越後の軍神と気取り屋マスター   作:元ジャミトフの狗

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第十話

 

 コン、コン――。

 重厚な木の扉を叩くと、内側からくぐもった声が返ってきた。

 

「入れ」

 

 時計塔・ロード・バリュエレータの私室。

 分厚い絨毯は贅沢な空間を演出して、壁際の高い書架には革装丁の古文書が詰まっている。

 窓から差し込む朝日は、ロンドンの曇天を切り裂くように狭く、その光は老女の白髪混じりの髪と深い皺を淡く照らしていた。静謐な空間だが、その奥にひそむのは、長年権力の中枢で呼吸してきた者だけが持つ、油断ならぬ気配だ。

 

「おう、おかえり悠斗。ふむ、戦場の色がまだ残ってるな」

 

 椅子にもたれた老女は、片肘を机に乗せ、こちらを見上げた。

 その声は低く、重く、しかしどこか親しみのある響きを帯びている。初めて会ったときから、この声音には不思議な安心感と同時に底知れない圧力があった。

 

 悠斗は一礼し、短く報告を口にする。

 

「任務は無事完了しました。襲撃者たちを制圧し、アジトも壊滅させました」

「ん、それは何よりだ。……で、その顔はなんだ。何か引っかかったか?」

 

 机の片隅に置かれた色砂が、バリュエレータの指先で崩されていく。さらさらと流れる音が、部屋の沈黙を際立たせた。

 悠斗はその光景を見ながら、しばらく口を閉ざす。あの声を思い出す――霧の中、黒い羽根と共に届いた誘いの言葉。

 

「……使い魔を介して、ダーニックという男が接触してきました。俺をユグドミレニアに引き入れたいと」

「ほう……ダーニックか。あの男は、人を動かすのが大の得意だからな」

 

 短く吐き出された言葉は軽やかだが、その裏には警戒と僅かな軽蔑が混ざっている。バリュエレータは視線を外さず、悠斗の小さな表情の変化も見逃さなかった。

 

「条件は悪くありませんでした。自由な研究、豊富な資料と環境」

 

 悠斗は淡々と告げるが、その声にはわずかに熱が混ざる。若い魔術師が夢見ずにはいられない条件だったからだ。

 

「自由ねぇ……長いこと鐘の中で砂を撒いてるオレには、それがどういう意味を持つのか知っている」

 

 バリュエレータは、色砂の中を指先でなぞるように円を描き、その形を崩す。砂粒が散るたび、机の上に小さな島ができては消える。まるで、選ばれなかった未来の地図を破り捨てるように。

 

「それでも、若い時分に“自由”という言葉は大層甘い響きに聞こえることだろう。だがな――自由の向こうにあるのは、場合によっては“孤立”や“後ろ盾の消失”だったりする。その代償をおまえは背負えるのか?」

 

 その言葉は、説教でも命令でもなく、冷静な問いだった。

 しかし悠斗の胸には、重い鎖のように響いた。彼を拾い上げ、ここまで導いたのは他ならぬこのロードである。その恩を切り捨てることは、ただの裏切り以上の意味を持つ。

 

「ダーニックが急にコンタクトをとってきたのは、あの男なりに利得を見込んでいるからだ。若い者がありがたがる“甘い蜜”を嗅ぎ分ける嗅覚は、中々馬鹿にならん。それに今はまだ時計塔の魔術師として籍を置いているが、それもいつまで続くかは未知数だ。何やら企みがあるようだからな」

 

 バリュエレータは、砂粒を指で掬い、掌の上で軽く転がした。その一粒一粒を吟味するかのような仕草に、悠斗は自分の立場を重ねる。選ばれる砂と、零れ落ちる砂の差は、残酷なまでに明確だ。

 

「忠告する。オレは甘やかす老婆じゃない。お前がこの先どうするか、判断はお前自身のものだ。ただし、自分がどこで刃を交わし、どこで踏み絵を迫られるのか――その地図は自分で描かねばならんぞ」

 

 悠斗はわずかに頭を下げた。

 

「……ありがとうございます。オレはここで学びたいです。まだ研鑽の途中ですから」

 

 その声には迷いと共に、わずかな決意の影も宿っていた。だがバリュエレータは、それだけでは満足しない。

 柔らかな笑みを浮かべ、何かを言いかけた老女はふと手を止める。そして片目を細めた。

 

「――ただし、条件次第では……許してやらんこともないな」

 

 悠斗は眉をひそめる。経験則として、この老婆が前言を撤回する時は大抵碌なことにならないからだ。

 

「条件、ですか?」

「簡単なことさ」

 

 老女は口元だけで笑った。その笑みは、あらゆる策謀を踏破してきた者にのみ許されるものだった。

 

「もしおまえが奴の元へ行くというのなら、その先で耳と目をよく働かせろ。ユグドミレニアの台所事情、戦力、計画――全部、オレの元に届けてほしい。そうすりゃ、お前の亡命は、ただの裏切りじゃなく、立派な任務になる」

 

 息を呑む。

 脳裏に浮かぶのは、あの霧の中で微笑むダーニックの姿と、その背後に広がる未知の領域。そこに踏み込むことは、最悪同時に両方の陣営から命を狙われるということでもあった。

 

「……命令ですか」

「提案だよ」

 

 バリュエレータは肩をすくめ、掌の砂を机に落とす。

 ぱらぱらと散った砂は、陽の光に反射して一瞬だけ宝石のように輝いた。

 

「オレはお前に首輪を掛けるつもりはない。だが、もし自ら首輪をつける意思があるというのなら、鎖の端は握らせてもらうとしよう」

 

 その言葉は、甘くも重く、悠斗の胸に沈んだ。老女の笑みには、柔らかさと冷徹さが奇妙に同居している。悠斗は、その笑みの下に潜む本当の怖さを、改めて痛感するのだった。

 

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