少し時間を巻き戻す。
景虎とケイローン対アキレウスの戦いは、景虎とケイローン側が優勢だった。悠斗は鳥を模した使い魔を通してその様子を観察しつつ、ミレニア城砦で見守っていた。
隣には、同じく戦況を見守る黒のバーサーカー、フランケンシュタインのマスターであるカウレス・フォルヴェッジ・ユグドミレニアがいた。悠斗は彼に問う。
「そちらの戦況はどうか」
カウレスはやや緊張した面持ちで答える。
「敵キャスターのマスターと交戦中だ」
その表情が強ばっていたのには理由がある。端的に言えば、カウレスは悠斗を恐れていたのだ。悠斗はマスターでありながら、サーヴァントに匹敵する力を有している。
カウレスの姉、フィオレは悠斗に親しげに接しているようだが、カウレスにとって悠斗は恐怖の対象だった。ギリシャ神話の大英雄アキレウスと一戦を交え、無傷のまま最大の戦果を持ち帰った戦功者。さらに、黒のセイバーが自害した報告を受けてヴラド三世が怒髪天を衝いて憤怒した際、他のユグドミレニアのマスターたちは身動きすらできずに畏怖した。しかし、ダーニックと悠斗はどこ吹く風とばかりに平然と構え、次の策を冷静に話し合っていた。
亜種聖杯戦争を制した一流の魔術師であり、ヴラド三世やダーニックといった傑物たちに評価される人物。カウレスには、悠斗が自分と同じ人間だとはどうしても思えなかった。常に最善手を無感情に選び続ける梶田悠斗が、心底から恐ろしかったのである。
悠斗はカウレスの報告を受けて尋ねる。
「マスターと交戦中? どういうことだ」
「キャスターらしきサーヴァントを背後に控えさせ、マスター本人がバーサーカーと戦っている。黒鍵を利用しているから、代行者かもしれない」
カウレスは使い魔越しに見える情報をすべて共有した。すると悠斗は独りごちるように呟いた。
「代行者がマスターか……聖堂教会は時計塔についたか。まあ当然と言えば当然だが、ダーニックの夢も険しいな」
さらに分析を付け加える。
「いくら代行者とはいえ、マスター自らサーヴァントと戦うとなると、赤のキャスターによる魔術で戦闘能力を底上げしているか、もしくは単に正気を失っているかのどちらかだな」
カウレスは心中で思った。――アキレウスと真正面から戦ったお前が、そんなことを言うのか。もちろん口には出さなかったが。
悠斗は続けて問いかける。
「バーサーカーは、その代行者に勝てそうか?」
「単純なスペックならバーサーカーの方が上だ。しかし、どうにもおかしい。バーサーカーの攻撃がすべて紙一重で躱されている」
「キャスターを狙うことは可能か?」
「いや、多分無理だ。敵マスターの技量もあるが、完全にバーサーカーの頭に血が昇っている」
「そうか」
どうやら黒のバーサーカーの奮闘に期待する他ないらしい。悠斗はそう結論づけて、縫合したばかりでツギハギだらけの左手を見やる。そこには左手の刻印――令呪があった。
元々この令呪はゴルド・ムジークが保有していたものだ。それを赤のバーサーカー、スパルタクスを黒の陣営に加えるために、セイバーを失ったゴルドはダーニックに強制され、黒のキャスター・アヴィケブロンに譲った。そして、スパルタクスを効率よく運用するため、令呪は悠斗の手に渡った。その結果、悠斗はスパルタクスと良好な関係を築き上げることに成功する。
そして今、彼は忌むべき圧政者筆頭であるヴラド三世の援護に向かっていた。いかに知名度補正を一身に受けるヴラド三世といえど、二騎のサーヴァント――赤のアーチャーとランサー――を相手にするのは困難である。特に赤のランサーは、まず間違いなくアキレウスに比肩する大英雄だ。
