そこは、広々と開けた空間だった。
陽光が容赦なく降り注ぎ、遠目で見える騎士たちは黙々と走り込みや型の稽古に励んでいる。
剣が振るわれる音、乾いた掛け声、踏みしめる足音——静かな屋敷とはまるで別世界だ。
なるほどな。
さっきセリスが屋敷の近くにいた理由がようやくわかった。
あれは単に、日陰を選んでいただけなのだろう。
これだけの直射日光の下で、訓練し続けるのはさすがに過酷すぎる。
「セリス、この訓練場に体を休める場所はあるのか?」
今後、俺もここに通って体を鍛えるつもりだ。
気になることは、今のうちに聞いておいた方がいい。
セリスは小さく頷き、少し柔らかい表情になった。
「一応、武器庫があります。簡単な休憩もできます。……説明ついでに、案内いたします」
セリスの後ろを、少し距離を空けてついていく。
途中ですれ違う騎士たちは、皆一様に驚いた顔を見せ、戸惑いの色を隠せていない。
まあ無理もない。
一旦、放っておくことにする。いつか、俺の内面の変化に気づいてもらえれば、それでいい。
「こちらが武器庫になります。少々お待ちください。」
セリスがそう言って扉を開け、中へと姿を消す。
待つこと数十秒。
中から七、八人の騎士たちがどやどやと出てきた。
皆、日差しを嫌ってここで休んでいたのだろう。
まるで岩陰に隠れていたダンゴムシみたいだな……なんて思いながら、俺は小さく息を吐く。
「休憩中、悪いな」
そう声をかけると、騎士たちは一瞬ぎょっとしたような顔をし、頭を下げながら武器庫への道を開ける。
道が開いたのを見て、俺は一歩、扉の内側に足を踏み入れた。
途端に、ほんのわずかに冷えた空気が肌を撫でる。
窓はなく、厚い石造りの壁と天井が熱を遮っているのだろう。
それだけで、外の焼けつくような陽射しとの違いに、少しだけほっとする。
室内は広く、壁一面に武器が整然と並べられていた。
鉄と鋼の光沢、鈍く鈍色に輝く刃。
大剣、長剣、短剣、斧、槍——中には見慣れぬ形状のものもいくつかある。
すべてが美しく手入れされ、木製の武器掛けにきちんと並んでいる。
天井の梁には、大小様々な盾まで吊るされていた。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。
男の子なら、いや、大人でもこれは心躍る光景だろう。
セリスはすぐ横で静かに立ち、微かに微笑んでいる。
「武器は全て、定期的に鍛冶師によって整備されています。防具や矢筒などもこちらに保管されております」
説明を聞きながら、俺はふと一振りの剣に目を奪われた。
飾り気はないが、鋭く研ぎ澄まされた刃。
鍔の造りも美しく、柄には細やかな細工が施されている。
気がつけば、手が伸びていた。
真剣——本物の剣を、無意識に手に取ろうとしていた。
「お待ちください!」
セリスの声が、思いのほか強く響く。
振り返ると、彼女は少し慌てたように、だが真剣な表情でこちらを見つめていた。
「それは……真剣です。危険ですので、どうかお控えください」
俺は思わず手を止めた。
指先が触れる直前で、静かに息をつく。
「ああ……悪い。ちょっと興味が湧いただけだ」
セリスはほっとしたように小さく息を吐き、微笑み直した。
「訓練用の木剣でしたら、そちらにございますので……そちらからお試しください」
指差された先には、無造作に積まれた木剣や練習用の防具が置かれていた。
——そうだな。
まずは、そこから始めるべきだろう。
俺は苦笑しながら、真剣から手を離し、代わりに木剣の方へと歩み寄った。
木剣の置かれている台に手を伸ばし、適当に一本を選ぶ。
思っていたよりもずっしりと重い。
——木でこれなら、本物の剣はどれほどの重さだろうか。
「……意外と重いな」
自然と声が漏れると、セリスは小さく微笑んだ。
「初めて手にする方は、皆そうおっしゃいます」
「慣れれば、その重さも力に変わりますから」
彼女は柔らかな声でそう言い、俺の正面に立つ。
一歩だけ近づいて、俺の手元にそっと視線を落とす。
「もしよろしければ、少しだけ構え方をお教えしても?」
優しく問いかけられ、俺は思わず苦笑した。
随分と初心者扱いだが——まあ、事実そうなのだから仕方ない。
「頼む」
短くそう返すと、セリスは静かに頷き、俺の手元を丁寧に見つめる。
「まず、利き手をこちら。反対の手は軽く添えるだけです」
「剣先は少しだけ下げて、身体の中心を意識して……はい、その調子です」
指示に従いながら、彼女の落ち着いた声を耳で追う。
間近から伝わる気配が、不思議と心地よい。
「……さすがだな」
つい口をついて出た言葉に、セリスは少しだけ驚き、微笑み直した。
「幼い頃から、剣はずっと触れていますから」
俺は自分だけで構え直し、試しに軽く木剣を振ってみる。
