夜のシギショアラの街は、しんと静まり返っていた。月明かりは雲に覆われ、石畳の路地は闇に沈んでいる。その闇の中を、一人の少女が歩いていた。黒のフード付き外套に身を包んだ小柄な影――黒のアサシンである。彼女は獲物を求め、気配を殺して人気のない裏通りを彷徨っていた。
ジャック・ザ・リッパー――その名を持つ黒のアサシンは
それ自体、彼女にとって不満ではなかった。マスターは魔術の才など持たぬ只人だが、それ以上に大切な「おかあさん」なのだから。優しくて、いい匂いがする――黒のアサシンにとって、それで十分だった。
そんな彼女が今宵狙う標的もまた魔術師だ。人間の心臓、それも魔術師のものは格好の糧となる。故にジャックは夜毎に魔術師を屠り、その臓器を文字通りいただいてきた。そして今夜も同じ算段である。もし標的がサーヴァントを伴っていたとしても、向こうから出て来てくれるのならば、奇襲で葬ればよいだけのこと――そう考えていた。
しかし、その目論見は一瞬にして崩れ去った。
本来であれば、夜霧に紛れて殺人を働く算段だったジャックは、急遽予定を変える。霧を抜け、危機を脱した直後――安堵の息をついたその瞬間を狙い、マスターに刃を向けたのだ。
ジャックが狙っていた標的の魔術師が足を止めた刹那、闇を裂くように銀光が奔る。短刀を突き立てようとしていたジャックの目前に、突如として現れた一振りの剣がその刃を受け止めていた。
「見つけたぞ、殺人鬼め」
闇の中から低い声が響く。不敵に笑みを浮かべ立ちはだかるのは、重厚な甲冑に身を包んだ金髪の騎士――“赤”のセイバー、モードレッドである。彼女は初撃の不意打ちを本能で察知し、間一髪でジャックの奇襲を防いでみせたのだ。
長尾景虎との一戦を経て、モードレッドの胸中に油断の影は微塵もなかった。敗北に近い痛み分けなど、叛逆の騎士の名誉に対する冒涜にほかならない。ひとつの宝具を喪った赤のセイバーは、むしろその欠落を契機として、比類なきポテンシャルを解き放っていた。
「ちぇっ……邪魔しないでよ」
幼い少女の声で舌打ちし、ジャックは闇の中へと飛び退く。だがもはや遊びの消えた最優のサーヴァントを前に逃げる暇はなかった。モードレッドは大剣クラレントを振りかざし、一気に斬りかかる。振り下ろされた凄烈な一撃をジャックは紙一重で躱すも、その銀閃が左腕をかすめる。
「ぁぐっ…!」
激痛に少女の顔が歪んだ。地面に細い腕が転がり落ち、鮮血がほとばしる。なおも猛攻を仕掛けようとするモードレッドに、ジャックは奥の手を繰り出す。
「此よりは地獄。わたしたちは炎、雨、力――」
『霧』の中を彷徨う『女性』が、『夜』に斬殺される。犠牲者は霧からは逃れた。だが、犠牲者――モードレッドは女であり、そして今は夜である。条件はすでに二つ、満たされている。
宝具の発動を、赤のセイバーはすでに予感していた。しかも
或いは、条件が三つ完全に揃っていたならば、結末は別のものとなっていたかもしれない。完全たる解体聖母は、殺人現場そのものの再現である。
そこではまず「殺人」という結果が先行し、理屈は後から付与されるのだ。運命の逆転すらも齎しうるその宝具も、されど条件が満たされねば、ただの鋭利な刃にすぎない。そしてモードレッドは、凡百の凶器に屠られるほど脆弱な英雄ではなかった。
ナイフと大剣と交錯する。
結果、大剣がジャックの胸部を穿ち、肉を炸裂させた。対してモードレッドは腹部に浅い裂傷を負うに留まり、それ以上の致命には至らない。勝敗はこの一瞬で決した。
「……あ、ぐぅっ」
敗北を悟ったアサシンは、なおも冷静に撤退を選ぶ。大きく後退し、硫酸の夜霧にその身を紛らわせた。
「逃がすか!」
モードレッドは霧の中へと剣を振るう。しかし、その刃は虚空を切り裂くのみ。やがて霧が晴れたとき、そこに黒のアサシンの姿はすでになかった。
「……チッ」
モードレッドは舌打ちし、悔しげに闇を睨む。癪に障る逃亡を許したものの、確実に致命傷を負わせた確信が彼女にはあった。霊核にも届く一撃を治療することは、殆ど不可能に近い。となれば、モードレッドと獅子劫の目的は達成されたといえるだろう。
「悪い。逃した」
「いや十分だ。もうあのアサシンは再起不能だろうよ」
「……そうだな」
