うちの領地は警備が多い、近場なら少数で行動するのも許されている。
適当な騎士を一人連れていくか。
食べ終わった夕食の食器をドア付近に置き、使用人に水筒を持ってこさせる。
そのまま玄関へと足を進める。
窓から見える空は、夏とはいえ、さすがにもう暗くなっていた。
この世界は日本よりも治安が悪い。正直、少しだけ不安になる。
まあ、貴族の護衛を務める騎士たちは、選りすぐりの猛者にして達人たちだろう。
大丈夫なんだろうな。
中庭を抜け、屋敷の門が見えるころには、額にうっすらと汗が滲んでいた。
夜とはいえ、やっぱり暑いよな——なんだかんだ、夏は夏だ。
そんな中、門の近くで警備についている騎士たちには頭が下がる。
……まあ、我が家が給料を出してるし、立場的には対等か?
「ご苦労、少し付近を歩く、手の空いた騎士を一人連れてきてくれ」
静かにそう命じると、門番の騎士はほんの僅かに眉を寄せた。
面倒事を押しつけられた、という心の声が顔に出ている。
だが、それも束の間。彼はすぐに顔を引き締め、「はっ」と短く応じ、足早にその場を離れていった。
——まあ、無理もない。
これまでの俺は、彼らにとって間違いなく「厄介なだけの貴族の坊ちゃん」だったはずだ。
小言の一つもこぼさず、黙って従うだけ、まだ良心的な方だろう。
門の傍で、俺は夜風に身を任せる。
月明かりに照らされた庭園は、昼間とは違う静けさを纏い、どこか非現実的にさえ思えた。
やがて、足音が響き、戻ってきた門番の後ろには一人の女性騎士が立っていた。
涼しげな青い瞳。鋭さと柔らかさを併せ持つ顔立ちに、きちんと磨かれた鎧姿。
男勝りというよりは、凛として美しい、そんな印象だった。
「護衛を務めさせていただきます。リーネ・フェルスターと申します」
彼女は、俺に向かってきちんと胸に拳を当て、礼をする。
声もはきはきしていて、どこか誇り高い雰囲気がある。
セリスが来たら気が楽でいいなとか、ちょっと思っていたが、昼に訓練をしていたし、もう家に帰ったのだろうか。
「そうか。頼りにしてる」
俺がそう言うと、リーネは真っ直ぐ背筋を伸ばし、静かに頷いた。
「はっ、必ずお守りいたします」
言葉も立ち姿も隙がなく、まるで絵に描いたような騎士そのものだ。
真面目なんだろうか。それとも俺の告げ口に恐れ真面目に働いているだけか。
どちらにしても、気疲れしそうな相手であることに変わりはない。
だが、護衛役は真面目であるほど好ましい。文句を言う筋合いはない。
「行き先は冒険者ギルドだ。」
「承知いたしました」
俺たちは静かに門を抜け、夜の街へと歩みを進める。
舗装された屋敷周辺の道はきちんと整備されているが、少し歩けば、路肩には雑草が顔を出し始める。
夏の草木は旺盛で、湿気を孕んだ空気が纏わりつく。
前世でも嫌いだったが、この世界でも——やはり夏の夜は好ましいものではない。
ふと、隣を歩くリーネをちらりと盗み見る。
相変わらずきっちりと前を向き、警戒を怠っていない。
それでも歩調は俺にぴたりと合わせているし、足音もやたらと静かだ。
——やはり、相当な腕前なのだろう。
「こんな夜に出歩くなんて、珍しいですね」
その声音には淡々とした節度があり、しかし、わずかに興味が滲んでいた。
確かに、珍しいことだろう。
実際、これまでの俺は、夜にこうして外に出ること自体、いや、外出自体、ほとんどなかった。
そもそも、女性と口を利くことすら、極端に避けていたのだ。
護衛をつけての外出など、数えるほどしかなかったはずだ。
もっとも——夏の夜など、今の俺ですら好ましいものではない。
蒸し暑さに加え、鬱陶しい虫の羽音。どう考えても気分の良いものではない。