セリスは見守るように静かに立っている。
「そのまま、力みすぎずに——はい」
空を切るわずかな風音が耳に残った。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がじわりと高鳴る。
「……楽しいな、これ」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
剣を振る。ただそれだけの行為が、こんなにも面白いとは思わなかった。
セリスは少し目を丸くし、それから柔らかな笑みを浮かべる。
「そう言っていただけるなら、嬉しいです」
その言葉と微笑みに、俺も小さく笑った。
彼女の目に映る自分は、もう昨日までの俺とは、違う表情をしているだろうか。
セリスの真面目でありながら、どこか掴みどころのない雰囲気に、知らず知らず乗せられてしまっている。
気がつけば、もうすでに素の俺が顔を出し始めていた。
まあ、別に隠しているわけじゃない。
ただ——いきなり性格を変えるのが、ちょっと恥ずかしかっただけだ。
「ミズキ様、武器庫はこのぐらいにして、訓練場の広場の案内をさせていただきますね」
「そうだな、次に向かうか」
俺は木剣を元の場所にそっと戻す。
手のひらに残るわずかな木の感触が、なぜか名残惜しく感じられた。
剣を握り、振る——ただそれだけのことが、こんなにも楽しいとは思わなかった。
騎士たちが振る“本職の剣”を、この目でじっくり見たい。
そんな期待が、胸の奥で静かに膨らんでいく。
セリスの後ろについて歩きながら、俺は無意識のうちに足取りを速めていた。
武器庫を出た瞬間、容赦ない日差しが肌を刺した。
焼けた石畳からは熱気が立ち上り、空気が揺らめいて見える。まるで世界そのものが歪んでいるかのようだった。
遠目に見えるのは、黙々と訓練に励む騎士たちの姿。
だが、揺れる空気のせいで彼らの動きは蜃気楼のように曖昧で、しっかりとは捉えきれない。
けれど、歩を進めるにつれ、その輪郭は徐々に鮮明になっていく。
剣が風を切る音、鋭く響く掛け声、踏み込む足音——そのすべてが、一つの整ったリズムとなって訓練場に広がっていた。
ただ見ているだけで、胸の奥がわずかに高鳴るのを感じる。
「目で追うことすらできないな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
目の前の動きは、人間のそれとは思えない。まるで高速で動く人型の影のようで、腕の振り、足の踏み込み、そのすべてが俺の認識を置き去りにする。
何だこの世界は——。
ほんの少しだけ剣を振っただけで、風圧が肌に心地よく当たり、その風が巻き上げた土埃が汗ばんだ肌に張り付く。
やがて、訓練していた騎士たちも俺たちの存在に気づいたらしい。
次第に動きが緩やかになり、最後の型を収めると、整列して頭を下げた。
「気づくのが遅れ、申し訳ございません!」
真面目な顔つきで礼をする騎士に、俺は小さく首を振る。
そのくらいで謝らなくてもいいのに、と思う。
「気にするな。見事な剣技だな」
素直な感想をそのまま口にする。
——まあ、正直なところ、速すぎて半分以上は見えていなかったのだが。
俺の言葉に驚いたのか、訓練していた騎士たちはどこか呆然とした表情を浮かべている。
その空気を読んだのか、セリスが静かに口を開いた。
「これでも、まだ基礎的な型稽古です。皆、毎日繰り返しているものです」
セリスはそう言って、ほんの僅かに微笑みを浮かべた。
その穏やかな声に耳を傾けながら、俺はもう一度視線を訓練場へ向ける。
遠くで俺に気づいていない騎士が型の訓練を続けている。
一糸乱れぬ動き、磨き抜かれた型、鋭い剣閃——
まるで芸術のように、規則的で整然としたその動作は、ただ見ているだけでも不思議と胸が高鳴る。
できれば、もっと「動きのある」戦いも見てみたい。
「……騎士同士の模擬戦も、いつか見せてもらえるか?」
「もちろんです。模擬戦は週に何度か行われています」
「迫力もありますし、きっと楽しんでいただけると思います」
——その横顔は、どこか誇らしげにも見えた。
俺は微かに口角を上げると、再び剣士たちの姿に目を凝らした。
「それは……期待できるな」
そう言いながら、気まぐれに視線を巡らせ、訓練を続けていた騎士たち一人一人と順に目を合わせる。
驚き、戸惑い——そして、わずかに張り詰める空気。
なるほど、俺がこんなふうに気さくに声をかけるのは、彼らにとってはそれだけ“異常”なのだろう。
つい昨日までの俺なら、こんな冗談めいた言葉すら吐かなかった。
むしろ冷たく、誰もが口をつぐむほどの態度を貫いていたはずだ。
だからだろうか、静かに、ただ確かに広がっていく緊張の波が、肌に伝わってくる。
