昨日の書類を片付けなければならない。
それに、お得意先にも顔を出さねばならない。
ぼんやりとした意識の中で目を開けると、真っ先に仕事のことが脳裏をよぎった。
眠気は残っている。できることなら、あと五分、いや十分快眠を貪りたいと思う。
しかし、起床せざるを得ない理由が、重くのしかかっている。
口の中は異様に気持ち悪く、喉は乾き、舌はざらついている。
まずは歯を磨こうと、重い身体を引きずりながら洗面台へ向かった。
だが、その先で違和感に襲われる。
ここは、自分の家ではない。
不可解な感覚に戸惑い、立ち上がったばかりなのに、またベッドへ腰を下ろしてしまう。
頭の中では二つの人生の記憶が交錯していた。
一つは前世、もう一つはこの身体に宿る現在の人生の記憶。
なるほど、そういうことか。
どちらも自分なだけだ。ただ前世を思い出したようだ。
だが、なぜ突然このような境遇に置かれたのか、考えても全く答えは見つからない。
この世界は男女比が著しく歪んでいる。
おおよそ十対一——正確な数値は知らないが、男の価値が極めて高い世界だ。
加えて、俺は貴族の子息でもある。名はミズキ・ヴェルノート・ネフェリウスだ。
前世でそんなに徳を積んだ覚えはないのだが……。
ただ、一つだけ問題がある。
——この身体の性格が、あまりにも悪すぎる。
端的に言えば、周囲からは嫌われていると言って差し支えない。
この状況——つまり、内と外、二つの視点を同時に持てるおかげで、自分自身の性格を客観的に見ることができる。
恵まれすぎた立場は、良い方向には働かなかったのだろう。
驕りが慢心を生み、人の心を踏みにじってきたのだ。
人間関係は、時間をかけて改善できればそれでいい。
焦る必要はない。
——まあ、いい。
まずは、朝の支度を済ませるとしよう。
歯磨き、洗顔——その他諸々の支度をひと通り済ませた。
さて、次は朝食だ。
これまでの自分なら、たとえ家族であっても、女性たちと同じ席で食事をするなど、願い下げだった。
だが今は、不思議とそのような考えも消えている。
もっとも、だからといって、いきなり性格が変わったかのように振る舞うのも、
どこか気恥ずかしい。
いい子になるとはいえ、俺は、根がシャイなのだ。
今日は自室で済ませよう。
いきなり性格が変わったように振る舞えば、不審がられるのは目に見えているしな。
少しずつ——ゆっくりと、俺の変化を察してもらってから、食卓を囲む場に顔を出すとしよう。
あと一時間もすれば、使用人が食事を運んでくるはずだ。
それまでの間に、服の整理でもしておこうか。
明らかに高価すぎる服——宝石をあしらった堅苦しい衣服は、どうにも気が進まない。
趣味が変わったのだろう。いや、正確には、前世の趣味が影響しているのだ。
かつての俺は、高級な服を好んではいなかったが、文明はこちらの世界より遥かに進んでいた。
だからこそ、肌触りの良さや着心地の良さを、自然と求めてしまうのだ。
できることなら、それに近い服を選びたい——そう思って衣装棚を漁ってみたが、無駄だった。
それらしいものは一着もない。
せいぜい、外出用として着られるのはスーツ風の服くらいのものだ。
まあ、服装については、いずれ親にでも頼んで新調してもらえばいいだろう。
スーツ風の服に身を包み終えたその瞬間、ノックの音が静かに部屋へ響いた。
どうやら、使用人が朝食を持ってきたのだろう。
「入れ」
短く命じると、扉が開く。
姿を現したのは、俺とさほど年の変わらぬ青年——いや、まだ少年と呼ぶべきか、青年と呼ぶにはいささか幼い顔立ちだった。
この年頃の区別は、なかなかに曖昧だ。
「失礼します。本日の朝食をお持ちいたしました。本日のメニューは、トマ——」
「内容はいい。机の上に置いてくれ」
少年の言葉を遮るように、短く指示を出す。
