景虎は肩口を押さえ、荒い息を吐いていた。先ほどの赤のセイバー――モードレッドとの激戦で負った傷が、じくじくと痛む。傍らでは悠斗が治療の魔術を施していたが、傷は深くはないが浅くもない。
「申し訳ありません、マスター」
景虎が苦悶の表情を浮かべて呟く。
「構わない。もう少しで縫合できる」
悠斗の額には汗が滲んでいた。魔術による応急処置にも限度はある。決して負傷の程度は深くないが、かといって数時間で癒せないことを彼自身理解していた。やがて傷口から血が止まり、痛みが一段和らぐと、景虎は静かに肩を回した。
「礼を言います。少し楽になりました」
そう言う声には安堵が混じるが、一方で悔しさも滲んでいた。
「この程度の傷、アサシンを相手にするのであれば問題ありませんが……やはりあの赤のセイバーが相手では厳しいでしょう」
景虎は己の未熟さを噛み締めるように唇を結ぶ。悠斗は治療の手を止め、景虎の言葉に頷いた。
「あれほどの英霊を相手に、よく退けてくれた」
悠斗の声音は抑制が利いているが、その瞳には僅かな焦燥が浮かんでいた。モードレッドの力は想像以上で、事実上二人がかりでも圧倒されかねなかった。現に景虎は傷を負い、悠斗自身も魔力を大きく消耗している。
「次に真正面からぶつかれば、その時は宝具の応酬となるでしょうね」
と景虎は苦笑した。
「ただ問題は……」
「――黒のアサシンだな」
悠斗が低く続けた。彼ら二人は簡易な結界の内で体勢を整えつつ、今後の策を練っていたのだ。悠斗は上着の内ポケットから数枚の書類を取り出し、景虎に示す。
「獅子劫界離から得た情報と、死体安置所での調査結果だ」
書類にはシギショアラ市内で近頃発見された変死体の記録がまとめられていた。いずれも死因は心臓の摘出による大量失血。そして魔力反応の残留が検出されていると記されている。
「黒のアサシンのマスターは魔術師ではなく、失った心臓を喰らうことで魔力を補っている――そう考えてほぼ間違いないだろう」
悠斗の口調には嫌悪が混じった。サーヴァントを維持するため生贄の心臓を貪る。倫理も理性もかなぐり捨てた所業だ。景虎も顔を曇らせる。
「非魔術師ですか。確かに、これだけの人間が犠牲になっていれば魔術協会も動かざるを得ないはずです。放置されているのはつまり……」
「時計塔だって無能じゃない。魔術師たちの監視網にかかっていないということは、そもそも下手人が魔術師でも魔術使いでもないということだろう」
悠斗は書類を景虎に手渡した。景虎は受け取った紙束にざっと目を通す。心臓を抉り取られた凄惨な遺体の詳細が綴られている。黒のアサシンとそのマスターの所業は、まさに生への執着が生んだ狂気だ。しかし同時に、景虎は別の可能性を考えて口を開いた。
「黒のアサシン本来のマスターは、相良豹馬なる魔術師だったと記憶しています。しかしその相良とは連絡が取れないという。つまり、今の黒のアサシンはユグドミレニアの統制下にはない。ならば、逆に我らに引き入れることはできないのでしょうか?」
悠斗は軽く眉を上げた後、首を横に振った。
「ランサー、それは難しいだろう。奴らは己の生存しか眼中にない。このような手段に訴える連中が、まともに協力するとは思えない」
声には明確な否定の意思がこもっている。
「……どのような事情があろうが、倫理観が欠如している輩とは共闘は不可能だ」
悠斗の判断は即断に近かった。彼もまた、黒のアサシンのマスターを許しがたい存在と見做しているのだ。景虎は短く息を吐き、「そうですか」と呟いた。
「対処法は二つある」
悠斗は指を二本立てて見せる。
「一つ、今夜までにシギショアラ全域に探知用の結界を張り巡らせる。魂喰いが行われれば、即座に探知できるようにな」
景虎は目を見張った。街全体に結界を張るなど、並大抵の魔術ではない。
