悠斗はダーニックの私室の扉を閉めると、そこに寄りかかって待つ影が目に入った。いつしか買い与えた白いシャツに黒のパンツを身にまとう景虎だ。気に入った様で何より。
「待たせたな。少々長くなってしまった」
「構いません。そなたの話は長いですから」
「うるさいぞ」
景虎は柔らかく笑う。表向きは冗談めいているが、その眼差しは常に周囲の危険に気を配り、悠斗の背後で護衛としての務めを果たしている。
二人は静かな廊下へと足を踏み出した。ユグドミレニア城の壁は古びているが、魔術師たちの布陣により結界が張り巡らされている。重い魔力が空気に満ち、ホムンクルスの足音やサーヴァントの気配が交錯する。高窓から差し込むわずかな月明かりが白い斑を落とし、壁際に灯された燭台の炎が揺らいでいた。
「ダーニックはどうでしたか?」
景虎が肩越しに尋ねる。
「さあ、どうだろうな。彼は常に本心を隠している。しかし、あれだけの策を練るのに百年近い歳月を費やした男だ。俺たちの動きまで計算に入れていることは間違いない」
悠斗は答え、歩みを進めながら先ほどの会談内容を思い返す。ダーニックの執念、ゴルドや他のマスターたちの悪癖。それら全てが、今この城に満ちている不安定な空気の正体だ。
その時、廊下の角を曲がったところで、白い影がふらふらと歩いているのが見えた。淡い肌、虚ろな瞳。継ぎ接ぎだらけの薄布をまとい、その口からは荒い息が漏れている。ホムンクルス。それも、サーヴァントに供与するための魔力生成機として鋳造されたはずの個体だ。悠斗は無意識に眉をひそめた。
「あれは……ゴルドが鋳造したホムンクルスか」
この拠点の地下には幾つもの魔力生成室があり、強化ガラスの中には眠り続ける人形たちが並んでいる。彼らは意識もなく魔力炉に接続され、外界と隔絶されたまま生涯を終える。悠斗は一度、その部屋を訪れたことがある。ガラスの内側に浮かぶ泡、無数の管が刺さった白い身体、かすかに動く胸。あの光景を思い出すだけで胃の奥が重くなる。それでも彼は目を逸らさなかった。
「どうする」
景虎が問う。背後から漂う血気はランサーとしての本能だろう。
「決まっている。このままではユグドミレニアの秩序が乱れる。確保し、元の場所へ戻す」
悠斗は即答した。拠点防衛の観点から見れば異常事態だったし、何よりこの無垢な存在が戦いの渦に呑まれることを許すわけにはいかなかった。
だが――それは詭弁だ。結局のところ、このホムンクルスの命を燃料としている以上、「戦争に巻き込まない」というのは虚言にすぎない。単に自分を欺きたいだけの、卑怯者の理屈だった。
悠斗は歩み寄り、弱ったホムンクルスの肩に手をかけようとした。肌は冷たく、細い体躯は震えている。その奥にかすかな抵抗が宿っているのを感じ、悠斗は躊躇した。しかし逡巡する暇はない。
その瞬間、鮮やかな桃色の影が視界に飛び込んできた。長い髪をなびかせた騎士が、軽やかに壁際から跳び出し、二人の間に割って入った。
ライダー・アストルフォ。シャルルマーニュ十二勇士にして、屈指の能天気な美丈夫と謳われる英雄。しかし伝説とは異なり彼は少女のように華奢な肢体と可憐な容姿を併せ持つ男の娘だった。
そんな青年が無邪気な笑顔を浮かべている。
「ちょっと待った! その子、助けを求めているんじゃないかな?」
彼は軽やかな声で言った。装飾の多い鎧も彼の身のこなしには全く重さを感じさせない。
悠斗は眉をひそめる。
「……何のつもりだ。これはユグドミレニアの財産だ。露悪的に言えば道具だ。悪いが、このホムンクルスには自らの勤めを果たしてもらう」