「……ああ、そうだな。些細な用事だ」
そう答えると、リーネは静かに頷いた。
彼女は依然として、きちんとした姿勢を崩さず、周囲に目を配りながら歩いている。
――どうにも、騎士たちは使用人たちに比べて、俺への警戒心が薄いように感じる。
セリスの時もそうだったが、リーネも自然に声をかけてきた。
肉体の強度が高い分、心に余裕があるのだろうか。
それとも昼の見学で騎士たちの中で俺の評価が変わったのだろうか。
どちらにせよ確かなことはわからないが、たぶん前者だろう。
「昼間に見学に来ていただけたとお聞きしました」
リーネの声には、さりげない敬意とともに軽い驚きが混ざっている。やはり、珍しいことだったのだろう。噂の広がりの速さを改めて実感する。
「ああ、いい経験だった。俺も体を鍛えたくなった」
本当は鍛えたくなったから見学に行ったというのが真実だが、それは隠し、
軽いリップサービスとして返す。だが、内心はまったく嘘ではない。
「そうですか。それは何よりです。鍛えることは騎士としても大切なことですから」
彼女の言葉には、揺るぎない自信と誇りが感じられた。
騎士たちの自分の行いに自信と誇りを持つのは凄いことだと思う。
俺は自分の行動に自信や誇りを持ったことなんて、正直ないけれどな。
十五分は歩いただろうか。
流石に汗が滲み、体が水分を欲しているのをはっきりと感じる。喉が渇いた。
俺は屋敷から持ってきた水筒を取り出し、静かに蓋を開けると、ひと口、喉を潤す。
隣を見ると、リーネは無言のまま、落ち着いた足取りで歩を進めていた。
飲み物は持っていないようだ。あの厚手の騎士服では、熱がこもるだろうに大丈夫だろうか。
熱中症は夜でも起こる——前世の常識が頭をよぎる。……なんだか、ちょっと心配になってくる。
「飲むか?」
自然とそんな言葉が口をついて出た。
水筒はそれほど大きなものではないが、まだ半分以上は残っている。
最悪、冒険者ギルドで水分を買えばいいだけだしな。
差し出すと、リーネはわずかに目を瞬かせた。
意外だったのか、それとも躊躇いがあったのか——それでもすぐに、礼儀正しく頭を下げる。
「……恐れ入りますが、私は大丈夫です。任務中ですので」
きっぱりとした声だった。だがその表情は、どこか柔らかく、拒絶というよりは丁寧な断りといった印象だ。
まあ、そう言うだろうな。真面目な騎士だし、仕事中に主君から水をもらって飲むなんて、そう簡単にはできることじゃない。
「そうか。無理はするなよ」
ギルドについたら何か買ってやるか。
俺は肩をすくめ、水筒を戻す。
そのまま再び夜道を歩き出すと、リーネは何事もなかったかのように隣についてきた。足音は変わらず静かで、歩調も乱れない。
それでも、ほんのわずかだけ、彼女の口元が緩んでいるようにも見えた。
ほどなくして、冒険者ギルドの灯りが遠くに見え始める。
笑い声や怒号が、夜の静けさを破るように微かに耳に届いてきた。
……随分とうるさそうだな。
喧嘩にでも巻き込まれなければいいんだが。
まあ、ここは我が家の領地内のギルドだ。
俺の顔を知っている者がいれば、話は早いだろう。
ギルドの小さな扉を押し開け、中へと足を踏み入れる。
外でも多少感じていたが、やはり中はさらに酒臭い。
酒と汗と埃の匂いが混ざり合い、独特の空気が肌にまとわりつく。
視線を軽く巡らせると、端の方で妙な光景が目に留まった。
背の低い少年——十五歳くらいだろうか——が、数人の女性冒険者に絡まれていた。
無理やり酒を勧められ、身体を触られ、どう見ても困っている。
前世の価値観なら、こういう状況を「羨ましい」なんて思う奴もいただろう。