柔らかさを欠いた口調は、どうしても身体に染みついたものだ。
思わず苦笑が漏れそうになるのを、なんとか抑えた。
もっとも、すぐに口調まで改めるつもりはないから気にしない。
それはさておき——。
俺の為に、わざわざ希少な男性の使用人を雇っていたことを思い出す。
この世界では、男性は貴重な存在だ。
当然ながら、彼を雇うには相応の高給が支払われているのだろう。
そう思うと、申し訳ない気持ちが湧き上がる。
もっとも、今となっては女性嫌いも消えてしまった。
もはや、世話をしてくれる相手が誰であろうと、気にするつもりはない。
だからといって、目の前の少年を解雇する気にはなれなかった。
これまで彼は、よくしてくれたのだ。
こういう情にほだされやすいところは、前世から持ってきたのだと思う。
「承知いたしました」
少年は淡々とした表情のまま、慣れた手つきで机の上に次々と皿を並べていく。
一つひとつの動作に迷いはなく、所作は静かで、無駄がない。
貴族の屋敷に相応しい礼節と美しさを備えた動きだった。
その様子をぼんやりと眺めながら、ふと、礼を言いたくなった。
日本人は、礼を重んじる民族だ。
それは、前世の自分に深く刻まれていた価値観だった。
だが、この身体——この人格は、どう考えてもそんな言葉を口にしそうにない。
今までの記憶を辿る限り、この人物は、誰かに感謝の言葉をかけたことすら、ほとんどなかったのだろう。
それゆえに、どうにも緊張する。
たった一言——「ありがとう」。それだけの言葉が、どうしても喉につかえて出てこない。
わずか一言が、これほどまでに重くのしかかるとは思ってもいなかった。
これは、間違いなく自業自得だ。
過去の振る舞いの積み重ねが、今のこのぎこちなさを生んでいる。
だが、だからといって、言わなくていい理由にはならない。
人間関係の改善は、今後の最優先事項だ。
この世界で生きていく以上、周囲と良好な関係を築かなければ、不便なのは目に見えている。
ましてや、相手は男性だ。
かつての自分は、女性に対してのみ異常な嫌悪と攻撃性を向けていたが、男性に対しては比較的穏やかだった。
まずは、この少年との関係から少しずつ慣らしていくのが良いだろう。
わずかに息を吸い、喉の奥でつかえていた言葉を、無理やり押し出すようにして声にした。
「……感謝する」
ぎこちない。
言い慣れない言葉は、舌に絡まりそうになりながらも、なんとか形をなして外に出ていった。
それは、たった一言にすぎない。
少年は、一瞬だけわずかに目を見開いたが、すぐに微かに頭を下げると、何事もなかったかのように静かに部屋を後にした。
残された空気には、わずかに満たされた静けさと、自分でも不思議に思うほどの達成感が漂っていた。
俺は机の前に腰を下ろした。
前に置かれた料理は、朝食としてはあまりにも豪華だった。
皿の上には、彩り豊かな野菜、香ばしく焼き上げられた肉、ふんわりとしたパン、湯気の立つスープまで揃っている。
これが、この世界の貴族の「普通」なのだろう。
前世では、朝食など適当に済ませるものだった。
インスタントのコーヒーと、パンか菓子でも口に放り込めば、それで十分だった。
比べるまでもない。
一言、礼を口にしただけで得られた、妙な達成感。
そして、目の前には、腹が満たされるには十分すぎるほどの料理。
まるで、大きな仕事を終えた後の、自分へのささやかな褒美のように思えた。
そんなことを考えながら、ナイフとフォークを手に取る。
フォークで野菜を刺し、口へと運ぶ。
当たり前のことだが——この世界には箸が存在しない。
そのたびに、前世の記憶が顔を出し、わずかな不便を感じさせる。
料理の味は、前世と比べればどこか薄く、控えめだ。
だが、スープの香りは良く、パンも好みの風味だった。