アストルフォは首を傾げ、肩をすくめて笑う。
「知ったこっちゃな~い!」
まるで一編の童話の主人公のような無邪気さで言い放った。その口調には躊躇や計算が微塵もない。
景虎が静かに槍を構え、アストルフォの動きを注視する。悠斗は言葉を選んだ。
「そのホムンクルスは確かに助けを求めているのかもしれない。しかし、その命は長くて二、三年しか持たない。君に責任が取れるのか?」
口にした瞬間、胸の内に苦味が広がる。自分が口にした「命の期限」という言葉の冷たさに、どこかで反発している自分がいる。
アストルフォは微笑んだまま、躊躇なく答える。
「僕は僕が、納得いくまでは助けるよ。見捨てるなんて、しない!」
短い沈黙が流れた。悠斗は胸の内で溜息をつく。感情論ではなく合理性をもって話したはずが、相手は全く聞き入れない。内心ではアストルフォの言葉の真っ直ぐさに羨望すら覚えていたが、それを表に出すわけにはいかなかった。
「気持ちは分かるが、話にならない。まずは俺を納得させろ」
悠斗が静かに告げると、アストルフォの表情から笑みが消え、瞳が真剣な光を帯びた。
「よし、決闘で話をつけよう! 君とボクで!」
突然の挑戦状に、廊下の空気が張り詰めた。魔術師である悠斗にアストルフォとまともにやり合う術はない。負けるのは目に見えているし、決闘そのものが無意味だ。
「断る」
悠斗は即座に言った。彼が踵を返そうとした瞬間、アストルフォは俊敏な動きでホムンクルスに手を伸ばした。その動きに対し、先の先を取った景虎が自らの槍を横薙ぎに振るい、アストルフォの腕を制した。金属が擦れ合う乾いた音が響き、火花が散る。
乱闘が始まる寸前、弱々しい声が二人の間を貫いた。
「……たすけて」
それはホムンクルスの唇から漏れた、掠れた声だった。生きたいという、ただそれだけの意志。魂の底からの呻き。荒い呼吸の間から吐き出されたその一言は、魔術師の計算も、騎士の矜持も一瞬で霧散させた。
アストルフォの瞳が見開かれる。彼は躊躇なく景虎の槍先の中へ身を投じ、身体でホムンクルスを庇った。槍先が彼の鎧に当たり、鈍い音が響く。景虎の眉がわずかに動くが、すぐに槍を引いた。彼女にとっても、この状況は望んだものではない。
悠斗はその光景を見て、思わず問いかけた。
「……なぜそこまでする」
アストルフォは真っ直ぐに悠斗を見据え、迷いなく答える。
「ボクが英雄だからだ」
その響きは冗談めいた軽さではなく、古の物語に登場する騎士の矜持を帯びていた。
悠斗は肩を竦めた。感銘を受けたわけではない。だが、ここで無理に押し通せば内紛を招くだけだ。それに、ホムンクルスが発した言葉は悠斗の胸にも突き刺さっていた。
「……分かった。だが命を救わんと欲するのなら、責任を取れ。あと巧くやれ。いいな」
アストルフォは満面の笑みを浮かべ、大きく頷く。
「勿論だとも! 任せてよ。それはそれ、これはこれ。この大戦は、僕の使命だからね」
そう言うと、彼はホムンクルスをそっと抱え上げ、軽やかな足取りで廊下を駆け抜けて行った。ホムンクルスの青年はアストルフォの胸の中で静かに息をしている。振り返ることなく、夜風のように軽やかに消えていった。
残された悠斗と景虎は、駆け去る背中を見送りながら無言で佇んだ。やがて景虎が口を開く。
「……よかったのですか」
槍を下げた彼女の表情には、安堵と戸惑いが同居している。悠斗は壁に寄りかかりながら、かすかな微笑を浮かべた。
「あのホムンクルスには自我があった。生きたいという、生物として当たり前の意思があった。それは俺にとって、何よりも同感できることだったんだよ」