けれど、この世界では明らかに不憫な光景だ。
ただ俺は、前世の感覚が抜けきっていないせいか、可哀そうに感じないんだよな。
まあいいや、さっさと用事を済ませるか。
「おいおい、随分いい顔の男が来たもんだ。」
カウンターに向かって歩いていた俺に、からかうような声が飛ぶ。視線を向けると、露出の多い革鎧を身に着けた女性冒険者が、ニヤついた顔でこちらを見ていた。
長い銀髪を片側に流し、抜群のスタイル。
いかにも自由気ままな冒険者という風貌だ。
女ばかりのこの世界では、こういう絡みも珍しくない。
むしろ第一声がこれだけなら、まだ品がいい方だろう。
それにいい顔、か。
まあ、褒められたなら悪い気はしない。いや、嬉しい。前世はモテなかったのだ。
「ほう、嬉しいことを言ってくれるな。」
俺がそう返し、一歩踏み出して会話を交わそうとした——その瞬間だった。
すっとリーネが一歩前に出て、俺と冒険者の間に割り込むように立つ。
無言のまま、俺の肩をわずかに押し下げるような動きで背後へと下がらせる。
「——お戯れはその辺りで。ミズキ様に不用意に近づくことはお控えください。」
その声音は冷静そのもので、わずかな隙も感じさせない。
俺はリーネの腕に軽く手を添えて、苦笑しながら小さく息を吐いた。
「そうだな、用事を済ませるか」
素直に引き下がることにする。
相手も冗談半分だったろうし、いちいち波風を立てるほどのことでもない。
冒険者は肩をすくめ、軽く手を振って「へいへい」と言うだけで、それ以上は絡んでこない。空気は読めるらしい。
受付には、落ち着いた雰囲気の職員が立っていた。
淡い栗色の髪をきちんとまとめ、紺色の制服姿は端正で、どこか事務的な印象を与える。
周囲の喧騒とは対照的に、静かで整った佇まいだ。
「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょうか?」
丁寧な声に、俺は小さく頷きながら言葉を選ぶ。
「護衛を一人、雇いたくて来た。三日間、街の中を少し歩く程度の依頼だ。」
職員はすぐに手元の書類に視線を落とし、ペンを走らせながら淡々と確認を進める。
「承知いたしました。短期の護衛ですね。危険度は低めとお見受けしますが、何か特別な条件はございますか?」
「腕はそこそこあればいい。こちらの行動を邪魔しない相手なら、助かる。」
俺はそう付け加え、ちらりとリーネを見る。
彼女は黙っているが、きっと職員相手に無礼を働くようなことはないだろう。
「かしこまりました。手配いたしますので、少々お待ちください。」
そうして、職員は受付の奥へと消えていく。
そのとき——
「よう、かるーく聞かせてもらったぜ。」
リーネ越しに、先ほどの銀髪の冒険者が声をかけてきた。
さすがに今度は距離を取ってくれている。
リーネを怖がっているのか、気を使っているのか……まあ、後者だろう。
「人の依頼を盗み聞きとは感心できませんよ。」
リーネはそう返すものの、先ほどよりは柔らかい声音だ。
場の空気を察しているのかもしれない。
「お堅いねぇ。で、その護衛、いくら出すんだ?護衛付きで出歩くなんて、そりゃあ持ってるんだろ?」
冒険者はからかうような声色のまま、じっとこちらを見ている。
「なんだ、俺の護衛に立候補したいのか?それともただの興味か?」
銀髪の冒険者は、ほんの一瞬だけ目を細め、次の瞬間にはニヤリと唇を吊り上げた。
「ははっ、冗談のつもりだったんだけどね。ま、条件次第じゃ考えなくもないかな?」
言いながら、彼女は腰に手を当て、いたずらっぽくウィンクをしてみせる。
