赤のライダー、アキレウスの敗北――そして突如として出現した空中要塞の陥落。それはユグドミレニア陣営にとって、この上ない朗報であった。聖杯戦争の天秤が、ようやく均衡を取り戻したかに見えたのだ。
しかし、それで全てが解決したわけではない。ユグドミレニアの内部は、決して一枚岩ではなかった。
まず、黒のバーサーカー――フランケンシュタインが戦線を離脱した。
赤のセイバー、モードレッドとの交戦の末に敗北を喫したという報告である。さらに、黒のライダー・アストルフォのマスターであるセレニケ・アイスコル・ユグドミレニアが、赤のセイバーによって殺害された。
それだけで済むなら、まだ陣営の損失として受け止められただろう。
問題は――その後である。
アストルフォが退去する直前、彼の新たなマスターとなったのは、ジークフリートの心臓を移植された、あのホムンクルス――ジークだった。
そしてジークは、何を思ったのかアストルフォを伴い、ユグドミレニアの当主ダーニックに直訴した。「ユグドミレニアが保有するすべてのホムンクルスを解放してほしい」と。
もう、滅茶苦茶もいいところだ。当然、そんな要求が通るはずもなく、今はアストルフォと共に、要塞地下の牢獄に幽閉されている。ホムンクルスごときがサーヴァントを従え、反旗を翻すなど、笑い話にもならない。
つまるところ、ユグドミレニア陣営が十全に運用できる戦力は、黒のランサー・ヴラド三世、黒のアーチャー・ケイローン、黒のキャスター・アヴィケブロン、そして外様のサーヴァントである長尾景虎――この四騎のみとなった。さらに、ユグドミレニアが誇る戦闘用ホムンクルスと、アヴィケブロンのゴーレムも、先の激戦で半数以上が損耗し、もはや戦力としては心許ない状態である。
一方、赤の陣営は少なくともセイバー、 アーチャー、ランサー、キャスター、アサシンが健在である。カウレスの情報によれば、赤の陣営にはフランケンシュタインと戦える代行者のマスターも存在するという。はっきり言って、状況は芳しくない。
だがそれ以上に最悪なのは、ルーラー、ジャンヌ・ダルクの消滅だった。
大聖杯を管理するダーニックがそう言うのなら、それは事実なのだろう。以前、ゴルドの報告によれば、ルーラーは赤のランサーから襲撃を受けていたらしい。赤の陣営――すなわち時計塔の連中が何を考えているのか、悠斗には理解しがたかった。中立の立場であるルーラーと事を構えるなど、どうにも腑に落ちない。それはもはや、聖杯戦争という枠組みそのものを破壊する行為ではないか。
戦況を冷静に見積もっても、勝敗は五分と五分。ここまで、かなり上手く立ち回ってきたという自覚が、梶田悠斗にはあった。二重スパイを自認する彼が、これまでユグドミレニア側に肩入れしてきたのは、明らかに時計塔陣営の戦力が過剰だったからである。
天秤が極端に傾くことは望ましくない。それはすなわち、スパイとしての自身の価値が損なわれることを意味する。だからこそ、悠斗は可能な限り、終局まで均衡を保とうとしていた。
そう考えながら、彼は荒れ果てた平原に新たな結界を張り直していた。
神話さながらの戦いが繰り広げられた草原には、ありとあらゆる残骸が散乱している。ホムンクルスの断片、崩れたゴーレムの石塊、竜牙兵の欠片。それらは物言わぬ骸でありながら、いずれも神秘の一端を担うものだ。その秘匿のため、悠斗は人払いの結界を張り直す必要があった。
――もっとも、それは方便に過ぎない。傍らには長尾景虎を控えさせ、悠斗はただ一人の訪問者を待っていた。
結界を展開させるのに、そう時間は必要ない。今のユグドミレニアには人的資源も乏しく、ここには監視の目がない。結界術のエキスパートである悠斗の手にかかれば、数分で終わる作業だ。監視する必要性など、皆無に等しい。その隙を、悠斗は見逃さない。たった数分もあれば、スパイとして時計塔に情報を伝達することが可能である。あとは、その伝達係の者が来れば、仕事が果たされるのだが……。
「遅いな」
所定の時間になっても、その者は現れない。敵意を知らせないため、防護結界を解いているのだから、早めにきてほしい。定刻を過ぎれば、帰らざるを得ない。悠斗は内心で思う。だが、それでもなお、伝達係の姿は現れなかった。
怪訝に思ったのも束の間だった。
「マスター!!」
景虎の叫び声が、戦場跡地に響き渡る。それでなお、悠斗の反応は遅れた。それもそのはずだ。ただの魔術師が、アサシンのサーヴァントの気配遮断を探知できるはずもない。即ち――。
「あ、が」
悠斗の口から、空気が漏れる。背後から、何者かに肩口を切り裂かれた。痛みよりも、驚愕が先に来た。
攻撃を受けてからの判断は早かった。悠斗は即座に、鉄山靠を放つ。結界魔術以外で彼が唯一、十全に習得したと断言できる八極拳。思わぬ反撃に、下手人は体勢を崩す。それも、長尾景虎の目の前で。