そこで悠斗はスパルタクスに片方のサーヴァント、すなわち赤のアーチャーの相手を任せていた。バーサーカーの魔力消費はあまりにも重いが、ホムンクルスたちを通じて魔力供給経路をバイパスすることで、スパルタクスが魔力を喰らい尽くすのを防いでいる。これはユグドミレニア陣営が赤陣営に対して明確に優位な要素だった。魔力消費が抑えられるため、仮にマスター同士の戦闘になれば、確実にユグドミレニア陣営が有利になるのだ。
戦況が一変したのは、アキレウスが盾を構えた瞬間だった。悠斗は以前の戦闘でアキレウスの記憶を読み取っており、彼が何をしようとしているのかすぐに理解する。そしてそれが、現場にいる景虎とケイローンには対処不可能であることも見抜いていた。
悠斗は左手の令呪を前に突き出し、起動する。スパルタクスに令呪を使っても意味はない。なぜならスパルタクスは「常に最も困難な選択をする」という思考で固定されている。令呪による命令も2画消費して効果が発揮できるかといったところ。
故に悠斗は、この令呪を単なる魔力の塊として用いる。サーヴァントに対する絶対命令権を膨大な魔力源として利用することで、通常では不可能な神秘を行使する。この場合、瞬間移動だ。
悠斗は今にも宝具を起動しようとするアキレウスの目前に現れる。数キロに及ぶ瞬間移動――それは確かに成された。
自殺行為だった。戦場でアキレウスの前に立つ――それは「殺してくれ」と言っているに等しい。悠斗の身体は震えていた。息が微かに乱れ、指先は冷たく湿っている。どれだけ平静を装しても、所詮彼は気取り屋のマスターでしかない。しかし、アキレウスと対峙せざるを得ない理由があった。
もしあのままミレニア城砦で指を咥えて見ていたら、景虎は死ぬかもしれない。その可能性がある。それだけで胸が張り裂けそうになる。
長尾景虎、越後の軍神。人の心を知り得ぬ、美しき白い獣。悠斗は彼女に恋していた。だから、彼女の前では身の丈に合わぬ人となりを演じた。常に人の世の正しさを求める景虎に、せめて悠斗なりの正しさを告げたりもした。柄にもなくアクセサリーを贈ったこともある。どこまでも気取って見せる――今回も同じだ。死なせたくない者のために命をかける。ヒトデナシの魔術師にしては、上等な命の使い方である。だが、全くの無策でアキレウスの前に立ったわけではない。
悠斗はアキレウスの記憶を読み取り、一つの魔術を編み出していた。いや、魔術というには憚られるほどの力技だ。固有結界をそのままぶつける――つまるところ、世界に世界を叩きつけるのだ。これはアキレウスの宝具『蒼天囲みし小世界』から着想を得た。今まさに起動しようとする宝具も同じ『蒼天囲みし小世界』。条件は同じだ。しかし、攻撃と防御に特化した宝具と、魔術に過ぎぬ悠斗の力では破壊力に差がある。それでも、宝具の軌道を逸らすくらいなら可能だろう。
「――マスター!!」
背後から景虎の悲壮な声が響く。振り返ると、銀髪の女がそこに立っていた。景虎だ。光を反射する銀髪、揺れる長衣、鋭く澄んだ瞳――命を賭けるに足る女。悠斗は胸が熱くなるのを感じた。
直後、アキレウスが盾を掲げ、世界が動き出す。盾に刻まれた無数の模様が光を放ち、空間が歪み、風が巻き起こる。膨れ上がる極小の世界が盾の前面に展開され、時間まで捻じ曲げられる。耳をつんざく空気の軋み、振動が地面を揺らす。
悠斗は右手から固有結界を展開する。掌から立ち昇る魔力が風となり、体感温度を急激に下げる。殴りつけるように自らの世界を叩きつけると、衝撃波が草原を吹き飛ばし、砂塵が渦巻いた。世界同士の激突音が、耳を突き抜ける。悠斗の一撃は、わずかにアキレウスの宝具を逸らした。
