目が覚めた瞬間、喉の奥に砂利を噛むような苦味が走った。虚数の渦がようやく遠のき、視界に輪郭が戻った。
悠斗の覚醒に気づいた景虎が無言で湯を差し出す。悠斗が湯気を一口含んだところで、彼女は短く告げた。
「黒のセイバー――ジークフリート殿が、退去しました」
言葉は淡々としていたが、沈黙が全てを補った。胸の奥で、何か乾いたものがひび割れる音がした。
経緯はこうだ。以前見たホムンクルス――アストルフォが面倒を見ると宣言していた人工生命体が、キャスターの宝具に高い適性を示したらしい。だが、そのホムンクルスはアストルフォと共に脱走。追ってゴルドとセイバーが確保に向かったところ、一悶着の末にゴルドは軽傷、ホムンクルスは瀕死の重体となる。そこで沈黙というゴルドの命令を破ったジークフリートは自らの心臓を捧げ、ホムンクルスの命を救い、そのまま霊基は崩落して消えたという。
「英雄を軽んじた報いでしょう」
景虎の声音に哀惜はない。あるのは、事実を事実として見据える冷徹さだけだ。悠斗は息を吐く。
「馬鹿らしい。セイバーは正に移動要塞だった。頑強にして精強、最優のクラスの名に恥じぬ英霊だ。その命をホムンクルス一人のために差し出す。割に合わない。……戦力は目に見えて落ちた」
ヴラド三世はすぐに処分を下した。失態を犯したゴルド・ムジークは部屋での謹慎。アストルフォは地下に監禁。妥当と言えば妥当だ。
「収穫がなかったわけではありません」
景虎が続ける。
「赤のバーサーカーの捕獲に成功しました。真名はスパルタクス。共和政ローマの剣闘士にして、第三次奴隷戦争の指導者。聞けば、叛逆の使徒だとか」
「……扱いづらい札を引いたな」
セイバーと釣り合うかと問われれば、黙考の後に首を振るしかない。能力が劣るからではない。狂戦士の運用は、単純に難しい。対して黒のセイバーはジークフリート――竜殺しの騎士。叛逆の狂戦士と竜殺しの騎士。どちらが戦力として扱いやすいかは、言うまでもない。
ともあれ、減った分は現実だ。補填は必要になる。そんな算盤を弾きながら、悠斗は微細な魔力の震えを確かめた。結界の縁で、ひとつだけ灯る反応。東部の森だ。
「例のホムンクルスはまだ森で彷徨っている。……位置は山の中腹。ずいぶん歩いたな」
「歩くことさえ覚束なかったはずの彼が、ですか」
「ジークフリートの心臓の影響だろう。神秘が肉体の強度を押し上げている」
ならば、問わねばならない。生きたいと願い、他者の心臓を移植されてまで生き延びたその者に――これから何をしたいのか、これから何をするのか。
奇跡には理由がある。奇跡は、諦めなかった者の頭上にしか降りない。だからこそ彼が今も生きていることに、敬意を払うべきだ。だが、それとは別に――もう彼は無垢ではいられない。
「ホムンクルスは創造主の意思に従うためにある。その純粋さに創造主が必ずしも応えてくれるわけじゃないが、だからこそ彼らの責任は創造主に課せられる。……けれど、自分で選び、自分で動いたなら、責任は本人に帰属する」
自分でも驚くほど、言葉は滑らかに出た。景虎が横目でこちらを見、うっすらと頷く。
「ならば、そなたは選択肢を示すのですか」
「そうだ。生まれたばかりの奴に、最低限の択を用意する。こちらで保護する手もあるし、監督役――ルーラーへ引き渡すのも悪くない。ジークフリートの心臓は神秘を帯びている。もし敵に知られ、キャスターあたりに弄られれば面倒の極みだ」
「承知しました。同行しましょう」
ヴラド三世の機嫌はすこぶる悪くなって霊体化していたので、代わりにダーニックに話を通して、悠斗と景虎はすぐにミレニア城砦を発った。森を抜ける風は冷たく、葉裏に残る朝露が足もとで細かく弾ける。結界の糸は途切れず、指先で摘めば微弱な鼓動が山の中腹へと導いてくれる。