そんな隙を、景虎が見逃すはずがない。怒りで頭が沸騰しそうになるのを鎮め、努めて冷静に、その下手人――赤のアサシンに刃を振るう。逆袈裟に切り裂かれたアサシンは、たたらを踏む。
「……相打ちか。ならば、結果としては上々だろう」
夥しい量の血液を噴出させながら、赤のアサシンが呟く。彼女は妙齢の女性だった。王者の風格さえ漂わせる、美しい容姿。しかし、暗殺者としての側面を、彼女は確かに持ち合わせていた。
「これは、毒か」
冷静に自分の体の状態を確認する悠斗が、呟く。その言葉に、瀕死の赤のアサシンが、ニタリと蛇のように笑う。
「……ああ、そうだとも。貴様の体は、バシュムの毒に侵された。しかし、妙だな。貴様、何故まだ息をしている」
息も絶え絶えに、赤のアサシンが悠斗に問いかける。メソポタミア神話において、神々の母ティアマトが産み落とした魔獣バシュム。もし彼女の言う通り、その大妖の毒が悠斗の体内に侵入したのならば、悠斗は即死して然るべきだ。
「お前の言う通り、本来は即死するべき、なのだろう。だから今の俺は、半ば死体同然だ」
不思議な光景だった。自ら死んだと口にする男は、いかなる摂理によってか未だ両足を地につけ、赤のアサシンと対峙している。
「だが、その道理をお前に教える、必要もない」
そう告げて、悠斗は景虎に視線を送る。頷いた景虎はそのまま、赤のアサシンの首を落とす。死にゆく赤のアサシン、セミラミスは、せせら笑う。確かに暗殺には失敗した。いや、失敗したように見えるだけだ。実際のところ、悠斗は単にまだ死んでいないだけだ。神代の猛毒を喰らった悠斗には、生き残る術がない。
卓越した魔術師でもあるセミラミスは見抜いていた。悠斗が何故、即死を免れたのか。あれは単に体の機能の大部分を停止しているだけだ。言わば時間停止に近い。極限まで体内の動きを鈍化させている。
己の体内。即ち術者にとってこれ以上ないほど知り尽くした領域を仕切り、操る。結界魔術の基礎中の基礎である。その上で、結界魔術を駆使して毒に侵された肉体を隔離している。素晴らしい手腕である。だが、それも時間稼ぎに過ぎない。やがて毒は巡り、悠斗の命を奪うだろう。
セミラミスの目に狂いはなかった。ユグドミレニアにおいて最も危険な存在――それは、この男、梶田悠斗である。
確かに、長尾景虎は強力なサーヴァントだ。極東の島国において、間違いなく最上位に数えられる存在だろう。だが、それでもギリシャ最速の英雄アキレウスには及ばないはずだった。
しかし現実には、アキレウスは長尾景虎に敗北した。その理由は明白である。梶田悠斗の戦略――彼の知略と魔術こそが、勝敗を決したのだ。
赤のアサシンが誇る最大の宝具『
故に、この男が最も脅威になる。ルーラーを屠った今、少なくともセミラミスと彼女のマスターはそう判断した。また、悠斗が時計塔と通ずるスパイであることをセミラミスは把握していた。そして今この瞬間、情報伝達のため、彼の警戒がほんの僅かに解けることも予期していた。
諜報戦において、彼女は悠斗を一歩上回っていたのだ。
セミラミスがこの機会を逃す道理がない。梶田悠斗は必ず、彼女のマスターの障害になる。ならば、殺すしかない。『虚栄の空中庭園』が赤のバーサーカーによって破壊された今、セミラミスが梶田悠斗を殺す手法は限られてくる。故にセミラミスは、真正面からの確実な毒殺という後を顧みない戦法を取ったのだ。
だから、これで良い。死ぬ間際、セミラミスはとある顔を思い浮かべた。彼女のマスター、天草四郎時貞。浅黒い童顔の青年。彼に対する想いを秘めたまま、セミラミスは魔力の塵となって、夜の闇に溶け消えた。
「……くそ、これは、不味いな」
「マスター。どうか楽な体勢になって下さい」
「ああ、たのむ」
景虎に体重を預けた悠斗は、自らのサーヴァントの表情を見る。酷い顔だ。今にも死にそうな思いをしているのは悠斗の方だと言うのに、景虎は彼以上に悲痛な顔をしている。
「そなたは死ぬのですか」
「……ああ。このままだと、そう、なる。期限は三日くらい、か」
「タメです。許しませんよ」
「そう、だな。俺も、死にたく、ない。だから、お前が、聖杯、を」
「聖杯で治療するのですね」
景虎の言葉に、悠斗は力無く頷く。
「3分、だけ、なら、俺も、戦え、る。必要なら、呼べ」
「はい。あとはお任せを」
必要なことは伝えた。だから後のことは全て景虎に任せる。その結果が自らの死だったとしても、悠斗は受け入れることができた。何故なら――
「……次があれば、お前の故郷を、あんな、い……し、て」
「――ええ、必ず」
悠斗はその活動を停止させる。完全な人体凍結。それでもバシュムの猛毒は彼の肉体を蝕むことだろう。そのタイムリミットは多く見積もって三日。決着の日は近い。