「貴方がホムンクルスに同情するとは思いませんでした」
景虎は意外そうに目を瞬かせる。
「同情なんかじゃない。俺だって道具として生きることに嫌気がさしている。俺はずっと、誰かの駒であることを強いられてきた。だからこそ、生き物が自由を求める声に耳を塞ぐことはできないんだ」
悠斗は自嘲気味に笑った。景虎はゆっくり頷き、遠くの闇を見つめる。
「理解しました。では、あのホムンクルスはライダーに任せましょう」
その後二人はしばらく黙って立ち尽くし、互いの呼吸だけが狭い廊下に響いた。やがて景虎が口を開く。
「――それにしても、彼は英雄だと口にしました。貴方にとって英雄とは、どのような存在ですか?」
悠斗は虚空を眺めたまま答えに窮した。英雄、という言葉は美しくも危うい響きを持つ。
「さあな。俺は英雄ではない。俺は生き延びるために、敵にも味方にも嘘をついてきた。ただ、英雄と呼ばれる者は誰かの期待や理想を背負い、そのために自らを燃やすんだろう。俺には荷が重い役だ」
景虎は静かに頷いた。
「かつて私は義のために戦い、多くの兵を率いました。しかし、義を掲げれば必ず誰かの命を奪うことになります。英雄とは、己の信じるもののために誰かを救い、誰かを斬る宿命を持つ者。ライダーは、その宿命に迷いなく飛び込んだのでしょう」
悠斗は笑みを漏らした。
「お前らしい答えだ。越後の軍神と呼ばれた者に、英雄について説かれるとはな」
「私は戦国の世で名を上げただけ。そなたが言うように、道具として生きることに嫌気がさす気持ちは分かる。私も主君に仕える立場でありながら、己の義に従って行動することの難しさを知っていましたから」
二人は再び歩き出した。石畳を打つ足音が静かに響く。心のどこかで、悠斗はアストルフォの言葉を反芻していた。
『ボクが英雄だからだ』
戦争のただ中にあって、それはあまりにも眩しい言葉だった。英雄を自称する彼の無邪気な理想は、現実を知る者から見れば危うい。それでも、あのホムンクルスのように誰かが手を差し伸べてくれるなら、生きる価値はあるのだと、悠斗は思った。
戦争は迫っている。ユグドミレニア城の中庭ではホムンクルスたちが静かに働き、サーヴァントたちの気配が夜風に溶け込んでいる。あの白い影がどこへ運ばれ、どのような運命を辿るのか、今は知る由もない。
それでも、誰かが誰かを救おうと動いた一幕は、荒んだ世界の中で小さな救いとなる。英雄の理想と現実の狭間で、誰かの命が揺れる。悠斗はその重さを背負いながらも、再び自らの役割を果たすべく歩を進めた。
悠斗の胸には、灰色の罪悪感と薄明の期待が奇妙に同居していた。二重スパイとして彼はユグドミレニアを内側から支えつつ、別の勢力にも情報を渡している。裏切り者としての自覚と、彼自身の理想との間で揺れ動きながら、「生きたい」と願う声に応える道を模索していた。遠い昔、彼が飼い犬として首輪を付けられていた頃の記憶が蘇る。自らの鎖を断ち切るために、彼は歩みを止めないと誓った。
歩を進めるたびに靴底が石畳を擦る音が響き、塔の上では黒い旗が夜風に揺れていた。窓越しに見えるルーマニアの夜空は星一つ見えず、厚い雲が戦の行く末を隠している。次に顔を合わせる時、アストルフォの選んだ道が吉と出るか凶と出るかは誰にも分からない。ただ一つ確かなのは、誰かの意志が世界をわずかに変えるということだった。
悠斗は深く息を吸い込み、その匂いの中に微かな血の香を感じ取った。戦いの足音は、もうそこまで迫っている。