翌朝——
約束の時刻に家の門前へと向かうと、リサはすでに待っていた。
銀髪が朝日を受けて柔らかく輝き、彼女は気だるげな態度ながら、どこか軽やかに立っている。
その顔には、昨日と変わらぬ自信と余裕が滲んでいたが、不思議と頼もしさも感じられた。
「遅れるなよ、ミズキ様」
いつもの調子で軽口を叩く。からかうような笑みは、むしろ妙な安心感すらある。
「約束の時間通りだ。お前が早く来すぎたんだろ。準備はいいか?」
「当然」
リサはそう言って、靴音も軽やかに、ゆっくりと歩き始める。
「待て、歩いていくわけないだろ」
——街までは、ギルドを超えた先だ。歩けば優に一時間はかかる距離。
朝からそんなに歩かされるのは、さすがにご免だ。
俺は騎馬できる、というか貴族は全員出来る。
「ミズキ様、お待たせいたしました」
軍馬を二頭、手綱を取って現れた。
前もって頼んでおいたのだ。準備は万端だ。
「助かる」
手綱を受け取りながら、俺はふっと息をついた。
軍馬はよく馴らされていて、蹄の音も落ち着いている。これなら扱いに困ることはないだろう。
リサは小さく目を細めると、俺の馬に視線をやり、ふっと口元を緩める。
「さすが貴族様だね。馬の尻に揺られてるのが似合ってる」
からかうような声に、俺は肩をすくめる。
「なんだ?乗れんのか?」
「冗談だ。馬に乗れないわけじゃない」
リサは笑いながら、軽やかにもう一頭の馬に跨がった。
動きは自然で、手慣れた様子だ。冒険者は身軽じゃなきゃ務まらないのだろう。
「良かったな、乗れなかったら走らせていたぞ」
俺が肩越しにそう言うと、リサは吹き出しそうになりながら、くくっと喉を鳴らして笑った。
「危うく低い報酬なうえに、重労働じゃないか」
言葉の端に、どこか楽しげな響きが混じっている。
朝の空気はまだ涼しく、馬の足音が心地よく響く中、俺たちは軽く手綱を引いて街道へと進み出した。
「街までの道のりはわかるのか?俺はわからんぞ」
何度も言っているが、俺はほとんど外出したことがない。
細かい道なんてさっぱりだ。
都道府県は知ってるが、実際の道路は知らん——そんな感じだ。
知っているのは、ついこの間まで通っていた王都の学園への通学路くらいなものだ。
「はあ……意気揚々と飛び出しといて道も知らないとはな。世間知らずだな、
ミズキ様は」
リサは呆れたように言いながらも、どこか愉快そうだった。
まるでからかい半分、面倒見半分といった声音だ。
「道は知っているようだな。後ろからついてく、速度は上げすぎるなよ」
俺がそう返すと、リサは肩をすくめ、笑いを含んだ声で答えた。
「まったくよ、指示の仕方だけは一丁前だな。……まあ、馬ならすぐだ。ゆっくり行くさ」
彼女は軽く手綱を引き、馬を進ませる。
俺も続いて歩みを進めると、朝の澄んだ空気が肌を撫でていく。
少しだけ風もあり、蒸し暑さも和らいでいた。
領地を詳しく見たことはなかったが、案外栄えている。
舗装された街道、行き交う人々の顔は明るく、店も多い。
スラム街のような荒れた場所は目につかない。
……正直、俺はもう少し荒れているのかと勝手に想像していた。
だが、親——ネフェリウス家の領地経営は、どうやらうまくいっているらしい。
住人たちが飢えず、笑顔を見せている。
それは、当たり前のようでいて、この世界ではそうでもない。
それだけじゃない——きれいな川が見える。川辺には小さな花が咲き、澄んだ水面が朝の光を受けてきらきらと揺れていた。
街道沿いの木々は生い茂り、鳥の声も聞こえる。自然も豊かだ。
「おいリサ、この川で釣りをしたら何が釣れるか知っているか?」
ふと気まぐれに声をかけると、リサはちらりと視線を寄越して答えた。
「さすがに範囲外だ。」
少し肩をすくめる仕草には、呆れと、どこか楽しげな響きが混ざっていた。
「お、街が見えてきたぞ、身分証は出しとけよ。貴族用の入り口から入る」
大きな街は基本的に身分証が必要だ。
まだ発行されていない小さな村はあったりするが、その場合は街に入る前に身体検査されたのち、その場で身分証の発行がされる。
「ああ、もう取り出した」
馬の速度を落とし、街の入り口に立っている門番の前で止まる。
俺は手を伸ばし、腰の側面に差してある身分証をすっと取り出して見せた。
門番は一瞬目を凝らし、次に顔を少し上げて俺の顔を見た。
「ネフェリウス家……、ですね。どうぞお入りくださいませ。」
この街の入り口は厳格だが、貴族にとっては顔パスのようなものらしい。
リサも同じように身分証を提示し、俺の護衛ということでスムーズに通過できた。