軽薄なようで、どこか底の見えない笑みだ。
リーネは苦々しげな視線を送りつつも、口は挟まない。
態度は冷静だが、ほんのわずか眉が寄っているのは、護衛役としての警戒心ゆえだろう。
さて、どうするか、こいつを雇うかどうか。
ギルドからの紹介ではない以上、実力は未知数だ。
ただ、態度には妙な自信がある。
それに、こう言うのもなんだが——場の空気を読み、適切に動ける者は、
この手の冒険者にしては珍しい。
顔がいいと褒められたから靡いているわけではない。
「とはいえ、あんた、そんな顔して結構抜け目がなさそうだし、護衛を雇うってことは、何か面白いことでもするんだろ?」
ただの褒美選びだとは言いずらいな。
「ただの散策だ。騎士をつけるほどでもない」
肩の力を抜きつつも、淡々とそう返す。
「ふぅん。ま、いいけどさ」
彼女は軽く肩をすくめると、あっさりと踵を返し、別のテーブルへと戻っていった。
その背には、妙な潔さと余裕が漂っていた。
「……軽薄に見えて、意外と礼儀は守る方ですね」
リーネが静かにそう呟く。
どこか意外そうで、同時に少しだけ警戒が緩んだようにも見える。
「そうだな。俺も、悪い印象はない」
俺は返しながら、ちらりとカウンターを見やる。
職員はまだ人選の最中らしく、書類を何枚か手に取って選定しているようだった。
——このままギルド推薦の護衛を待つか。あるいは、あの銀髪の冒険者に声をかけるか。
護衛とはいえ、ただの街の散策だ。
命を賭けるような任務ではないし、多少くだけた相手でも支障はないだろう。
そんなことを考えているうちに、目の前の職員と目が合った。
彼女は手にした書類を2枚掲げ、柔らかく微笑む。
「お待たせいたしました。今回の選定では、実力を大きく重視させていただきました。ミズキ・ヴェルノート・ネフェリウス様に、万が一にも怪我などあってはなりませんので」
……どうやら、職員は俺のことを知っているようだ。話が早くて助かるよ。
「こちらの二名が候補となります。それぞれの詳細は書類にございますが、念のため、口頭でもご説明いたします」
実に丁寧な対応だ。まあ、こうして言葉で簡潔に伝えてもらえるのはありがたい。
「まず一人目は、こちらのリディアさん。Bランク冒険者で、剣技はもちろん、基礎的な攻撃魔法による遠距離攻撃も可能です」
「——あー、だめだめ」
横から割って入るような声に、職員も俺も一瞬だけ目を向ける。
さっきの銀髪の冒険者が、テーブルから椅子ごとこちらへずり寄り、悪びれもせず口を開いた。
「そいつ、瞬発力はあるけど持久力がない。まとまった数に襲われたら、普通に負けるぞ。護衛には向かない」
その言い方は、あまりに当然のようで——まるで、彼女はその冒険者を直接知っているかのような口ぶりだった。
まったく、存在に気づかなかった。
ふと見ると、リーネはすでに一歩前に出て、俺と彼女の間に静かに立っている。
恐らく最初から気配に気づいていたのだろう。
「……まだ聞いていたのか」
俺は苦笑混じりに呟いた。
ギルド職員は面倒そうに、冒険者の方をちらりと見遣る。
「では二人目のご説明をさせていただきますね。」
職員は改めて書類を手に取り、俺の前に置いた。
しかし、もっとも熱心にその書類に目を通しているのは、間違いなくあの銀髪の冒険者だった。
リーネの肩越しに身を乗り出し、食い入るように覗き込んでいる。
「そいつは純粋に実力不足だな」
銀髪の彼女は軽く鼻を鳴らしながら呟く。
「しょうがない、こりゃ私が護衛を引き受けるしかないか」
面倒くさそうに言いながらも、その表情はどこか楽しげだった。
「リサさん、あなたは明日、他の依頼が入っているはずでは?」