代償は大きい。戦場にいた数百のゴーレムとホムンクルスが爆風で吹き飛ばされ、悠斗の右手からは夥しい量の血液が噴出する。見れば、右手は破裂していた。熱と鉄の匂い、手首を伝う痛み、視界に飛び散る赤――全てが現実だ。だが、悠斗は微動だにせず立ち続ける。そして静かに、景虎に語りかける。
「あとは、頼んだ」
「――承知」
悠斗の背後にいた景虎は、無傷のままだった。彼女には主人に言いたいことがあった。それは諫言に近い言葉だったが、今は飲み込むことを選んだ。
「姫鶴飛んで、山鳥遊ぶ。谷切り結び、五虎退かば、祭剣まつりて、七星流る」
まるで戦場そのものが聖域へと変貌したかのように、神々しい光が差し込む。光の中心に立つ景虎の神性は急速に昂り、上杉が誇る刀剣が虚空より次々と顕現する。
自らの宝具が防がれた事実に感服していたアキレウスであったが、目前で宝具を解き放たんとする景虎の姿に、はじめて危機の予感を抱く。――これは、俺を屠り得る。直感がそう告げていた。
アキレウスは即座に景虎へと直進する。神速を失ってなお、その突進は音を裂くほどの速度に達する。だが、その進路を阻むようにケイローンの精緻な射撃が雨のごとく降り注ぐ。
「松明照らすは、毘天の宝槍……これこそは我を守護せし異形の毘天、数多の宝剣宝槍を手に仏敵を滅す我が宝具――『刀八毘沙門天』なるぞ!」
やがて景虎は刀剣を掲げ、己が宝具を高らかに宣言する。戦場に満ちるのは、毘沙門天そのものの威光であった。
長尾景虎の宝具――それは確かに、アキレウスを屠り尽くす力を秘めていた。思えばアキレウスは、太陽神アポロンの加護を受けたパリスの矢によって死に瀕した逸話を持つ。すなわち、彼が神性に抗う術を持たぬことの証左である。
ならば、毘沙門天の化身としての側面を極限まで顕現させる『刀八毘沙門天』は、必然的にアキレウスへ特攻を成す。――その一撃は、英雄譚すら塗り替え得る神威であった。
「はは、いいぜ! 来いよ! 困難を乗り越えてこそ英雄だ! 我が好敵手よ! 我が名はアキレウス、貴様の試練に挑む者なり!」
「その意気や良し! なれば我が全力もってそなたを滅さん! 駆けよ、放生月毛!!」
本来ならライダーのクラスでなければ召喚できぬ愛馬を、長尾景虎は呼び寄せ、跨った。神に等しき御技をもって、無法を道理へと変えてみせる。
景虎は騎馬の突撃を敢行する。常人であれば一瞬で粉砕される脅威。しかしアキレウスは英雄中の英雄。たかが突撃ごときに臆することなどありはしない。
「刀八毘沙門天よ、我が身に宿り神威を奮え!――『毘天八相車懸りの陣』!」
――目の錯覚か。景虎が八人に分かれた。
その瞬間、アキレウスは悟る。己の死期が目前に迫っていることを。
『毘天八相車懸りの陣』。長尾景虎が得意とした車懸りの陣を、対人戦へと昇華させた宝具。八度にわたる必殺の斬撃を、畳み掛けるように繰り出す波状攻撃である。しかもそれを放つのは、『刀八毘沙門天』により二段階も力を引き上げられた景虎だ。
アキレウスは全霊を賭して応じる。――これらすべての必殺を凌ぎ切った暁にこそ、彼は景虎の首級を掲げるであろう。
一合。景虎の刀を槍で薙ぎ払い、首を刎ねて一人目を屠る。
二合。子盾で受け流し、防ぎ切る。
三合。身を捻り、紙一重で回避。
四合。盾を弾かれ地に落とすが、同時に二人目の景虎の心臓を貫く。
五合。三人目を槍で突き殺すも、その刹那に槍を奪われる。
六合。四人目を徒手で絞め殺す。
七合。五人目を蹴り砕くが、肩を抜かれ姿勢を崩す。
八合。――景虎の刀が閃き、アキレウスの首を刎ねた。
かくして、決着は成った。