ロンドンに薄霧が降りる夜、梶田悠斗の指先は机に置かれた黒羽根を触れていた。廃工場でダーニック・プレストーン・ユグドミレニアから受け取った“招待状”だ。使い魔に魔力を流せば、彼の元へ返答が届く。
——自由な研究、蔵書、実験の場……そして受肉したサーヴァントを存分に活かせる環境を保証しよう
霧の中で響いた声が、耳の奥で繰り返される。魅力的な条件と引き替えに、ロード・バリュエレータの恩を裏切るのか。迷う悠斗に老女はこう告げた。
——もしお前が奴の元へ行くというのなら、その先で耳と目をよく働かせろ。ユグドミレニアの台所事情、戦力、計画――全部、オレの元に届けてほしい
ロードの要求は首輪に繋がれた犬だ。自らの軍門に下るならば、忠実な手駒であることを求められる。それは自由を代償にした安全の保障だった。
悠斗は長い沈黙の末、黒羽根に魔力を染み込ませた。ロードの提案に乗り、ダーニックの元へ向かうと決めたのだ。背後の扉が開き、景虎が入ってくる。銀髪に混じる黒い糸が、淡い光を受けて揺れている。
彼女はまだ自分の心を持て余していた。
——人はなぜ、心を言葉にするのでしょうか。私は心というものが、わかりません
数日前にそう言って鏡の前でうつむいた時の表情を思い出す。ペンダントを握りしめたその姿には、戦場では見せたことのない儚さがあった。
そんな彼女を再び戦場に連れ出す。なんとも罪深い話だ。きっと己は碌な死に方をしないだろう。そんな予感をしながらも、悠斗は歩みを止めない。死ぬところまで生きる。それが彼の信条だからだ。
「出かけるぞ」
悠斗が告げると、景虎は瞬きを一つして頷いた。
「あの男の誘いを受けるのですか」
率直かつ的確。景虎の問う声に、悠斗は無言で黒羽根を示す。景虎の瞳にわずかな戦意が宿る。
「大戦とやらが控えているのでしたか。ならば武具の手入れをしなければなりませんね」
「手入れは結構だが、今回はどちらかといえば潜入だ」
悠斗はゆっくりとポケットからタバコを取り出した。彼が煙を楽しむのは稀だ。悠斗がタバコを楽しむのは大仕事を控えた時のみ。景虎はこの一年でそのことをよく承知していた。故に胸が高鳴る。
悠斗は火をつけ、灰色の煙をふっと吐き出す。その煙はゆっくりと宙に溶け、横顔をふちどる。煙が消えゆくのを見届けてから、彼は景虎に視線を向け、慎重に言葉を選ぶようにわずかに口元を緩めた。
「俺たちが狩るべき敵はまだ見えない。悪いがお前にも一芝居打ってもらうぞ」
「ふむ、演技ですか」
景虎は小さく首を傾げる。戦場では常に正面から斬り伏せてきた。嘘をつく必要などなかった。
「指示には従いましょう。ですが私の本分は刃です」
「ああ。分かってる。そこら辺は俺が上手いことやる」
数日後、二人はロンドンを発ち、列車と車を乗り継いで東欧へ向かった。平原と黒い森が続く車窓の風景に、景虎は好奇心を隠さない。教会の多い村々を抜け、やがて山岳地帯へ入ると、小高い丘に聳え立つ古い城が姿を現した。トランシルヴァニア地方のトゥリファス、ミレニア城砦。ユグドミレニアの本拠だ。
石造りの門で迎えたのは、白いマントを翻す長身の青年――ダーニック本人だった。外見はどう見ても二十代後半。だがその瞳に宿るのは、百年の時を生き抜いた老獪さだった。深い青緑の長髪を後ろで束ね、細身の体躯に白地と金の装飾が施された軍装風の上着を纏っている。立っているだけで視線を奪う気配を纏い、柔らかな笑みと冷ややかな謀略を同時に滲ませるその姿は、城の主として相応しい威圧を放っていた。
「ようこそ。君の決断を歓迎しよう、梶田悠斗。そしてそのサーヴァントも。ここでは君の才能を存分に発揮できるだろう」
彼は城砦の奥へと案内する。廊下には数多の魔術礼装や魔術師、否、ホムンクルスが並び、魔力炉から発せられる脈動が床を震わせていた。
広間に着くと、ダーニックは杖で床を軽く叩く。
「さて、まずは君たちの力を拝見したい。私は既に把握しているが、一部の一族の者が懐疑的でね。どうかよろしく頼むよ」
鉄の扉が開き、巨軀の岩そのものが現れる。魔力の籠ったゴーレム兵、その数は三機。その背後には十数名のホムンクルスが待機している。
「良いでしょう」