ギルド職員が控えめに指摘する。
「それは知り合いに頼むことにするわ」
あっさりとした口調に、職員は軽く肩をすくめると、こちらに一礼し、静かに裏へと下がっていった。
リサ——銀髪の冒険者は、自信ありげに俺を見つめ、口角をわずかに吊り上げる。
「ま、そういう訳で私が引き受けるよ」
……どうやら、俺の意志は二の次で、話が進んでしまったらしい。
だが、特に反対する理由もない。説明された二人より、いや、ほぼ一人だけだったが、彼女のほうが力量はありそうだ。
ただそうなると、Bランクかそれ以上だろう。
とはいえ——三日も雇えば、それなりの金がかかるのは確実だ。
貴族とはいえ、ただの買い物にそこまでの出費はしたくないのが本音だ。
「おい、ただの散策だ。そこまで金を使うつもりはない」
俺はやれやれと肩をすくめ、言葉を返す。悪いが、そこまで気前よく振る舞うつもりはない。
前世の庶民感覚は、そう簡単には抜けないものだ。
「うんうん、それはしょうがない、だったら——っっ!」
リサが何か言いかけた、その瞬間。俺の目には捉えきれなかったが、リーネが彼女の脇腹に軽く拳を入れたのだろうか。
わずかに体を仰け反らせたリサが、呻き声を押し殺す。恐らく——いや、間違いなく、何か下品なことを口にしようとしたのだろう。
「——ミズキ様。帰りましょう。明日の散策には、私がお供いたします」
確かに、彼女とは少しは打ち解けることができたし、ただの散策であればそれで十分だったかもしれない。
だが——今回は違う。これは騎士団への褒美選びだ。
譲れない。何のために、わざわざギルドに足を運んだと思っている。
「お許しください、ミズキ様」
静かな声とともに、リーネは俺の手を取る。
そのまま迷いなく出口へと歩き始めた。
いつもの穏やかさは消え、彼女は完璧な「護衛」として動いている。
俺は一歩踏みとどまり、手を引かれながらも足を止めた。
踏ん張った程度では止まる気配はない。
「リーネ、止まれ」
静かに、しかし確かな意志を込めたその声に、リーネの足がぴたりと止まる。
彼女の動きは、まるで糸を断たれた人形のように静止した。
「明日の散策に騎士は連れていけない。お前も聞いているだろう、模擬戦の——褒美についてだ」
言ってしまった。
もっと上手くごまかす方法もあったかもしれないが、少なくともこの場では言い訳をひねり出せるほど頭は回らなかった。
余計な駆け引きよりも、正直に伝えたほうが早い。そう判断した。
リーネは沈黙のまま、動かない。
わずかに伏せた瞳の奥で、何かを考えている様子だった。
やがて、ほんの少しだけ目を閉じ、小さく息を吐くと、静かに頭を垂れた。
「……承知いたしました。勝手な行動、申し訳ございません」
「気にするな」
俺は肩の力を抜いて言う。
必要以上に強く出るつもりはないし、そもそも彼女は俺のために動いてくれたのだ。
目線を戻すと、リサがこちらをニタついた顔で見ていた。
彼女は椅子に深く腰掛け、頬杖をつきながら、どこか愉快そうに俺たちのやりとりを眺めている。
もう脇腹の痛みなど感じていないのだろう。あるいは最初から大したことではなかったのか。
「なんだ、帰らないのか?」
軽い声音で問いかけるリサに、俺は静かに首を振った。
「ああ、まだ話はついてない」
そう言って、俺は彼女の正面の椅子に腰を下ろす。
リーネは黙って俺のすぐ近くに立ち、じっと見守っている。
俺はリサの前の席に腰掛ける。リーネは俺の近くで立っている。
「そうかい。それよりさ——」
リサはふいに、わざとらしく脇腹を押さえ、苦笑混じりに言った。
「ちょっと痛むんだよな、ここ。摩ってくれない?」
