越後の軍神と気取り屋マスター   作:元ジャミトフの狗

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第十一話

 ロンドンのとある宿舎(フラット)

 悠斗によって割り当てられた一室は、質素だが清潔だった。石造りの壁と木製の家具は長い年月を経てなお落ち着いた風合いを保ち、窓からは霧雨に濡れた街灯がぼんやりと揺らめいて見える。

 

 景虎は扉を閉め、畳の代わりに敷かれた厚手の絨毯の上に静かに腰を下ろした。戦いの高揚も、荒野の霧も、今は遠い。

 耳に届くのは、壁越しに聞こえる時計の秒針と、自分の呼吸だけだった。

 

 膝に置かれた手の上には――例のペンダント。雪の結晶を模したそれは、変わらぬ輝きを宿していた。

 

「……マスター」

 

 ぽつりと、呼びかける。

 

「人はなぜ、心を言葉にするのでしょうか?」

 

 返事はない。彼は隣の部屋で、何やら忙しそうに書類に目を通している。これから大仕事があるのだとか。

 だが、景虎はそれでも構わなかった。問いは、相手に答えを求めているようで、実は――己の中の“何か”を探るためのものだったから。

 

「私は心というものが、わかりません」

 

 仏の教えを口にしてきた。正しき行いをなぞってきた。戦場では、悪を斬ることが善であり、殺すことに意味があった。 

 だが、それ以外の場で――たとえば贈り物をもらったときに、笑顔を向けられたときに――どうすればいいのか、わからなかった。

 

「これは……嬉しいということでしょうか?」

 

 ペンダントをそっと指でなぞる。冷たい金属の感触の奥に、あのとき悠斗が口にした言葉が浮かぶ。

 

 ──似合ってるから

 

 その言葉は簡潔だった。だが景虎にとって、それは剣より重い問いを生み出した。

 

「私は、似合うと言われて。何を、思えばよいのか」

 

 彼女の声が、少し震えた。

 

「何をしたいのだろう、私は」

 

 その言葉は、誰に向けるでもなく、霧のように宙へ溶けた。

 召喚に応じ、聖杯のために戦った。主人の任務のために斬った。与えられた役目を果たすために生きてきた。

 だが、それはすべて「与えられた」理由だ。自ら掴み取った欲望ではない。

 

 景虎は眉をひそめ、膝の上で両手を重ねる。

 望むこととは何か──悠斗に幾度も問うたが、答えを心の奥底で理解できた試しはない。

 人は皆、己の心を基準にして考える。だが、自分にはその「基準」がない。

 

 ──分からない。

 

 その感覚が、胸の奥に小さな棘のように刺さる。

 分からないからこそ、知ろうとする。知ろうとすることが人間らしさなのだと、もし誰かが教えてくれたなら。

 しかし、彼女はその事実すら知らない。

 

 ふと視線が部屋の隅に置かれた姿見に向いた。

 近づき、鏡面に映る自分を覗き込む。

 銀色の長い髪──その中に、細く、だが確かに黒い糸が混じっていた。

 

「これは……?」

 

 指先でその部分をすくい、光にかざす。

 黒は、夜のように深く、温かかった。銀が冷たさを映すなら、これは確かに人の温もりを思わせる色だ。

 

 景虎は鏡の中の自分と、しばらく無言で視線を交わした。

 その表情はいつも通り整い、冷ややかで、感情の揺れを映さない。

 しかし、心の奥のどこかで、知らぬはずの「ざわめき」が小さく波紋を描いた気がした。

 

 それが何なのか。

 まだ、分からない。

 

 扉を叩く、控えめな音が響いた。

 

「景虎、起きているか」

 

 悠斗の低く落ち着いた声。景虎は一瞬だけ鏡から目を離し、返事をする。

 

「……はい。どうぞお入りください」

 

 軋む音とともに扉が開き、黒いコート姿の悠斗が現れた。

 手には湯気の立つマグカップが二つ。夜気の中から入ってきた彼の服には、霧雨のしずくが細かく光っていた。

 

「暖かいものを持ってきた。こっちはハーブティーだ。……戦闘続きだったからな、少しは落ち着け」

 

 景虎は受け取ったカップを静かに見下ろす。湯気の香りは、戦場の血や火薬とはまるで違う穏やかな匂いだった。

 

 悠斗の視線が、ふと彼女の髪に止まる。

 銀の中に走る、細い黒。

 

「……お前、その髪」

 

 景虎は反射的に指先で黒い部分をつまみ上げる。

 言葉を探すように、ゆっくりと告げた。

 

「先ほど、気づきました。理由は分かりません」

 

 悠斗はしばし黙り、何かを考えるように彼女を見つめた。

 だが、結論めいた言葉は口にせず、ただ短く言う。

 

「似合ってる」

 

 景虎は瞬きを一度。

 それが褒め言葉であると理解はできるが、どうしてか、胸の奥に微かな熱が残った。

 

「……マスター」

「なんだ」

 

 景虎は黒い部分の髪を指先で軽く撫でながら、少し間を置いて問う。

 

「人は……いつ、自分が変わったと気づくのでしょう」

 

 悠斗はマグカップを口に運び、少し考えてから答える。

 

「自分じゃ気づかないことも多い。気づくのは、たいてい他人だ」

「他人が、ですか」

「ああ。鏡を覗くより、人の目の方が正確なこともある」

 

 景虎はわずかに首を傾げ、その言葉を胸の奥で転がす。

 自分では分からない変化を、悠斗はもう見ているのだろうか。

 銀に混じった黒を、ただ似合うと言ったあの目で。

 

 湯気が二人の間に揺らぎ、沈黙が落ちる。

 不快ではなかった。むしろ静かな夜に溶けるような、穏やかな沈黙。どうしようもなく、この時間を景虎は愛おしく思えた。

 

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