門番に馬を預け、石畳の道へと足を踏み出す。
朝の街はすでに活気づいていて、人々の声や商人たちの呼び声があちこちから聞こえてくる。
鼻孔をくすぐるパンの香ばしい匂い、焼いた肉の匂い、どこかの露店から漂う甘い菓子の香り——すべてが目新しく、歩くだけで気分が浮き立つ。
「随分賑わってるな」
思わず口からこぼれる。
「ここは市場も大きいし、職人通りもあるからな。商業の街だよ」
リサは周囲の喧騒をものともせず、慣れた足取りで石畳の道を進む。
俺の一歩前を軽やかに行くその姿は、まるでこの街の案内人のようだった。
目に映るのは、色とりどりの布を広げる露店や、金属音を響かせながら作業を続ける鍛冶職人、果物や香辛料の香りを漂わせる食料品の店。
旅人、商人、地元の住人——誰もが忙しなく動きながらも、どこか生き生きしていて、街全体が活気に満ちている。
「それで、何するんだ? “散策”って言ってたが、三日も通うんだ。どうせ何か、大きな用事があるんだろ?」
リサがふと振り返り、少しだけ探るような視線を向けてくる。
どうやら、何か勘違いしているらしい。いや、そう思うのも無理はない。
貴族が三日続けて、同じ街に“散策”目的で通うなんて、確かに怪しくも思えるだろう。
「……なんだお前、俺とリーネの会話を聞いなかったのか?」
苦笑混じりに問いかけると、リサは肩をすくめる。
「あんなうるさい場で全部聞こえるわけないだろ。少し離れただけで雑音に消えるさ」
それもそうか。
どこを向いても喧騒が飛び交っていて、まともに会話を聞き取るには近くで耳を澄ませるしかない。
あの状況で話の内容まで拾えるはずがなかった。
「今日ここに来たのは、騎士たちの褒美を選ぶためだ」
一瞬、何を言われたのか理解できていないようで、目をしばたたかせる。
その様子は彼女からは想像できないほど素直で――どこか拍子抜けするほど、無防備だった。
「……いやいや、そんなわけないだろ。そんなもんに三日もかけるのか? それに、騎士への褒美のために貴族が街を練り歩くなんて、聞いたことないぞ?」
リサは目を瞬かせ、呆れと困惑が入り混じった表情で俺をじっと見つめてくる。
ほんのわずかに、期待していたものとは違ったらしい戸惑いの色が滲んでいた。
「本当だ」
俺がそう言うと、リサは唖然としたまま、しばし動きを止めていた。
どうやら本気で、俺が何か面白いことでも企んでいるとでも思っていたらしい。
なんだか、ちょっと悪いことをした気分になる。
その様子が妙に可笑しくて、思わず口元が緩む。
「まあ、そう落胆するな。ネフェリウス家との縁を得たと思えば――悪くはないだろう」
そのまま一つ、ため息をついてリサは歩き出す。わずかに眉間に皺を寄せたままで、さっきまでの軽口とはうってかわって、どこか気の抜けたような足取りだった。
「なんかやる気なくしたわ」
ぽつりと漏れたその一言には、思っていた以上に真剣な色が混じっていた。
俺は苦笑しながら肩をすくめる。
「おい金の分は働けよ」
軽く返したつもりだった。だが、返ってきた反応は、想定よりも重かった。
リサはぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返る。そして――無言のまま、じとりとした目でこちらを睨んでくる。
その視線には怒気はなかったが妙に生ぬるく、湿り気を帯びていて、妙に気味が悪い。
「……なんだ、その目は」
自然と眉がひそむ。だがリサは何も言わず、ただこちらをじっと見つめていた。
その視線が余計に言葉を詰まらせる。
「おい、何とか言え」
リサはただ一つ、わずかに深いため息を吐き、視線を逸らす。
それきり何も言わず、場にはどこか釈然としない空気だけが静かに広がっていた。
「……まあいい。少し早いが、飯にするぞ」
「……はいよ」
リサは気のない返事を返し、黙って俺の隣へ並ぶ。
移動を始めると、ぴたりとついてきた。やけに距離が近い。肩が触れるほどの間合いだ。
歩きづらくなり、わずかに歩幅を広げる。
だが、リサもまた当然のように追い、間合いを詰め直してくる。
何なのだこれ、歩きずらいだろ。
思考を切り捨て、足を止めることなく歩を進める。
昼下がりの喧騒を抜け、俺たちは街外れの静かな通りに佇む、小ぢんまりとした高級そうな食堂を見つける。
外観は落ち着いた石造りで、店の前に飾られた鉢植えの花が上品な趣を醸し出している。
「ここでいいか」
俺が声をかけると、リサは生気を失った目を向け、返事はなかった。今のところ、彼女から意見が返ってくることは期待できそうにない。