。
だが、胸の奥ではさざ波のように、微かな緊張が続いている。
心からのお願いともなると緊張するものだ。
相手が母であったとしてもだ。
母は表情を崩さず、静かにその言葉を受け止めた。
まるで時間が一拍遅れて流れ始めたような空気の中で、彼女はそっと目を細める。
「……そう。理由は聞いても、いいかしら?」
その問いは、詰問でも拒絶でもない。
ただ、俺の本心を知りたい――そう語るような優しい声音だった。
「ただ単に、体を鍛えてみたくなった。それだけだ」
口にした言葉は、簡素で飾り気のないものだった。
けれど、それこそが、俺にとっての誠実な答えだ。
「……そう。それだけ、ね」
母は目を伏せ、ほんの一瞬、考えるようにまつげを震わせた。
「少し……考え方が変わったのかしら?」
その問いは、探るような声音ではなかった。
ただ静かに、寄り添うように、変化の兆しを受け入れようとする母の声。
少しか。
俺はわずかに目を伏せた。
そう言えれば簡単なんだが――実際は、そんなレベルじゃない。
前世の俺も、今の俺も、同じ“俺”だと思ってる。
でも、母からすれば……ある日突然、見たことも聞いたこともない価値観で話し、振る舞う息子に、どこか遠さを感じていたかもしれない。
「……少しじゃないだろ」
正直な本音だった。
小さな変化じゃない。俺は――根本から、変わってしまった。
母はふっと微笑んだ。
それはほんのわずかに、寂しさを含んだ微笑みだった。
けれど、その奥にはどこか満ち足りたような、誇らしさのようなものも滲んでいて。
なんとも言えない、温かな“母の色”がそこにあった。
「少しよ」
母の瞳の奥に宿るのは、優しさでもなく、甘さでもなく――信頼。
「根っこは変わっていないわ。ちゃんと顔を見ていれば、わかるものよ。あなたは、あなたよ」
たったそれだけの言葉だった。
特別な言葉には思えないありきたりな言葉。
ただの甘い慰め――そう割り切ろうと思えば、できなくもない。
ただ、それだけのはずなのに、どうしてだろう。
胸の奥に、じんわりと染みてくる
言葉にはとてもできない、母の温かさを感じた。
もっと話していればよかった、もっと一緒にいればよかった。
今更、後悔があふれてくる。
これ以上考えたらだめだな。涙が出る。
だから、話を戻した。
「それで、騎士の訓練に参加してもいいのか?」
声は、思ったより落ち着いていた。けれど、胸の内にはまだ微かな震えが残っていた。
母はしばらく黙ったまま、俺を見つめていた。
揺れない瞳で、まっすぐに。
「あなたがそうしたいと思うのなら、反対はしないわ」
それは許可ではなく、信頼の言葉だった。
干渉でも指導でもなく――ただ、選ばせてくれる言葉。
「そうか、ありがとう」
「母さん、今日話せてよかった。よかったら今度ゆっくり話そう」
母の唇が、ほのかにほころぶ。
「今日でも構わないのよ?」
驚きに一瞬戸惑ったが、すぐに微笑み返した。
「この後は蜜レモンを作る」
「一緒に来るか?」
今まで離れていた時間を埋めるように、少し勇気を出して誘ってみる。
母の目が、一瞬だけ驚きと喜びで輝いたように見えた。