ニュースは最悪の形でルーマニア全土を駆け抜けた。ブカレストからシギショアラに至る広い領域で、連続殺人事件が発生した。被害者はすでに三十名に上る。手口はどれも迅速で正確、その上で残虐だった。被害者の中には時計塔に籍を置く魔術師も含まれていたという。魔術師を殺し得る殺人鬼。人間の仕業ではない――サーヴァントだ。
神秘の隠匿。それは魔術師すべての原則だ。公道の真ん中で血溜まりを量産するなど、愚行以外の何ものでもない。にもかかわらず、嫌な符合が浮かび上がる。黒の陣営が召喚予定だったアサシンは、ジャック・ザ・リッパー。ロンドンを恐怖の底へ叩き落とした連続殺人と、いまルーマニアを騒がす連続殺人――関連を見出さない方が難しい。
だからこそ、ヴラド三世は悠斗と景虎に現地調査を命じた。もともとこの役はフィオレとアーチャー――ケイローンが担うはずだったが、「攻めることに関しては景虎殿に勝る者はいない」と、ワラキア公が直々に指名した。また、黒のキャスターが掴んだ情報として、赤のセイバーもシギショアラ方面に向かっているという。ダーニックが、その一報を淡々と告げた。
シギショアラへ向かう車の窓外に、灰緑の丘陵が波のように重なっていく。葡萄畑は朝露に濡れ、朝の光は石造の塔の影を長く引き延ばす。舗装はところどころ剥げ、タイヤが拾った砂利がホイールハウスを弾く軽い音を続けた。
「……視線を感じますね」
景虎がわずかに眉を動かす。
「敵意は感じませんが」
「ああ、なるほど。ならそれは黒のアーチャーだろう」
監視が付くのは合理的だった。元時計塔の魔術師である悠斗――その上、立場上は黒に与しながら、赤とも話の通じる「客将」。二重スパイである悠斗を警戒するのは当然だ。まして赤のセイバーのマスター、獅子劫界離はフリーとはいえ時計塔側の魔術師。情報の出入り口はひとつ増えるごとに目を光らせる必要がある。ダーニックの計算は冷徹で、正しい。
城壁に守られた中世の街並みが、丘の背に現れた。シギショアラだ。悠斗は停車させる。まず死体安置所へ――犯人の手口は死体が語る。遺族との縁はないが、大抵は魔術でどうにかなる。
暗示がかかった受付の若い職員は、二人の顔と偽物の身分証を見比べ、薄い笑みとともに鍵束を差し出した。階段を降りると、空気がいきなり固く、冷たくなった。蛍光灯が床に薄い湖面を作り、消毒とホルマリンの匂いが喉に刺さる。
引き戸の向こうに、人影があった。
革のコートに無精髭。片手はポケット、もう片手は胸元――懐の重みへ自然と落ちる指先。赤のセイバーのマスター、獅子劫界離だった。彼は目線だけこちらへ寄越し、口の端をわずかに歪める。
「……おやおや、これはこれは。時計塔を裏切った結界師さんじゃねぇか。観光にしちゃ趣味が悪い場所を選ぶな」
低い声は乾いて、よく研いだ金属の摩擦音に似ていた。景虎が半歩、悠斗の前に出る。獅子劫の右手が、懐のショットガンのグリップへ触れるところで止まった。
「動くなよ。ここじゃ銃声が響く。死人が増えると騒ぎになる」
「我が槍を前にしてよく申した。止めはしない。決死の覚悟があらば、その引き金を引くといい」
「撃たせるなって話だよ、冗談が通じねぇな。……で、そっちは二人だけか。こちらはセイバーは連れてきちゃいない訳だが」
悠斗は肩をすくめた。
「そちらこそ。マスター一人で死体安置所見学か?」
「見りゃ分かんだろ。うちの相方は“留守番”だよ。いくらあんた達でも昼間には動かんだろう?」
「それはどうかな」
何でもない事のように、悠斗は固有結界を発動する。特別な詠唱は必要ない。何せ結界は既に体の内で発動させている。それをただ表に展開するだけ。抑止力が働いて心臓を握り潰されたような激痛を我慢しなければならないが、どうということはない。
獅子劫とて歴戦の魔術師。尋常ではない速度で展開される大魔術を前に、ショットガンを撃ち放ち、令呪を用いて自らのセイバーをその場に召喚する。
弾丸が悠斗に届くことはない。羽虫にそうするように、景虎が全弾を叩き落とした。獅子劫もサーヴァント相手に命中するとは思ってなかった。単なる時間稼ぎである。
「ああ? これは一体どういう状況だ?」
令呪による強制転移。時間にしてほぼ零秒の神秘は、最早魔法の領域に足を踏み入れている。それでも動揺せずに状況の確認を優先するあたり、赤のセイバーも相当優れた剣士なのだろう。
重厚な鎧と兜に身を包んだ騎士。立ち振る舞いは騎士というよりも野獣のようだ。しかし背丈は小さい。性別は、どうやら女性らしい。
「敵マスターによる固有結界だ。分かるか?」
「知識だけならな。気に食わない景色だ」
二人の会話を聞きながら、悠斗は赤のセイバーを凝視する。虚数の波が赤のセイバーの真名を手繰り寄せようとする。しかし――
「……要領を得ない情報ばかりだな。ああ、宝具による情報遮断か」
「あ?