どうやら、彼らは「期待外れだったらどうしよう」なんてことまで想像したのだろうか。
この実力で期待外れになることはないと思うけどな。
むしろ成績が良かったものには何か褒美を出そうかな。こんな過酷な場所で訓練しているのだ、少しの飴ぐらいは与えてもいいだろう。
「……模擬戦で、俺が気に入った奴には、褒美でもやろうかな」
小さく、ぼそりと呟く。
だが——その声は意外とよく通ったらしい。
騎士たちの間にざわめきが広がる。
まるで水面に投げた小石の波紋のように——次第に、大きく、遠くまで。
気合を入れ直す者。
「今度の模擬戦には参加しようかな」と小声で言い合う者たち。
その光景に、俺はふっと小さく笑ってしまった。
まあ、やる気が出たなら良かったよ。
「よろしいのですか、ミズキ様?」
隣を歩くセリスが、少し驚いたように口を開いた。
「問題ない。何かしらの褒美は——準備しておくさ」
俺がそう言うと、セリスはくすっと小さく笑みを漏らす。
「でしたら、私も……頑張らないといけませんね」
その言葉に、俺はふと視線を向ける。
そういえば、セリスの実力は騎士団の中でどのあたりなのだろうか——そんな素朴な疑問が浮かぶ。
「そうか。……お前の実力は、騎士団の中でどのくらいなんだ?」
問いかけると、彼女は少し困ったように眉を下げ、それからあっさりと答えた。
「私は……真ん中くらいですよ」
控えめで、けれど少しだけ照れたような表情だった。
「だったら、今回で上位を目指すのもいいんじゃないのか?」
俺がそう言うと、セリスはふっと笑い、いたずらっ子みたいな顔をこちらに向けた。
「上位になれたら……ご褒美、くれますか?」
冗談めいた声音に、思わず肩の力が抜ける。
先ほどの“模擬戦の褒美”とは別に、私には特別な褒美を——そういう意味か?
……まったく、冗談がうまい。
「そうだな。いいだろう、期待してる」
言葉を返しながら、俺は内心で少しだけ思う。
——随分と距離が縮まったな、と。
冗談を交わせる程度には、彼女の中の「俺」に対する恐怖も和らいだのかもしれない。
こうして誰かと自然に言葉を交わすのは、久しく忘れていた感覚だった。
「それで次の模擬戦はいつにあるんだ?」
「四日後ですよ」
「近いな、退屈せずに済みそうだ」
そう言いつつ、心の片隅で焦りが芽生える。褒美の用意を、急がなくてはならない。
訓練に参加するのは模擬戦の後にするか。それまでは褒美を何にするか考えよう。
町に出て探してみるのも悪くない。
金はある。今まで親から受け取っていた小遣いも、派手すぎる服や小物を売れば、いくらでも足しになるだろう。
「ミズキ様、次の場所の説明に移りましょうか?」
セリスが微笑みながら声をかけてくる。
だが、俺はすでに喉の渇きと、じりじりと焼け付く日差しに体力を奪われきっていた。
額からは汗が流れ落ちる。立っているだけでも妙にだるい。
夏の日差しを少し浴びただけで、こうも消耗するとは——
今まで、どれだけ怠けた生活を送っていたのかがよくわかる。
前世では、満員電車や炎天下の営業で、何だかんだ体力はあったんだなと、しみじみ思い返してしまう。
「悪いが、体力が尽きた。今日はこの辺で屋敷に戻ることにする」
正直にそう言うと、セリスは少しだけ残念そうに目を伏せ——けれど、すぐに柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
「かしこまりました。訓練所の出口までお送りいたします」
彼女の声は、どこか優しく、どこか楽しげだった。
——さっきの残念そうな顔は、俺の案内で訓練をサボれるからか?
そんなことを思い、思わず小さく苦笑する。
俺は軽く頷き、彼女と並んで踵を返す。
「案内、助かった」
「いえいえ。四日後、またご案内させていただきますね」
からりとした声と、自然な笑顔。
訓練所の出口が近づくにつれ、不思議と、ここから立ち去るのが少しばかり惜しく感じる。原因は、隣を歩くセリスとの心地よい距離感だろうか。
それとも単純に、もっと訓練の様子を見ていたかったからか。
おそらく、その両方だろう。
「それじゃあな」
短く言うと、セリスは柔らかな表情のまま、軽く頭を下げた。
「はい。また、いつでもお声かけください」
セリスと別れた途端、急に体の疲れが重くのしかかってくる。
喉の渇きもひどくなり、足取りが少しだけ鈍る。
——やっぱり、人と話していると気が紛れるんだな。
改めて、そんな当たり前のことを実感する。
たぶん、ひとりだったらもっと早く音を上げていた。
それくらい、陽射しも熱気も容赦なく、汗は滲み、肌には張り付いた砂埃が不快だ。
まずは水分をとって——
それから、風呂だな。汗も埃も、全部洗い流してしまいたい。