道中、罠の匂いも、伏兵の気配もない。代わりに、途切れ途切れの足跡――つい昨日まで歩くことさえ知らなかった者の、不器用な踏み跡が続いていた。やがてそれは、ふらつきの少ない、均された歩幅へと変わっていく。
「……全く逞しいことで」
景虎が草を払う。斜面の上に、石英のように白い影が歩いていた。風にさらわれるほど頼りない体躯だが、胸元の鼓動だけは、はっきりと森の静寂を打っている。
「いくぞ」
「はい。ですが驚かせないように」
悠斗は頷き、敵意がないこと伝えるため魔力を絞った。足で踏んだ枝が柔らかく鳴る。白い影が、こちらを振り向いた。彼の瞳は、警戒の色をはらんでいた。
「大丈夫だ。話をしに来ただけだ」
言葉は、できるだけ短く。できるだけ平坦に。悠斗はゆっくりと両手を上げ、逃げ道を塞がぬよう立ち位置を選ぶ。景虎は一歩後ろに立ち、槍を下げる。
森の奥で、朝日が葉の隙間から斑に降りた。
「ホムンクルス、お前に名はあるのか?」
「……ジークだ」
「良い名前だ。――さて、ジーク」
名を確かめるように一度だけ呼んでから、悠斗は2本の指を立てて見せた。
「今、こちらからお前に提示できる道は二つだ。ひとつはユグドミレニアの保護下に入ること。もうひとつは、監督役――ルーラーの保護を受けること」
ジークの喉が小さく上下する。返事はない。悠斗は構わず続けた。
「ユグドミレニアなら城塞の結界でお前を守ることができる。監視は入るが、俺の目が届く限りお前を戦力とは見なさない。ルーラーの保護を求めるのなら、敵味方の線から離れた“外側”へ退避できるだろう。どちらにせよ、身の安全と時間は確保できる」
言ってから、胸の内で別の言葉を飲み込む。
――そもそも、お前の身体は未知数の塊だ。
「付け加えると、ジークフリートの心臓を移したお前は、どこまでが“人としての限界”で、どこからが“神秘としての特例”なのか、今は誰にも分からない。理屈の上では、お前を改造して聖杯戦争の尖兵に仕立てることだって可能だ」
景虎が横目でこちらを見て、鷹のような眼をわずかに細める。
自分でも分かっている。いまの陣営にとって、喉から手が出るほど魅力的な“補填案”であることを。誘惑が、ないわけじゃない。だが――。
「はっきり言って、俺にお前を助ける義理はない。自分の意思でユグドミレニアを離れたお前を、俺がわざわざ拾い上げる必要はないからだ。だが俺は“生きたい”という意志には肩入れする。だから、先達として道筋だけは置こう。選ぶのはお前だ」
ジークが顔を上げた。躊躇いの色が濃い。やがて、彼は問う。
「……どうして、俺の身を案じるのだろう。君たちはセイバーを失ったのに」
「単に聞きたかっただけだ。お前が何をしたいのかを」
即答に、ジークは言葉を失う。森の匂いがひとしきり濃くなり、遠くで鳥が翼を鳴らした。彼は口を開きかけ、唇を噛む。
「……分からない。ライダーは言った。“今の君は何だってできる。街へ行って人と会い、好きにも嫌いにもなって、楽しく生きろ”って。――できたら、きっと楽しいことだと思う。けど、それが本当に“俺のしたいこと”なのかは、分からない」
その正直さは、かえって痛々しいほど透明だ。悠斗は頷く。肯定でも否定でもなく、「聞いた」という意思表示として。
「今はそれで構わない」
そこで一拍置き、言葉を研ぐ。
「だが、いずれ決めなければならない。無垢であることは罪じゃない。けれど、無垢であり続けることは罪だ。何も選ばないということは、誰かに選ばせるということだからな」