「これと言って何も。随分と聖杯戦争に向いた宝具だな。どうやらそういう逸話があると見える」
何が気に食わなかったのか、その一言で赤のセイバーは怒り心頭に発した。溢れんばかりの紅い魔力を放出し、真っ先に悠斗に斬りかかる。
「私を無視するとは良い度胸です。その素っ首、叩き落としてしんぜよう」
大気が軋む。景虎の槍先と赤のセイバーの剣が正面から激突し、神域めいた戦場に火花が散った。
静謐と剛猛。景虎と赤のセイバー、その戦いぶりは対照的だった。景虎は一歩も退かず、銀槍を縦横に繰り出して敵の猛撃を寸分違わず捌く。その身のこなしは流水のように滑らかでありながら、一撃一撃は氷柱めいて鋭い。対する赤のセイバーは獣じみた勢いで剣を振るい、圧倒的な剛力で景虎を叩き伏せんと猛進する。剣戟のたび、荒々しい息遣いが甲冑越しにも感じられ、全身から噴き上がる闘気が見て取れた。
槍と剣は激しく火花を散らし続けた。景虎の槍は生き物のようにしなり、変幻自在の軌道で赤のセイバーを翻弄する。八相の軍略を体現したかのような精緻な連撃に、赤のセイバーは舌打ちしつつも正面から力でねじ伏せようと猛然と応じる。
「ははっ、なかなかやるじゃねえか!」
愉悦に歪んだ笑みを見せ、狂ったように瞳を輝かせた。
「だったら、もっと愉しませろよ! ランサー!」
荒々しい挑発に、景虎は答えない。その瞳に僅かに戦の焔が灯り、唇には虎の如き微笑が浮かんだ。それは無邪気に見える笑みでありながら、底知れぬ威圧を孕んでいた。
「くっ…!」
目にも止まらぬ連撃を受け、赤のセイバーが初めて忌々しげに呻いた。景虎の槍が一瞬の隙を穿ち、彼女の兜に細かな罅を刻んだのだ。猛進する叛逆の騎士に僅かな乱れが生じる。だが――次の瞬間、戦況は大きく揺れ動くことになる。
「いいぜ…上等だ!」
モードレッドが嗤うように叫ぶや、大きく後方へ飛び退った。彼女の全身から鮮烈な魔力が噴き上がる。紅蓮の電光がほとばしり、魔剣が禍々しい輝きを放ち始めた。
「ぶっ潰してやるよ、まとめてな!」
怒号と共に剣を高々と掲げる。魔力が一瞬で沸騰し、解き放たれた剣閃は赤黒い稲妻となって空間を薙ぎ払った。それは憤怒の権化とでも言うべき凶暴な魔力の奔流であった。
世界が紅一色に染まり、天地を焼き尽くさんばかりの閃光が結界内を満たす。轟音が空気を震わせ、大地が裂けた。
やがて灼光がおさまり、再び視界が明るみになる。景虎の白い着物の袖に鮮血が散っていた。致命傷こそ免れたが、肩口を浅く斬り裂かれたのだ。景虎は小さく息をつきながらも静かに体勢を立て直す。あの奔流を真正面から受け止めたというのに、その眼差しには怯えも動揺もなかった。
赤のセイバーは目を見開いたが、すぐに獰猛な笑みを浮かべた。
「へぇ、まだ立ってやがるのか」
嘲るように放たれた言葉にも、景虎は答えず槍を構え直す。その頬を紅い雫が一筋伝ったが、まるで意識していないかのように微動だにしなかった。先程まで浮かんでいた微笑は消え、その双眸には氷のような光が宿っていた。
大気が張り詰め、一瞬の静寂が場を支配した。互いに次の一撃に全神経を研ぎ澄ませていた。勝敗はまだ決していない。その静けさは嵐の前の凪にも等しかった。悠斗は次の瞬間に戦いの趨勢を決する転機が訪れると確信していた。
「単なる魔力の放出であの威力か。宝具ではないことに驚きだ」
「……随分と余裕そうじゃないか。見たところ、形勢はこちらに傾いているようだが?」
「さて、それはどうだろう。少なくとも俺とランサーは、そうは考えていない」
戦場の只中、獅子劫と悠斗は刹那の言葉を交わしていた。魔術師同士の殺し合いである以上、
