本来ならば、何度も目にしてきたはずの屋敷の景色——それが、今の俺には妙に新鮮に映る。
見慣れたはずの廊下。だが、意識が変わっただけで、すべてが違って見えるのだから不思議だ。
天井からは、煌びやかなシャンデリアが吊るされている。
壁には、精緻に描かれた大きな絵画が掛けられ、その隣には装飾の施された甲冑が静かに佇んでいた。
足元に敷かれた絨毯は深紅に染まり、歩みを進めるたびに柔らかく沈む。
やがて吹き抜けの大広間に出ると、大きな窓から差し込む陽光が、磨かれた床に柔らかく反射していた。
窓の向こうには、手入れの行き届いた庭園が広がっている。
鮮やかな花々、中央に据えられた噴水、その水面に踊る光——すべてが、絵のように美しかった。
——圧倒される。
これまで、どれほどこの贅沢な景色を当然のものとして見過ごしてきたのだろう。
まったく、貴族というのは——つくづく、常識が狂っている。
「おっと、悪い」
よそ見しすぎたな。俺は、廊下で掃除をしていた使用人に、軽く肩をぶつけてしまった。
相手は若い女性だ。驚いたように目を見開き、手にしていた雑巾を落としかける。
慌てて後ずさり、深々と頭を下げた。
「も、申し訳ございません……! 私が、不注意で……!」
反射的に自分の非を詫びるその姿に、俺は苦笑しそうになる。
どう見ても、悪いのは俺のほうだ。
——いや、今までの俺なら、きっとこの場面でも一切謝罪せず、むしろ不機嫌に怒鳴っていたのだろう。
そういう記憶が、はっきりと頭の中に残っている。
「いや、気にするな」
使用人の女性は、顔を上げて目を丸くし——すぐに、また深々と礼をした。
彼女の表情には、驚きと困惑と、わずかな安堵が混じっているように見えた。
怒鳴らないだけで驚かれる始末だ。なんとも、気恥ずかしいものだ。
「……一つ、聞いていいか」
女性使用人は、ピクリと肩を揺らし、すぐに姿勢を正した。
「は、はい。なんなりと」
「騎士たちの訓練所って、どこにある?」
俺の問いかけに、彼女は一瞬きょとんとし——次いで、わずかに首を傾げる。
それも無理はない。
貴族の子息が、わざわざそのようなことを尋ねる必要など、本来ならばないはずだ。
「訓練所……でございますか?」
「ああ。少し、見学してみたくてな」
言葉を選びながら、少し柔らかく答える。
彼女は戸惑いの色を浮かべながらも、やがて小さく微笑み、静かに頷いた。
「はい。中庭を抜けた先、右手の小道をお進みいただければ、訓練場がございます」
「そうか。助かった」
感謝の言葉もつっかえずに出てきた。少年で練習した甲斐があったな。
ふと、横目に映った彼女の表情が、わずかに和らいでいるのが見えた。
——俺の応対が、思いのほか穏やかだったからか。
あるいは、ただ俺が立ち去るから、安堵しただけなのか。
正解はわからない。
それにしても——今の使用人にしても、少年にしても、俺は彼らの名前すら憶えていない。
それが、この身体の持ち主だった俺の性格の悪さを、嫌でも物語っている気がする。
特に、あの少年などは、三年も身の回りの世話を任せてきたというのに、だ。
今度、きちんと名前を聞かないとな——せめて、そのくらいは。
そんなことをぼんやり考えながら、俺は足を進めた。
外に出てからは中庭に吹き抜ける風が心地よく、噴水からは涼やかな水しぶきが舞い上がっている。
夏の日差しは容赦なく照りつけていたが、木陰を選んで歩けば、それほど不快でもない。
——そういえば、前世の最後も夏だったな。
妙な偶然に、ふっと笑いそうになる。
「こんなところに、何かご用でしょうか?」
不意にかけられた声に、はっと顔を上げる。
また、考え事で前を見ていなかった。
我ながら、学ばない男だと思う。
目線を相手に合わせると、そこにいたのは、先ほどの使用人よりも体格のいい女性だった。
騎士団の制服に身を包んでいるが、上着のボタンは外され、襟元も緩められている。