景虎が静かに続ける。
「戦の場では、選ばぬ者から倒れます。どちらの庇護を選ぶにせよ、『自分で選んだ』という事実が、そなたの足を前へ運ばせることでしょう」
ジークは胸に手を当てた。そこでは、英雄の心臓が確かな拍で鳴っている。彼は深く息を吸い、吐く。まだ答えはない。だが、逃げずに沈黙している。
「あまり時間はないが、それでも今決めろというのも酷な話だろう。ユグドミレニアでも、ルーラーでも、あるいは第三の道でも構わない。だが選択の責任からは逃げるなよ」
悠斗はそう言って、掌の小さな護符を差し出した。糸で結界を結んだ、目立たない札だ。
「これを持っていろ。助けが必要な時は糸を引くといい。お前の居場所が分かる」
ジークは戸惑いながらも受け取り、指先で感触を確かめる。風が一度、森を逆なでた。
「――ありがとう」
小さく、けれどはっきりとホムンクルスは告げる。悠斗はうなずき、景虎に視線を送る。彼女は槍をわずかに傾け、守りの姿勢を解いた。
「俺は帰る。それは好きに使うといい。折りが悪ければ救援に行けないかもしれないが、その時は運が悪かったと諦めてくれ」
背を向けかけたとき、ジークが不器用に問いを重ねる。
「……もし、俺がどちらも選べなかったら?」
「悪いがその時も自分で何とかしてくれ」
なにせ元から義理はない。この肩入れは、悠斗が気持ちよく生き、後悔しないための儀式にすぎないのだから。
伝えるべきことは伝えた。悠斗が景虎を連れてその場を去ろうとしたところ、絹糸のような金髪の少女が現れた。甲冑をまとい、気配は澄んでいる。サーヴァントであることは間違いない。それでいてマスターの姿はない。となれば――
「ああ、お前がルーラーか」
「そういうあなた達はユグドミレニアの客将ですね。他の聖杯戦争勝者がどうして聖杯大戦に参加するというのです」
「名声と金が欲しかった。それではダメか?」
「虚言を弄するのがあなたのやり口なのであれば、それで構いません」
実直、豪胆、そして清廉――彼女を評するなら、そう形容するほかない。となれば、ダーニックが画策していたルーラーを抱き込むという案は破棄せざるを得ないだろう。少なくとも悠斗はそう考える。
「……単に、そうしなければ生きていけなかったと言うことだ。しがらみというのはいつだって纏わりつく。英雄のお前には、言うまでもないことかもしれないが」
「否定はしません」
「ああ、それと確認したいことがある。我々の参戦はルール違反か?」
「7体7という聖杯大戦の原則からは外れます。ですが、自らの意思で戦争に参加するのであれば私から言うことはありません」
「そうか」
事務的なやり取りだった。だが、言葉の端々に、彼女の在り方は過不足なく滲む。秩序の側、誰にも与しない針。虚飾を嫌い、同情で判断を曲げない眼。そのルーラーの視線が、悠斗の肩越しに流れる。白い影――ジークへ。
「彼に何をしたのですか?」
「随分な言いようだな。本人から聞いてくれ」
「……あなたは彼に干渉しないと約した、と受け取ります」
「ああ。そいつに必要なのは、まとまった時間と安全だけだ」
「承知しました」
短く切り結ばれた確認は、それで十分だった。ルーラーはジークに対して、ひとりの人間として手を差し出す。
「いくぞ」
「はい」
悠斗は踵を返す。景虎が横に並ぶ。足を踏み出したところで、彼女が低く問うた。
「いかがなさいます。城へ?」
「ああ。ダーニックに報告と、穴埋めの算段だ。スパルタクスの拘束を最優先、次点で赤の連中の動向の監視か」
「承知しました」
森はまだ朝の匂いに濡れていた。露は葉先に重く、土はひんやりと息を潜めていた。