景虎は一歩前に出ると、シャツのボタンを一つ開けて刀と槍を同時に手に取った。その背中を見て、悠斗は彼女に目配せする。二人の間に言葉は不要だった。
戦いは瞬きほどの短さで終わった。景虎の槍が闘気と共に軌跡を描き、重厚な岩を紙のように断つ。ゴーレムの剛腕とホムンクルスの時代錯誤なハルバードが火花を散らして迫り来るが、彼女の動きはそれらすべてを凌駕した。戦国の戦鬼が、現代の魔術で造られた兵器を斬り伏せる。悠斗は背後で結界を構築し、後方から奇襲を仕掛けてきたホムンクルスを撃退する。やがて最後のゴーレムが瓦礫となった時、景虎は刀を静かに納めた。ホムンクルスの兵隊は器用にも峰打ちで気絶させたようで、景虎の足元で苦しげに呻いていた。
見事だとダーニックが拍手を送る。しかし彼の笑みは薄い。
「期待以上だ。君がサーヴァントを受肉させてた意味がよく分かった。これならば来るべき大戦でも――」
「その話だが、一体いつ始まると言うのか。いや、そも大戦とは何か。外様には話せないというのなら弁えるが」
ダーニックは目を細め、炎の灯る天井を見上げた。
「我々は近いうち、時計塔に反旗を翻すつもりだ。そのことは承知の上だね?」
「ああ。正気の沙汰とは思えんが、勝算があるのだろう?」
「勿論だとも。聖杯大戦、君にはその準備を手伝ってもらう」
彼は悠斗に指示書の束を手渡す。そこには霊地の改良計画や礼装の図面がびっしりと書き込まれていた。
夜。城の一室に戻った悠斗と景虎は、灯りの下で密談する。悠斗は手渡された図面を眺め、ところどころにメモを書き込んでいる。
「聖杯大戦。それにこの霊地の仕様……まさか聖杯戦争を一族で掌握するつもりか。こいつは予想以上だ」
彼は頭を抱える。なぜならユグドミレニア側に勝算が存在していたからだ。魔術の総本山たる時計塔に挑む、その意味を正しく理解しているからこその驚愕である。
ダーニックは本気で時計塔から独立しようとしている。何が彼をそこまで駆り立てるのか。恐怖を超えて笑いたくなる。
一方、景虎は窓から外の森を眺めていた。闇の中を吹き抜ける風が、彼女の髪に混じる黒い糸を揺らす。ロンドンの宿舎で初めて気づいたその変化に、悠斗は再び目に留める。銀の中に黒が混じるのは、彼女の内面が変わってきた証だと、どこかで感じていた。
「マスター、首尾はいかがですか」
「上々だ。お前の方はどうだ」
「……どうにも腹芸は苦手です」
「いいや、おまえは充分にやっている。戦うべき時に戦い、黙るべき時に黙ってくれれば、それでいい」
景虎は納得するように頷き、続けて言った。
「そなたは嘘をつくのですね。恩を受けた相手に従いながら、別の者に従う。戦国の世でも思いましたが、私はその理が分からない」
悠斗はしばらく言葉を探し、そして笑った。
「俺だって分かっているわけじゃないさ。ただ生き残るためにやれることをやっている。それが正しいかどうかは誰も教えてくれない」
そうだ。何が正しいかなんて誰にも分からない。人間はその一瞬を全力で生きている。
だからそう。その気になれば、悠斗は時計塔を、ロード・バリュエレータを裏切ることができる。だがその結末はきっと悲惨なものになるだろう。となれば、持ち得る手札は全て強く使いたい。
「ランサー」
「はい」
懐かしい響きだと景虎は感じた。未だ記憶に新しい亜種の名を冠する聖杯戦争にて。彼女の呼び名は正しくソレだった。
「腹を括るぞ」
「元よりそのつもりでしたが」
「なら覚悟が足りなかったのは俺だけだったか」
「まさか。そなたはいつも強かでした。そなただからこそ、私は甘んじて従僕に身をやつしているのです」
「そうかい」
気恥ずかしそうに目を逸らす悠斗をただ見つめる。そうだ。この男はいつも真っ直ぐで、愚かな人間だった。
辟易するくらい当世の正しさを問い尋ねる景虎に、悠斗は真摯に答えた。その全ては己の主観に過ぎないと断りつつ、それでも可能な限り答えようとしてくれた。人ならざる何かに人らしく生きて欲しいと宣う一方で、こうして平気な顔して戦に連れてくる度し難い男。
この男は私がいなければ死ぬ、景虎は自惚れでもなんでもなく、ただそう分析した。だってそうだろう。
「二重スパイするぞ」
「……全く本当に、そなたは愚かですね」