そう言いながら、彼女はわざとらしく服の裾をめくり、脇腹を俺のほうへと突き出してくる。
腫れてもいないし、痣もない。ただの冗談だ。
明らかに、リーネをからかっているのだろう。
リーネは無言のまま微動だにせず、表情こそ崩さないが、ほんの僅かに眉根が寄っていた。
もしここで、俺がふざけて手を伸ばしたら——リーネは、どんな反応をするのだろうか。
気にはなる。ちょっとだけ、興味もある。
「なんだ、痛むのか?」
とぼけた声でそう言い、俺はリサの脇腹に手を伸ばしかける——が。
「……ミズキ様」
リーネの白い手が、すっと俺の手首を掴んだ。
細い指だが、思いのほかしっかりとした力だ。
彼女の顔は冷静のまま、だがその目にはかすかな苛立ちが滲んでいる。
「痛むほど強く打ち込んだつもりはありません」
低く、静かだが、言外に強い意志を含んだ声だった。
そのままリーネはリサを真っ直ぐに睨みつける。
普彼女からは想像しにくい、怒りを抑えた表情だ。
リサはというと、肩をすくめてケラケラと笑いながら、
「なんだよ、他の女には触らせずに自分は触ってもいいのか?主君なんだろ、ましてや男だ」
その言葉に、リーネの手の力がわずかに強まる。
表情は崩していないが、目元の僅かな揺らぎが、内心の動揺と苛立ちを物語っていた。
「……」
言い返せない。
リーネにとっては、確かに痛いところを突かれた言葉だったのだろう。
実際、俺は彼女の主であり、そして男だ。
立場を盾にすれば、どちらも言い逃れはできない。
——まあ、なら俺が助け舟を出してやるか。
「そこがリーネのいいところだ」
忠義深く、まっすぐで、少し融通がきかない——
だが、それもまた、彼女の良いところと言えるだろう。
俺の言葉に、リーネはわずかに目を見開き、そのまま固まってしまう。
その顔は、驚きと戸惑いが入り混じったもので、冷静な彼女らしからぬ表情だった。
……さすがに昨日までの態度と違いすぎたか?
少し言いすぎたかもしれない。俺自身、妙に照れくさくなってきた。
「あー、なんだ……さっさと要件を済ませるぞ」
恥ずかしさからか、思わず言葉が詰まる。
ごまかすように、すぐ次の言葉を続けた。
「単刀直入に聞く。三日間の護衛で、いくらだ?」
金額の話だ。さすがにリサも少し引き締まった表情になる。
「私はAランクだ。実力には——それなりの自負がある。……結構な金額だぞ。三日で十五グロスだ」
リサは腕を組み、わずかに得意げな笑みを浮かべながらそう言い放つ。
——十五グロス。日本円で十五万円相当か。
たかが散策にしては、冗談みたいな額だな。話にならん。
「リーネ、さっきの職員を呼んできてくれ」
俺が静かにそう告げると、リーネはすぐさま小さく頷き、動きかける。
「おいおいおい、待て待て!」
リサが慌てて声を上げ、手を広げて制止に入る。
「適正な金額だぞ、これでも。そりゃ、実力相応ってことだ」
顔をしかめつつも、リサの声音にはどこか焦りが滲んでいる。
「——散策程度に、そこまで払うつもりはない。さっきも言っただろ」
俺は静かに言い切る。
たしかに、持ち合わせからすれば痛くも痒くもない額だ。だが、金は湯水じゃない。必要以上の出費をするつもりも、今の俺にはない。
リサは肩をすくめ、わざとらしくため息をついた。
「なんだよ、どうせ金は持ってるくせによ。……わかったよ、安くしてやる。いくらまで出せるか言いな?」
「お前じゃなくてもいいんだ。——出せて五グロスだな」
俺は淡々と告げる。
リサは一瞬眉をひそめ、すぐに苦笑交じりに首を振った。
「そりゃねーよ。それじゃCランクの護衛が関の山だぜ?おいおい、あんたの主君の貞操が危ないぞ?」
