少し、疲れた――
どのくらい歩いただろうか。ふと顔を上げ、広場に設置された時計に目をやる。
針は午後二時を指していた。
昼飯を早めに済ませたから、動き始めてからざっと二時間といったところか。
それほど長い時間ではないはずなのに、この身体は体力がない。
足取りが重く感じるのも仕方がないのかもしれない。
「……休憩するか」
俺はそう口にし、歩みを緩めた。
すると、リサは眉をひそめ、不満げな声を漏らす。
「なんだ? まだ全然見て回れてないぞ」
たしかにその通りではある。今日の目的――騎士たちへの褒美探しは、まだ店の半分にも届いていない。
だが、焦る必要はない。
「明日も、明後日もある。急ぐ必要はない」
焦って動き回ったところで、見落としが増えるだけだ。
時間をかけて、確実に選ぶべきだと自分に言い聞かせるように告げる。
広場の端に目をやると、石造りのベンチが数脚、燦々と照らされる陽射しの中に取り残されていた。
日陰もなく、ただただ熱を吸い続けている石の塊。
休むにはあまりに不向きな場所だが、今の俺にとっては、それでも座れる場所があるだけでありがたかった。
俺が無言で歩みを向けると、リサも小さくため息をつきながら、それに従う。文句を言いつつも従うあたりが、彼女らしい。
腰を下ろした瞬間、ベンチの熱が衣服越しにじんわりと伝わってきた。
肌が焼けるほどではないにせよ、じっと座っているのもためらわれるような熱気だ。
腿の裏がぴたりと貼りつき、じわりと汗が滲む。
背筋から首元にかけて、流れるように汗が落ちていくのが分かった。
「……なんか買ってきてくれ」
俺は思わずそんなことを口にした。
せめて冷たい飲み物でも、と期待半分の声だった。
だが、隣に立つリサは肩を軽くすくめると、気の抜けたように笑って、首を横に振る。
「私の仕事は護衛だ。依頼主から離れるわけにはいかないんだよ」
もっともな言い分だ。これで俺が攫われたらリサのせいになるしな。
頭を後ろに倒す。
空は高く、青く澄み渡り、夏の太陽は容赦なく照りつけてくる。
静かに目を閉じれば、遠くから響く人々のざわめきも、どこか薄くなり――代わりに、微かな風が頬を撫でていくのを感じる。
「――あははは!」「まてーー!」
不意に、目の前を子供たちが走り抜けていく。
きらきらと笑い声を響かせながら、小さな手には甘く漬けられた果物――レモンが入った容器を握っている。
……懐かしいな。
前世でも、夏の部活動帰りによく食ったものだ。
冷やされたレモンの蜂蜜漬けは、汗をかいた身体に染み渡って、あれほど疲れた身体を軽くしてくれるものはなかった。
ぼんやりとそんな記憶を思い出す。
褒美とは別に、今度の訓練や警備の合間に、ああいうものを差し入れてやってもいいかもしれないな。
「……果物でも見に行くか」
ぽつりとそう口にした俺の声に、リサが即座に反応した。
肩を軽く揺らしながら笑い、くるりと身体をこちらへ向けてくる。
その目には、どこかからかうような光が宿っていた。
「ありゃ、庶民の食い物だぜ? 貴族様はもっと上品なもん食えるだろ。それとも、あれを褒美にでもするのか?」
からかうような声だ。
俺は少し首をかしげ、さっき見た果物を思い返す。はちみつはそこそこ高価なはずだ。
「あれは庶民の食い物なのか?はちみつを使ってるんじゃないのか?」
リサは愉快そうに唇の端を吊り上げた。
「はちみつじゃないぞ。あれは花を食わせて育てたスライムの体液さ。甘みは薄いが、冷やせばそれなりに美味い。蜂蜜ほどは高くないしな」
なるほど、と俺は小さく頷いた。
魔物を食材とするという発想には、まだどこか馴染みがない。
だが考えてみれば、この世界には自然とは別に、魔物というもう一つの「資源」があるのだ。
それを利用するのは、理にかなっていると言えなくもない。
「……買ってみるか」
思い切ってそう言ってみると、リサは一瞬きょとんとした顔を見せた。
その驚きは演技ではなく、本物のようだった。
だがすぐに、肩をすくめるような仕草でその表情を拭い去り、口元には笑みが戻る。
「貴族が魔物を食うなんて、普通は嫌がるもんだけどな。……ほんと、変わりもんだぜ? ミズキ様」
くくっと小さく笑うその声は、どこか楽しそうだった。
俺は軽く息を吐きながら、ベンチから立ち上がる。
「行くぞ」
「へいへい」