死霊魔術とは、即ち死体とともに発展する魔術である。ゆえに、死体が累々と横たわる戦場こそ、死霊魔術師にとってこの上なく効率的な探究の場となる。また、戦場で生き残るためには必然的にそれ相応の戦闘能力が求められる。故に死霊魔術師は強い。
一方、梶田悠斗は結界魔術の使い手である。その性質上、直接の戦闘には向かない術式だ。それにもかかわらず、彼はバリュエレータの使い走りとして幾年にもわたり最前線を戦い抜いてきた。その戦歴は尋常ではない。執行者と封印指定が入り乱れる三つ巴の戦場を生き延び、さらには代行者と拳を交えてこれを下したというのだ。
獅子劫はその全てが真実であるとは考えていない。だが噂が立つということは、それに準ずる何かはあったということだ。故に悠斗に戦う意志がないのであれば、獅子劫もそれに
「――うらぁっ!」
静寂を切り裂いたのは、赤のセイバーの猛然たる踏み込みだった。雄叫びと共に地を蹴り、その重装からは想像もつかない速度で景虎との間合いを一気に詰める。振り下ろされた大剣がうなりを上げ、猛虎の爪の如き一撃が横薙ぎに景虎を襲った。
景虎は寸前で身を翻し、その太刀筋を紙一重で回避する。凄まじい剣風が白刃となって水面を割り、水飛沫が宙を舞った。直撃していれば只では済まないだろう。それでも彼女の足取りは乱れない。景虎は一歩も退かず、銀槍の石突きを床に叩きつけて姿勢を立て直すと、そのまま間髪入れず反撃に転じた。
槍と剣が閃光のように交錯する。重さと速さの極致がぶつかり合い、周囲の空気が悲鳴を上げて軋んだ。景虎の槍は流水のごとく滑らかにしなり、連綿と繰り出される突きと薙ぎ払いで赤のセイバーを翻弄する。
一方、赤のセイバーは野獣めいた勘と剛力に任せた猛攻で応じた。獰猛な太刀筋は威力絶大だが、その軌道はあまりに直線的で荒々しい。景虎は渾身の打撃を受け止める度に腕に痺れる衝撃を感じながらも、冷静に相手の動きを見極めていた。荒ぶる獣のような剣捌き――だが故にこそ、奔放な攻撃の陰にわずかな隙が生じていることを景虎の研ぎ澄まされた眼は捉えていた。
浅く裂かれた肩口が焼けつくように痛む。しかし景虎は痛みを意識から切り離し、ただ眼前の敵に意識を集中させる。激しく打ち込まれる斬撃の合間に見え隠れする一瞬の緩み……景虎はそのわずかな機を逃さなかった。彼女は敢えて紙一重の間合いで攻撃を捌き、赤のセイバーにさらなる力任せの一撃を誘い出す。
怒号とともに赤のセイバーは大上段から剣を叩き込んでくる。渾身の斬撃――だが狙いどおり、大振りだった。故に景虎の銀槍が稲妻と化して突き出される。狙いは正確無比、心臓だった。
赤のセイバーは景虎の狙いを直感的に理解していた。故に小さく体を逸らすことで、致命傷を避けて敵の頭を叩き斬る。他にも己の勘が警笛を鳴らしているような気がしたが、
刹那、景虎の左手に刀が出現した。八卦の備え、その一つ。小豆長光。本命は先ほど刻み込んだ兜の罅――まさにその一点。
鈍い衝撃音が轟き、刀尖が兜に深々と食い込んだ。奔流のごとき勢いで突き込まれた一撃に、既に罅の入っていた鉄兜は悲鳴を上げる。次の瞬間、金属の冑は耐え切れずに粉砕した。轟音とともに四散する破片。解き放たれた金色の髪が淡い光の中、舞い上がった。
砕けた兜の下から、赤のセイバーの素顔が露わになる。凛々しくも幼さの残る顔立ち――だが今は怒りに燃える双眸がその印象の全てを塗り潰していた。
赤のセイバーの宝具。
「てめぇ……やりやがったな!」
荒い息を吐きながら赤のセイバーが毒づいた。露になった素顔には激昂の色が濃い。彼女は砕けた兜の残滓を乱暴に払い落とすと、今にも景虎へと飛びかかろうと剣を構え直す。その両眼には、兜を失ってなお怯むことのない狂戦士さながらの光が宿っていた。
