新宿の喧騒から一転、成田空港のターミナルは無機質な静けさに満ちていた。チェックインカウンターの行列、電子掲示板の点滅、搭乗アナウンスの淡々とした響き。長尾景虎は、白い着物に身を包み、銀髪を背に流しながら、ガラス越しに駐機場を眺めていた。彼女の瞳は、まるで戦場の次の標的を探すように、滑走路を走る飛行機を追う。だが、その視線にはどこか無垢な好奇心が混じっていた。
「マスター、飛行機とはなんとも不思議なものですね。鉄の鳥が人を乗せて空を飛ぶ。まるで龍の背に揺られるが如く」
景虎の声は穏やかだが、言葉の端々に滲む獣のような鋭さが、近くの旅行客を無意識に身構えさせる。彼女の隣に立つ梶田悠斗は、黒いコートのポケットに手を突っ込み、短く答える。
「科学だ。
悠斗は雇われの魔術師である。聖杯戦争の勝利を上司に報告するため、ロンドンの時計塔へ向かう。亜種聖杯を用いて受肉させた景虎を従えた彼の任務は、空となった聖杯をバリュエレータの老女に引き渡し、次の指示を受けることだ。彼の無骨な顔には疲れが滲むが、口数はいつも通り少ない。景虎には、それがむしろ心地よい。余計な感情や言葉は、彼女の理解を超える雑音でしかないからだ。
二人は保安検査場を抜け、搭乗ゲートへと向かう。景虎の白い着物は、近代的な空港の風景の中で異様に映る。彼女が歩くたび、銀髪が揺れ、首元の雪の結晶のペンダントが控えめに光る――新宿のデパートで悠斗が贈ったものだ。彼女は時折それを指で触れ、意味を探るように首を傾げる。
「マスター。このペンダント、結局のところ、なぜ私に与えたのですか?」
「似合ってるから」
悠斗の答えはそっけないが、景虎はそれ以上問わない。彼女にとって「似合う」という言葉は、仏の教えと同じく「正しい」ものとして受け入れるべき知識だった。だが、その奥にある悠斗の意図、あるいは人の心の機微というべきものは、彼女には霧の彼方だ。
ゲート前の待合エリアで、景虎は窓際の席に腰を下ろす。彼女の視線は、駐機中の飛行機に固定されている。
「マスター。ろんどんでは、また戦うのですか?」
彼女の口調は平坦だが、瞳の奥に微かな輝きが宿る。彼女にとって、聖杯戦争の終結は一つの区切りでしかない。戦場こそが、彼女に「生きている」実感を与える場所だった。
悠斗は隣に座り、紙コップのコーヒーを手に持つ。
「報告だけだ。戦いは終わり」
「終わり」
景虎は呟き、窓の外を見つめる。彼女の心は、人の喜びや悲しみを映さない。だが、戦いのない世界は、彼女にとってまるで色を失った絵画のようだった。
「戦わぬ世界は、静かですね。仏はこれを良しと説くのでしょう」
彼女の唇が、ほんの一瞬、虎のような笑みを浮かべる。それは無邪気なようで、どこか恐ろしい。
悠斗は彼女の横顔を一瞥する。景虎の非人間的な本質――感情の欠落、戦いへの渇望、人の心を「知識」としてしか理解できない精神性――は、彼にとって扱いやすいものだった。彼自身、言葉を最小限に抑え、感情を表に出さない。だが、景虎のその笑みに、ほんのわずか心がざわつくのを感じた。彼女は聖人君子のように振る舞うが、その奥には獣が潜む。悠斗はそれを、戦場で何度も見た。
「退屈なら、ロンドンで何か面白いものを見つけろ」
悠斗の言葉に、景虎は目を瞬かせる。
「面白いもの……。それは、どのようなものですか?」
「自分で探せ。俺は知らん」
彼の答えはいつも通り無愛想だが、景虎はそれに満足したように頷く。彼女は「面白いもの」を知識としてではなく、初めて自分で感じてみたいと思った――いや、感じたいと「思う」こと自体が、彼女にとって未知の領域だった。
搭乗のアナウンスが響く。悠斗は立ち上がり、景虎も後に続く。二人は飛行機に乗り込み、ロンドンへと旅立つ。機内の狭い座席で、景虎は窓の外を見ながら呟く。
「マスター。空の上では、仏の教えも届かぬのでしょうか?」
悠斗は目を閉じ、短く答える。
「さあな。ただ空の上に仏はいなかった」
「なんですか、それ」
景虎は小さく笑う。その笑みは、戦場での彼女のものとは異なる、どこか人間らしいものだった。彼女の胸のペンダントが、機内の光を反射してきらめく。ロンドンでの報告が終われば、また新たな戦いが待つかもしれない。だが今、彼女はただ、空の向こうに広がる未知を、静かに見つめていた。