夏の陽射しの下、俺たちは再び、賑わう通りを歩き出す。
先ほど子供たちが手にしていた、あの甘く漬けられた果物――その店はすぐに見つかった。
小さな屋台だが、そこそこな人だかりができていて、どうやら人気の商品らしい。
値段を見ると、おおよそ、二百円ほどか。確かに、庶民でも手が届く手頃なものだ。
だが、俺が店に近づくと――周囲にいた人々は、さっと一歩、距離を取った。
まるで俺が触れたら危険なものにでも見えるかのような反応だ。
「……あんまり威圧してやるなよ」
隣でリサが苦笑混じりに言う。
「庶民は貴族が苦手なんだよ。あんたみたいに立派な服着て、こんなとこに立ってるだけで、怖がられちまう」
「威圧してるつもりはないが?」
思わず返すと、リサは肩をすくめた。
その仕草には呆れと、少しの同情が混ざっているようだった。
「そりゃ、あんたはそうかもな。でも庶民は、服一枚汚しただけで――いつ請求されるかわからねぇって思うもんさ。怖くて近寄れないのさ」
なるほどな、確かにそうだ。
俺はそんなことをするつもりはまったくない。
だが、そんな理屈は通用しない――貴族という存在自体が、無意識に人々を遠ざけてしまう。
「……俺は、そんなことはしない」
静かにそう言うが、リサは苦笑して首を振る。
「そうでも、世間体ってのは、固まっちまえば簡単には崩れないもんだよ。世の中、そんなもんさ」
軽く言うその声音には、どこか大人びた諦めも混じっている。
俺は小さく息を吐き、再び屋台に目を戻す。
順番を無視して前に出てしまったのは、正直、申し訳ない。
ちらりと目を向ければ、小さな子供が一人、泣きじゃくっていた。二歳か三歳だろう。若い母親が困り果てた表情で、必死に子供をなだめている。
「三つくれ」
そう店主に声をかけると、相手は目を丸くし、慌てて動き出した。
どうやら貴族が来るなど想定していなかったらしい。
手つきがぎこちなく、明らかに緊張しているのが伝わる。
――身分が上の人間を相手にする緊張。
どこか前世の営業時代を思い出すな。
相手の顔色をうかがい、言葉を選び、丁寧に頭を下げる。そんなやりとりを。
「お、お待たせいたしましたっ」
「悪いな、ありがとう」
短く礼を伝えた。
……この二日で、ずいぶん自然に言えるようになったな――と、ふと思う。
会話が少しは上達したのか。
あるいは、ゆっくりと性格を変えることに諦めがつき始めたのか。おそらく後者。
「ありがとな」
リサが感謝を述べて一つ手に取ろうとする。
「お前のはないぞ」
「……え?」
「まあいい。一個持っておけ。ただし、食うなよ」
苦笑まじりに言い、残りの二つを手に持つ。
視線を向けた先では、まだ泣き止まない子供と、困り顔の母親。
俺はゆっくりと歩み寄り、声をかけた。
「……迷惑かけた。礼だ」
差し出された包みに、母親は目を見開く。戸惑いと怯えが、表情に滲んでいた。
「そ、そんな……とてもいただけません……!」
震えた声が返ってくる。その様子に、俺は言葉を失う。
どう言えばいいかわからない。
そんな俺の横で、リサがふっと笑い、さらりと言葉を添える。
「貰ってやりな。……こいつ、口下手なんだよ」
その一言に、母親ははっとして、すぐにかすかに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
容器を受け取った小さな手は、まだ涙に濡れていたが、子供の顔にはかすかな笑みが戻りはじめていた。
俺は小さく息をつき、リサに目を向ける。
「……助かった」
「へへっ、何言ってんだ。こういうのはな、勢いと空気だよ、空気」
リサは悪戯っぽく笑いながら、先ほど受け取った容器を指で弾く。
「で、これはほんとに私が食っていいのか?」
目をきらきらさせながら聞いてくるその顔は、完全に遊んでいる。
俺は思わず小さく息をつき、肩をすくめた。
「あほか。……何のためにここまで来たかわからなくなるだろ」
淡々と言いながらも、つい声には呆れが滲む。
自分でも、だんだんとこの軽口の応酬に慣れつつあるのを感じていた。
「お前は、俺が食えんかった時の保険だ」
その言葉に、リサはふっと目を細め、口元を緩める。
「……なるほど。つまり残飯処理ってわけだ」
言い方が悪い。
もう少し、柔らかく言いようがあるだろうに――だが、彼女らしいと言えば彼女らしい。