にやりと笑い、わざと悪ノリ気味にからかうリサ。
リーネはその言葉にぴくりと反応し、表情は崩さぬまま、目元だけが鋭さを増す。
「ミズキ様、さすがにCランクでは危険です。貴族の男性であることをお忘れなく」
静かだが、押し殺した声だった。
リーネの忠告は、この世界では至極まっとうなものだ。
女性が大半を占めるこの社会において、男の貞操は決して軽視できるものではない——それは頭では理解しているつもりだ。
……もっとも、俺自身は今までほとんど外に出ることもなかったし、身をもって実感したことはほとんどない。
それでも——リーネの忠告なら、きちんと聞いておくべきだろう。
「——十グロスでどうだ」
俺はリサの目を見据えながら、はっきりと告げる。
彼女は一瞬だけ目を細め、肩をすくめて小さく笑った。
「……適正価格ってもんを知らないのか? それじゃ安すぎるんだが——ま、いいさ。首を突っ込んだのはこっちだしな」
少し呆れたようにそう呟き、リサは手のひらをひらひらと振ってみせる。
「それじゃあ明日の朝十時頃にネフェリウス家前に来い。金は先払いか後払いかどちらだ?」
「はいよ。金なら依頼が終わってから、ギルドに払ってくれりゃいいさ。面倒なのは嫌いなんだよ。手続きは私が全部やっとくから、あとは勝手に帰っていいぜ」
俺がネフェリウス家だと知っているかのような態度だ。
最初から把握していたのか、職員の言葉で気づいたのかはわからない。
どちらでもいいが。
「助かる」
そう返し、少し肩の力を抜く。無事護衛も確保できたが、正直、妙に疲れた。
長いこと話した成果、暑さのせいか、とにかくやたらと喉が渇く。
リーネだって同じだろう。
「リーネ、水を二杯、買ってきてくれ」
俺は小銭を手渡しながら声をかける。
リーネはぴしりと姿勢を正し、「かしこまりました」と静かに頷いた。
リーネは小さく会釈すると、足早に店の方へ向かっていった。
姿勢はいつも通りだが、どこか足取りが軽いようにも見える。
護衛をつける件は納得できなかっただろうが、水を買うという気軽な命令が少しは気を緩ませたのかもしれない。
俺は椅子に腰を戻し、ひとつ深呼吸する。
ふと横を見ると、さっきリサがいた席にはもう彼女の姿はなかった。
代わりに、他の冒険者たちが酒を片手に騒ぎ立てている。
相変わらず、にぎやかだな。
——まあ、これで明日の準備は整った。
騎士団への褒美選びなんて、大したことじゃない。
リーネが心配するほどの危険もないと思うがな。
そう思いながら、俺はなんとなくギルドの天井を見上げた。
埃が積もった木の梁。その下で、冒険者たちの笑い声が響いている。
……ちょっと楽しみかもしれないな。
冒険者を雇って、街を歩くなんて、これまでの自分じゃ考えもしなかったことだ。
しばらくして、リーネが戻ってくる。
冷たい水の入ったグラスを二つ、両手で丁寧に運んでくる姿は、彼女らしい慎重さだ。
「お待たせしました、ミズキ様」
そう言って、二杯とも俺に差し出してくる。
そんなに喉が渇いてるように見えただろうか。
「一杯はお前のだ。倒れる前に飲んでおけ」
受け取った水を一口飲む。冷たさが喉をすべり落ち、身体の内側から生き返る気がする。
だがリーネは、もう一杯の水を持ったまま、微動だにしない。
まるで、飲むことすら許されていないとでも思っているかのように。
護衛中は水も口にしない——そういう規律はなかったと思うが。
いや、たぶん彼女の性格だな。真面目すぎるくらいの。
「買ってしまったんだ、冷たいうちに飲んだほうがうまいぞ。」
リーネはわずかに瞬きをし、目を伏せると、ほんの少しだけ頬を赤く染める。
