ロンドンの時計塔は、灰色の霧に包まれた荘厳な建物だった。聖杯戦争の勝利を報告し終えた長尾景虎と梶田悠斗は、上司とでも言うべき存在――時計塔の魔術師ロード・バリュエレータ――から新たな任務を言い渡された。吸血鬼と化した魔術師の討伐。スコットランドの僻地に潜むその標的は、禁忌の魔術を追い求めた末に人の理を捨てた亡魂だ。悠斗は任務の詳細を記した封筒を握り、景虎と共に時計塔の地下駐車場へ向かう。
黒いSUVのエンジンが低く唸る。悠斗が運転席に座り、景虎は助手席で窓の外を眺める。ロンドンの街は霧と雨に濡れ、街灯がぼんやりと滲む。景虎の白い着物は車内の薄暗さに映え、首元の雪の結晶ペンダントが微かに揺れる。彼女の瞳は、まるで獲物を追う虎のように鋭く、しかしどこか無垢な好奇心を宿していた。
「マスター、吸血鬼とは何です?」
景虎の声は穏やかだが、その底には戦いの予感に震える微かな昂揚が滲む。彼女は戦いを愛する。戦場こそが、人の心を理解できない彼女に「生きている」実感を与える唯一の場所だ。
悠斗はハンドルを握りながら、短く答える。
「魔術師だった男が、力を求めて怪物になった。血を求め人間を襲う。だから殺す必要がある」
「殺生ですか。それが正しいことなのですね?」
彼女の問いは、仏の教えをなぞるいつもの調子だ。否、元はここまで露骨ではなかった。聖杯戦争時はもっと迂遠に正しさの是非を問いかけていた。戦国の世と当世の違いを入念に確認する姿は、どこか機械的だった。
だが、悠斗は知っている。彼女の「正しさ」は、知識として刻まれたものに過ぎない。彼女の心は、人の悲しみや怒りを映さない。理解しようにもできない。それが彼女を苦心させていることも悠斗は知っていた。
「正しいかどうかは知らないが、被害者が出る前に叩く必要はあるだろう」
悠斗の声は無感情だが、景虎はそれに満足したように頷く。彼女にとって、悠斗の言葉は理解しやすい「枠」の中に収まる。だが、彼女の指が無意識にペンダントを弄ぶ仕草に、悠斗は一瞬視線を向ける。あのデパートでの贈り物は、彼女の非人間的な心に、ほんのわずかな波紋を残しているようだった。
数時間後。車はロンドンを抜け、霧深い田園地帯へと進む。カーナビの青い光が車内を照らし、ワイパーが雨を払う単調な音が響く。景虎は窓に額を寄せ、霧に沈む風景を見つめる。
「この霧、戦場を思い出します。越後の雪原も、こうして視界を閉ざしたものです。敵がどこに潜むかわからない。それが面白かった」
彼女の唇が、ほんの一瞬、虎のような笑みを浮かべる。悪意はない。だが、その笑みは肉食獣のそれだ。悠斗は無言でハンドルを切り、彼女の言葉を聞き流す。
「マスター。その吸血鬼、強いのですか?」
景虎の声に、戦いへの渇望が滲む。彼女は聖人君子の仮面を被るが、その奥にはバトルジャンキーとしての本性が息づいている。悠斗は一瞥をくれる。
「強いらしい。だが、お前なら問題ない」
「ふふ、ならば楽しみです。強い相手と刃を交えるのは、生きた心地がします」
彼女の笑みは無垢だ。だが、だからこそ恐ろしい。かつての越後で、家臣たちが彼女を恐れた理由がそこにある。人の心を理解できない彼女は、戦いの中でしか「自分」を感じることができない。だからせめて件の吸血鬼が景虎を満足させるに値する強敵であることを祈るばかりだ。
車はスコットランドの荒野へと近づく。道は狭くなり、霧はさらに濃くなる。悠斗は封筒から地図を取り出し、確認する。
「もうすぐだ。準備しろ」
景虎は頷き、膝に置いた刀をそっと撫でる。彼女の瞳は、戦場を前にして輝きを増す。
「ところでマスター。仏は、殺生をどう思うのでしょう? 悪を滅するのは正しいことなのに」
彼女の問いは、まるで子どもが親に尋ねるように純粋だ。問うまでもない。殺生は許されざる行為だ。そんなことは仏に帰依する彼女が知らないはずがない。
悠斗は一瞬、彼女の横顔を見つめる。彼女の非人間的な精神性、感情の欠落、戦いへの純粋な愛は、彼にとって共感はできずとも理解を示せる代物だ。
「仏のことは知らん。だが、俺たちは生きるために戦う。それじゃあダメか?」
景虎は小さく笑う。その笑みは、戦場を前にした彼女のものだが、どこかデパートでペンダントを受け取った時の柔らかさを帯びていた。
「生きるため……。マスターの言うことは、いつも簡単ですね。嫌いではありません」
車は霧の奥に進む。景虎の胸のペンダントが、ヘッドライトの光を反射してきらめく。吸血鬼との戦いが待つ荒野で、彼女は再び「生きている」実感を味わうだろう。だが、その先に何があるのか――彼女の心に、人の感情が芽生える日が来るのか――悠斗はそれを、静かに見守るだけだった。