丁寧に作られたことが、素朴ながらも伝わってくる。
やがて腹が満たされる。
朝からこれほどしっかり食べたのは、いつ以来だろうか。
不思議と心も落ち着いていく。
さて、食べ終わった皿をどうしたものか——。
思い返せば、今まではそのまま放置していた。
気づけば、いつの間にか片付けられていたからだ。
おそらく、例の少年が、俺が部屋を離れた隙に処理していたのだろう。
少年は、俺の部屋への出入りを自由に許されていた。
今回も、彼に任せるとしよう。
貴族は、皿を自ら下げるようなことはしない。
今さら、そこまで律儀になる必要はないだろう。
それにしても——。
さて、これからどうするか。
この肉体には、もはや特に急ぎの用事もない。
ましてや、貴族の学校は、つい先日卒業したばかりだ。
十二歳から十七歳までの五年間、しっかりと学びを受けてきた。
読み書きは一応できるし、簡単な計算も教わった。
——しかし、あらためて思えば、学びの水準は低い。
この程度で卒業とは……やはり、男性だからこそ、甘やかされていたのだろうか。
貴重な存在ゆえの、ぬるま湯だったのかもしれない。
どう考えても、前世の知識のほうが役に立つだろう。
そう、痛感せざるを得なかった。
できることなら——剣技や魔法も学んでみたかった。
この世界では、どちらも広く盛んであり、決して他人事では済まされない。
何しろ、この世界には魔物が存在し、各地にはダンジョンが点在している。
剣を鍛えれば、筋肉は鋼のごとき強靭さを得ることができ、魔法を極めれば、広範囲に甚大な破壊をもたらす術すら行使可能となる。
もちろん、どちらの道も生まれ持った才能がものを言うが、それはどの分野でも同じだ。
しかし、どちらも挑戦すらしてこなかったのは、さすがに勿体なく思えてきた。
肉体を鍛えることなら、今からでも遅くはないだろう。
だが、魔法となると話は別だな。
おそらく——手遅れだ。
この世界の常識として、魔法は才能あるものが幼少期に鍛え始めなければ大成しないとされている。
子どものほうが成長速度が早く、魔力量も増えやすい。
成人後に鍛えたところで、一般的には大きく開花することはない。
その理由は、どうやら体内に宿る魔力量の「器」の成長が年齢と共に固まってしまうためらしい。
これは、誰もが知る当たり前の知識だった。
魔法の存在する世界でありながら、その道を選べないというのは、いささか寂しい話だ。
だが、そうであるならば、剣士を目指し、肉体を鍛えるのも悪くはない。
ついでに、わずかでも魔法を磨いてみる価値はあるかもしれない。
どのみち、俺には時間だけはある。
この世界には、ゲームもなければ、携帯電話も存在しない。
暇を持て余すくらいなら、己を鍛えるほうが、よほど有意義だろう。
——まあ、だからといって、自堕落な生活が嫌いというわけではない。
前世では、仕事に追われる日々だった。
土日は、ほとんど何もせず、ただ眠り続けることが唯一の楽しみだったくらいだ。
そう考えれば、今こうして、何も強制されず、自分の意思で行動できること自体が、すでに贅沢なのかもしれない。
だが——そんなことは、今はどうでもいい。
せっかくならば、早速、本場の剣技というものを見に行ってみたい。
どうせなら、この世界ならではの「力」に触れてみるのも悪くない。
我が家は貴族——ネフェリウス家だ。
当然のように、お抱えの騎士隊を持っている。
だが、考えてみれば、俺はその騎士たちがどこで訓練しているのかすら知らない。
足を運んだこともなければ、知識としても欠けている。
貴族の子息でありながら、あまりにも無関心だった証だろう。
少しばかり、歩き回って探してみるとしよう。
あるいは、誰かに場所を尋ねてもいい。
そう考えながら、扉を開け、廊下へと足を踏み出す。