どうやら休憩中の騎士らしい。
「暇つぶしだ。少し、見学させてもらう」
なるべく淡々と、それでいて柔らかさを意識して返す。
「かしこまりました。では、案内させていただきます」
丁寧な返事だが、わずかに戸惑いが混じっているのがわかる。
それよりも、案内か——してもらってもいいが、相手はどう見ても休憩中だ。
せっかくの一息つける時間を邪魔するのも気が引ける。
それに、広そうな場所なら、自分の足でゆっくり見て回るのも悪くはない。
「いや、案内は必要ない」
そう断ろうとしたが——
「そういう訳にはまいりません」
即座に返ってきた言葉は、きっぱりとしたものだった。
「ここは訓練場です。危険な場所ですので、お一人で入られて怪我でもされたら……大変ですので」
その表情は真剣で、礼儀正しいながらも、言葉の端には微かな緊張が滲んでいる。
なるほどな。
そこまで考えが及ばなかった。
彼女の言う「大変」というのは、もちろん俺自身の怪我を案じての言葉だろうが——
本質はそこではない。
俺に怪我でもあれば、騎士団が、あるいはこの騎士自身が、ネフェリウス家から厳しく叱責を受けるのだろう。
俺は、貴族の子息——政略結婚の駒として、大切に“管理”される立場だ。
この世界では、男は希少だ。ましてや貴族ともなれば、なおさらだ。
口には出さずとも、相手の言葉の裏まで読んで、ふっと小さく息を吐いた。
「……わかった。頼む」
ほんの少し、ためらいながらもそう返す。
断り続けても仕方がない。
「かしこまりました」
騎士は微かに表情を緩め、丁寧に一礼して歩き出す。
その背を追いながら、俺もゆっくりと歩みを進めた。
屋敷の外れに位置する訓練場へと向かう道は、静かで、木漏れ日の差し込む石畳が続いていた。
足音は控えめに、風が葉を揺らす音だけが耳に心地よい。
「……少し、驚きました」
前を歩く騎士が、ふと小さく呟いた。
わずかに笑みを含んだ声だった。
「何がだ?」
「いえ、ミズキ様がこうして、見学にいらっしゃるとは思いませんでした」
まあ、当然だろう。今まで一度も足を運んだことがないのだから。
この世界では、男は何よりも安全と安寧を優先し、生涯を静かに過ごすことが望まれる。
貴族の子息として場所すら知らなかったのは、さすがに自分でもどうかと思うが。
「俺も少し体を鍛えようと思ってな、気になったから足を運んだ」
言葉にすると、我ながらどこかぎこちない。
それでも、騎士は驚いたように目を丸くし——やがて穏やかに微笑んだ。
「それは、良いことかと存じます」
「ところで——お前の名前を聞いてもいいか」
先ほど考えていたことだ。
屋敷の人間全員の名前を覚えるのは骨が折れるが、せめて接点のあった相手くらいは、きちんと記憶しておきたい。
言葉をかけた瞬間、騎士の動きがわずかに硬直するのがわかった。
視線が微かに揺れ、緊張が肌を伝ってこちらにも届く。
「……セリス・アーデルハイトです」
少し間をおいて、静かに告げられたその名前は、どこか固い響きを帯びていた。
やはり、俺が名前を尋ねるという行為自体が、彼女にとっては警戒すべき事態なのだろう。
以前の俺は、名前を聞くときは決まって親に告げ口をし罰するときだったからだ。
せっかく少し話しやすくなっていた空気が、また元の冷たさに戻ってしまった気がした。
ほんとろくでもない奴だよ、俺は。
「安心しろ。罰するつもりはない」
威圧にならないよう、言葉を選ぶ。
「名を知らんと、不便だから聞いただけだ」
セリスはわずかに戸惑い、だが、やがて小さく頷いた。
その横顔は、ほんのわずか——ごくかすかにだが、張りつめた緊張が和らいで見えた。
今後は、人に名前を聞くときは前振りが必要かもしれない。
今回だったら、案内のお礼に何か褒美を出すとか——それくらいの気配りはした方がいいだろう。
そんなことを考えているうちに、俺たちは訓練場の前にたどり着いた。