「まさかそなた一人でそれを?」
「多少強引な手は使うが、やるしかない」
悠斗は静かに答えた。結界の大規模演算には、虚数空間に封じた魔術師の脳を現代のコンピュータのGPUのように用いる荒技で対応する算段だ。それで細かな魔力の反応を追う。
「そしてもう一つは、討伐役を我々以外に任せることだ。黒のアサシンの始末は赤のセイバー――モードレッドに任せる。奴らを追い詰めたら、我々は後詰として動く。矢面には彼女を立たせ、状況次第で助勢する形だ」
「討伐を赤のセイバーに任せる、ということでしょうか?」
思わず景虎は聞き返した。
「お前も見ただろう、彼女の強さを。今ランサーが万全でない以上、あの力は利用すべきだ」
「そなたが決めたことであれば、私は従いましょう。しかし我々と交戦した直後です。赤のセイバーは動くでしょうか」
「動くさ。あの一幕でも赤のセイバーが筋金入りの負けず嫌いであることはよくわかった。なら今朝の結果に納得できない奴らは、アサシンを討伐することで勝ち星を拾おうとするさ」
「ふむふむ」
会話を切り上げだ悠斗は直ちに行動を開始し、街一帯への結界展開に取り掛かった。作業が完了する頃には空は群青に染まり、シギショアラの町は夜の帳に包まれ始めていた。悠斗は額の汗を拭い、
「……終わった」
とかすれた声で告げた。景虎がその横顔を窺うと、彼の表情には疲労が滲んでいたが、眼差しには確かな決意が宿っていた。
結界を張り終えた二人は、人気のない路地裏で身を潜めていた。沈黙を破り、景虎が口を開く。
「マスター……先ほどの黒のアサシンとそのマスターについてですが」
月光に照らされた景虎の瞳が、じっと悠斗を見据える。
「彼らの生存への執着と、そなたの掲げる“生きる”という信念――どこか、重なる部分があるのではないでしょうか?」
穏やかな口調だったが、その問いは鋭い本質を衝いていた。悠斗は一瞬目を見開いたが、すぐに表情を引き締める。
「確かに生きること自体は尊い。誰もが自由に生きる権利がある。だが……他人の権利を侵さない限りで、の話だ」
彼は静かに続けた。
「黒のアサシンとそのマスターは、その一線をとうに踏み越えている。己が生き延びるために無辜の人々を犠牲にするなど許されない」
「……では、我らが彼らを誅することは何の権利に基づくのですか?」
景虎の声音には静かな熱が宿っていた。自分たちも一方的に剣を振るうだけではないのか――そんな疑問が含まれている。
「組織も社会も正常に機能していない。機能できるはずがないんだ。だから今、この場にいる我々が対処するしかない」
悠斗はやはり即座に答えた。その表情は一見揺るぎなかったが、内心では苦い笑みを噛み殺している。詭弁だ、と己でもわかっていた。結局、他者の身勝手を許せないのも、自分の安穏を脅かされるから――自分が気持ちよく生きたいだけなのだ。その利己的な本音を、悠斗は胸の内に隠した。
景虎は悠斗の言葉に大きな矛盾を感じた。だって戦争という行為は生きるという目的から大きく逸脱している。生きたいのであれば、大人していればよろしい。それぐらいのことなら、ただの一生涯程度ならこの越後の龍、長尾景虎が守ってやると、彼女は本気でそう考えていた。
そこまで思考が及んでいるにも関わらず、彼女は指摘しなかった。何故なら、その矛盾こそが梶田悠斗を梶田悠斗たらしめているからだ。故に――
「……そうですね」
と、ただ小さく相槌を打つにとどめる。悠斗が自分を一個の人間として尊重してくれていることを、景虎は知っている。最近、彼女はそれを自覚した。
もし命令に「否」と告げれば、悠斗はきっとそれを受け入れるだろう――そう確信できる。だからこそ、たとえ矛盾を抱えていようと景虎はこの男に従おうと決めた。彼女の金色の瞳に迷いはない。