さっさと退散しようとする獅子劫の言葉に、彼女は頷きながらも忌々しげに吐き捨てた。妙な胸騒ぎがあったのだ。後ろ髪を引かれるような心地を抱きつつ、赤のセイバーは己がマスターの後に従った。
同じ頃、シギショアラ市内に張り巡らされた結界が微かな魔力の乱れを伝えた。都市のほぼ中心地にてその反応を捉えたのは、梶田悠斗である。
彼は手元の簡易な水晶モニターに走る波紋を睨み、
「黒のアサシンか」
と独りごちた。しかし信号は瞬く間に霧消する。アサシンのスキルによるものか。少なくともクラス特有のスキルではない。舌打ちしつつも次の信号を待つ。
十数分後、別の反応が結界に走った。今度は安アパートの一室だ。悠斗はすぐさま座標を特定しようと試みる。
「こんな場所が拠点とは、なるほどマスターはやはり魔術師ではないな」
つぶやいた矢先、再び反応は消え失せた。悠斗が知る由も無いが、黒のアサシンが持つスキル、情報抹消によるものだ。既に悠斗の記憶の中からはどこでどのような反応があったか忘却しつつある。彼はそのことを自覚していた。故に――
「景虎!」
悠斗が傍らのサーヴァントに声を飛ばす。長尾景虎はすでに窓辺に躍り出ていた。
「マスター、後はお任せを」
鋭い金色の瞳でそう告げると、彼女は闇夜へ一直線に駆け出していく。
「無茶はするな」
悠斗の声は、疾風のごとく駆けゆく景虎には届かなかった。景虎が保有する固有スキル『運は天に在り』は、景虎が戦場で行うあらゆる行動に有利な判定を受けることができる。そして既に景虎はシギショアラを戦場と見定めていた。
黒のアサシンの根城の所在は、すでに忘却の彼方にある。されど、そんなことはどうでも良い。毘沙門天の加護は、景虎を然るべき地へと導いていた。
市内の古びたアパートの一室。その扉を開け放って飛び込んできた小柄な影に、六導玲霞ははっと振り向いた。
「ジャック!」
彼女は血まみれの少女に駆け寄る。見ると、ジャックの左腕は肘から先が無く、胸部は見るも無惨な有様だ。
「……大丈夫、すぐに治療を――」
玲霞は動揺を隠し、優しく彼女を支えると、冷蔵庫から密封容器を取り出す。蓋を開けば赤黒い人間の心臓が現れた。「遠慮せずにお食べ」と玲霞が差し出すと、ジャックは、
「……うん、ありがとう、おかあさん……」
と微かに微笑み、それを右手で受け取った。
生々しい咀嚼音とともに心臓を平らげると、ジャックの傷口からの出血は程なく収まった。しかし左腕の欠損が治ることはない。
「よく頑張ったわ、本当に……」
「ごめんね、おかあさん……赤いセイバー、強くて……」
消え入りそうな声で呟く娘を、玲霞はぎゅっと抱きしめる。
「怖かったわね。でももう大丈夫。おかあさんがついているわ」
玲霞の囁きに、ジャックは安心したように小さく頷いた。
しかし、安堵に浸る刹那の油断を、越後の軍神は見逃さなかった。突如、玄関扉が轟音と共に吹き飛ぶ。木片が四散し、室内に夜の冷気がなだれ込んだ。粉塵舞う中に現れたのは、一槍を手にした鎧姿の女サーヴァントである。鋭く光る金色の双眸が、親子のように寄り添う二人を冷徹に射すくめていた。
「お母さん、下がって…!」
ジャックは弾かれたように玲霞の前へ躍り出る。残された右手に短刀を握り締め、震える身体で自らの母を庇った。だが軍神――景虎の猛攻は容赦がない。振り抜かれた長槍が風を裂き、ジャック目掛けて突き込まれた。短刀で受け止めようとするも、その衝撃に小柄な身体ごと吹き飛ばされる。
「きゃっ!」
鈴を転がすような悲鳴が上がり、ジャックは床を転がった。腹部に穿たれた穴から黒い霧が漏れ出し、床一面に血が広がる。
「ジャックぅ!」
玲霞が絶叫した。彼女は机から素早く拳銃を掴み取り、景虎に向けて引き金を引く。立て続けに炸裂する銃声。だが襲いくる弾丸の軌道を、景虎は紙一重で見切った。ひらりと身を翻し、迫る銃弾を回避する。そして一足飛びに間合いを詰めると、槍の石突きを振り抜いた。
「――ッ!」
玲霞の手元で銃が跳ね上がり、白壁に転がる。砕けた手首から痛みが脳髄に突き刺さり、玲霞は思わず悲鳴をあげた。
壁際に追い詰められた玲霞に、景虎は無言で槍先を向けた。その冷たい瞳に躊躇はない。ほんの一瞬、彼女は目の前の無力な人間に刃を向けることへの