「まあ……そういうことになるな」
ただ、よく考えれば人の食べかけっていやだよな。強要してしまったか。
「ふふっ、気にすんなって。そういう役回りは、案外嫌いじゃないぜ?」
そう言うと、指先で器をくるりと回し、茶化すような笑みを浮かべる。
太陽は頭上に高く、青空はどこまでも澄んでいる。
ひんやりとした風が、そっと二人の間を吹き抜けていく。
「まあ、いい。食べてみるか」
リサが軽口を叩くのを横目に、俺は器から一切れをつまんで、口に運ぶ。
冷たい――そして、思った以上に甘味は控えめだった。
舌の上に広がるのは、きりっとした酸味。果実本来の素朴な風味と、ほのかに香る蜜のような余韻。
熱を帯びた体にその冷たさが心地よく染み渡り、自然ともう一口、さらにもう一口と、指が動いていく。
「……甘味は少ないな。酸味のほうが際立ってる」
ぽつりと漏らした言葉に、リサがちらりと目を細めて笑うのが視界の端に映った。
「でも……こっちの方が、好みかもしれん」
自分でも気づかぬうちに、器の中はほとんど空になっていた。
ふと隣に視線を移せば、リサが頬杖をついたまま、じっとこちらを見ている。
その表情は、いつものふざけたものではなく、どこか呆れながらも微笑を含んだものだった。
「……全部食っちまうのか?」
はっとして、残った一切れを指先でつまみ、彼女の方に差し出す。
「悪いな、ほとんど食ってしまった」
その一言に、リサはふっと口元を緩め、からかうような笑みを浮かべたまま、ゆっくりと身を乗り出す。
「ありがとよ」
そう囁くと、彼女は差し出された果実――だけではなく、そのまま俺の指先までも、ぺろりと舐め取った。
一瞬、皮膚がひやりと濡れる感触。
冷たさと柔らかさ、わずかに舌のざらつきさえ伝わってくる。
反射的に肩がわずかに跳ね、指先が固まった。
「……おい」
低く呆れ混じりに声を漏らす。
リサは指先を離しながら、イタズラを成功させた子供のように、くくっと小さく笑った。
「へへ。溶けてたしな。もったいないだろ?」
無邪気な声と、いたずらな瞳。
リサは口元を綻ばせたまま、からかうような視線をこちらに向けてくる。
「……お前な」
呆れた声を出しながらも、完全に突き放す気にはなれなかった。
こいつは、こういう距離の詰め方が上手い。
さりげなく、気づけば懐に入り込んでくる。
壁を作らせず、軽口で空気を和らげ、相手の肩の力を抜かせる。
そんな芸当を、ごく自然にやってのける。
友達も多そうだな――ふと、そんな考えが浮かぶ。
俺もこいつの真似すれば使用人や騎士と距離を縮められるだろうか?
……いや、無理だな。
苦笑が漏れそうになる。
リサの持つ独特な軽さ、ふざけた空気感――それがあるから成立する。
俺がやれば、きっと「ウザい」と思われて終わるのが関の山だ。
俺が黙っていると、リサはただニヤニヤと笑いながら、じっとこちらを見ている。
何も言わず、けれど、どこか楽しそうに。
この肩の力が抜けた雰囲気――たぶん、こういうのが「気安さ」というものなのだろうな。
俺は自然と諦めの気持ちが湧いてきた。
さっき食ったあの甘酸っぱい食べ物の材料を買いに行こう。
「そういえば、あれの名前は何だったんだ?」
俺が問いかけると、リサは得意げに胸を張った。
「蜜レモンだ。スライムの蜜から作られてるからな。名前はシンプルで覚えやすいだろ?」
誇らしげに語る様子に、思わず口元が緩む。
蜂蜜レモンから蜂を抜いたようなもんか。確かに分かりやすい。
「じゃあ、材料を買いに行くか」
俺が何気なく言うと、リサは目をぱちくりと瞬きした。
そして、すぐにふっと笑いをこぼした。
その笑みには、驚きと、ちょっとした呆れも混じっている。
「本気で蜜レモンを褒美にする気か?」
声には軽い茶化しの響きが混じっている。けれど、どこか楽しそうでもある。
「褒美とは別だ。けど、差し入れくらいはしてやれるだろう」
俺がそう返すと、リサはくすりと笑い、肩を小さくすくめた。
「お優しいことだな、まったく。……ま、悪くはないと思うぞ。あれなら気取らないし、堅苦しくもない。きっと喜ぶ奴も多いさ」
彼女は穏やかな笑みを浮かべながら、軽く両手を広げる。
その仕草はどこか、気楽な市場の空気と馴染んでいて、妙に様になっていた。
なんだかんだ言いながら、こういう場面ではリサは頼りになる。