だが――次の瞬間、戦場そのものが崩れ去った。
「そこまでだ」
悠斗の声音が鋭く場に響き渡る。同時に、景虎たちを囲う空間が大きく振動した。固有結界の軋み、空気を満たしていた戦気が見る間に霧散していく。視界の端で亀裂じみた光が奔り、世界の綻びが生じた。それはほとんど一瞬の出来事だった。景虎が瞬きをする間に、異空間は痕跡もなく掻き消え、一行は元の無機質な地下室へと引き戻されていた。
冷たい空気と静寂が押し寄せる。蛍光灯の蒼白い光が天井から降り注ぎ、コンクリートの床には先ほどまでの激戦が嘘のように傷ひとつない。漂うのは消毒薬とホルマリンの刺鼻な匂いのみ――現実の死体安置所特有の、冷厳な静けさだった。目も眩む灼熱の戦場から一転、凍てつく静寂の中で互いの荒い吐息だけがやけに大きく聞こえる。
景虎は銀槍を構えたまま微動だにせず、未だ警戒の色を解かない。対峙する赤のセイバーもまた、悔しげに奥歯を噛み締めながら景虎を睨み据えていた。砕け散った兜の破片が床に散乱し、彼女の肩越しに落ちた金髪が戦いの余熱に揺れている。両者とも今にも飛び掛からんばかりの殺気を漂わせていたが――それ以上踏み出す者はいなかった。
悠斗は浅く息をつきつつ、静かに右手を下ろした。彼の顔には苦痛と疲労の影が滲んでいたが、その眼差しは終始冷静だ。
「これ以上は無意味だ」
彼の揺るぎない意思が場を支配している。対する獅子劫も、手にしていたショットガンの銃口をわずかに下げ、周囲の様子に目を配った。現実世界に戻った今、下手に騒ぎを起こせば教会や一般人に感づかれる恐れがあることを誰もが理解していたのだ。
「おいおい。こっちは令呪を使った上に、宝具まで破壊されたんだぞ。ここで引くにはちと代償が大きすぎるな」
「ならこの狭い死体安置所で殺し合うか? 俺は元より時計塔の裏切り者だ。今更構うこともないが、さて」
「……お前さんが聖杯戦争に勝利した理由が分かった。こりゃあ痛い授業料になったな」
獅子劫が忌々しげに吐き捨てた。吐息に混じる悔しさを隠そうともせず、彼はモードレッドにちらと視線を送ると低く命じる。
「セイバー、下がれ。今回は奴さんの方が一枚上手だった」
その声にはマスターとしての有無を言わせぬ威圧が込められていた。
「……畜生!」
モードレッドは憤然と舌打ちし、それでも渋々と剣を引いた。未だ戦意は衰えていないものの、ここで戦闘を続行するのも王の行為ではない。それを強いられたことに苛立ちつつ、彼女の全身から迸っていた殺気が徐々に収束していく。
それを確認し、景虎もゆっくりと槍を下げた。戦闘態勢は解いたものの、その双眸は最後までモードレッドから離れない。いつでも動けるよう、膝にわずかに力を籠めながら静かに呼吸を整えていた。
「……賢明な判断に感謝するよ、獅子劫界離。神秘の隠匿は互いに守るべき掟だからな」
悠斗は静かにそう告げると、自らのサーヴァントに視線を送り、ひとつ頷いてみせた。景虎は無言でそれに応える。
「よく言うぜ。苛立ちを超えて、いっそ清々しいくらいだ」
獅子劫は鼻を鳴らしながら、彼は静かに踵を返す。
「行くぞ、セイバー。手に入れるべき情報は手に入れた」
その背中には一瞬たりとも隙がない。モードレッドも忌々しげに景虎を一瞥しつつ、その後に続いた。
かくして、熾烈を極めた死闘は不意に幕を下ろした。勝敗はついに決せず、互いの敵意だけが地下室の空気に焼き付けられる。蛍光灯の下、散らばる鉄兜の破片が冷たく光る。その無残な残骸は、ここで交わされた激戦の証としてひっそりと横たわっていた。