「頂戴致します」
きちんと持ち直した水を口元に運び、静かに一口飲んだ。
彼女の喉がわずかに動くのを見て、俺はふっと肩の力を抜いた。
俺としては、常に気を張り詰められても困る。このぐらいの空気感がちょうどいい。
俺とリーネは飲み終わったグラスを静かに机に置いた。
「——帰るぞ」
短く言えば、リーネはすぐに姿勢を正し、軽く頭を下げる。
「かしこまりました」
いつもの彼女の声だ。さっきまで少しだけ崩れた空気は、すでにきっちりと戻っている。
ギルドのざわめきは相変わらずだった。
笑い声、酒の匂い、埃と汗——それらを背中に感じながら、俺たちは静かにギルドを後にする。
ギルドから聞こえる雑音が途絶えかけた時
「私も模擬戦に参加します。」
静かで、けれど確かな声だった。
俺は思わず足を止める。
振り返ると、リーネは真っ直ぐ前を見つめたまま、揺るぎのない表情を浮かべていた。
「……急にどうした?」
「ミズキ様の名を冠する褒美なら、私も力で勝ち取りたいのです」
まっすぐに、俺からの褒美だからこそ勝ち取りたい——そんなふうに言われた気がする。
ただ、声は淡々としているが、その奥には、固い意志が宿っていた。
彼女なりに、今回の護衛で何か感じるものがあったのだろうか。
リーネが褒美に靡くような人間には思えないしな。
「そうか、期待している」
俺はそう言って、軽く笑いかけた。
リーネの瞳が、ほんの少しだけ揺れるのがわかる。
「——ありがとうございます」
その返事は、いつものように冷静だったけれど、声の奥にかすかに温度が宿っていた。
「今回の模擬戦の参加者はどのぐらいいる?」
「隊長と副隊長の八名を除いて、ほとんどの騎士が志願しています。
今回の褒美が……特別なものであることが、噂になっているようです」
リーネはいつも通り淡々と答えたが、ほんのわずか——言いにくそうな気配が声に滲んでいた。
どうやら噂がひとり歩きして、ずいぶんと尾鰭がついてしまったらしい。
……まだ、褒美なんて何一つ用意していないのだが。
「そうか」
思わず苦笑するしかなかった。
——褒美選び、頑張らないといけないな。
リーネは、わずかに頬を緩め、ほんの少しだけ柔らかさの滲んだ声で語りかけてくる。
「隊長、副隊長たちは、模擬戦の日、警備を八人で回さなければならないと、頭を抱えておりました」
自分の上司が冗談めかして弱音を吐く姿は、どこか微笑ましい。
前世でも、そんな場面は何度も経験してきた。
真面目なリーネにも、きっとそういう一面があるのだろう。
まだ表情は硬いし、言葉もきっちりとしている。
だが、こうして僅かでも頬を緩め、冗談交じりの会話ができる関係に変わりつつある。
ほんの少しだが、確かにリーネと打ち解けられた気がした。
屋敷の門が視界に入る。
外の蒸し暑さがなお続くが、やっと終わったという安堵が胸を満たす。
汗が額からぽたりと落ちる。まずは風呂だ。体を洗い流し、熱い湯に浸かれば、今日の疲れも消えるだろう。
「護衛、助かった」
俺の言葉に、リーネは一瞬だけわずかに微笑みを浮かべた。
「ミズキ様の安全が守れたのなら、それが何よりです」
彼女の声は静かで落ち着いているが、その言葉の重みを俺は強く感じた。
俺の身を案じ、真剣に護衛を務めてくれたことが伝わってくる。
汗ばんだ額に手をやり、深く息を吐く。外の蒸し暑さが一気に解けていく。
やっと屋敷に戻ってこられたのだ。
「じゃあな」
俺は気軽に声をかけたつもりだったが、リーネは背筋を伸ばし、凛とした声で応えた。
「はい」
その一言に、彼女らしい誠実さと凛々しさが滲んでいるのを感じた。