越後の軍神と気取り屋マスター   作:元ジャミトフの狗

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第三十六話

 梶田悠斗は、ゆっくりと目を開けた。視界がぼやけ、頭に鈍い痛みが残っていたが、それでも意識ははっきりしていた。まぶたを上げるだけで精一杯だった体が、今は驚くほど軽く感じる。アッシリアの女王——セミラミスの毒に侵されていたはずだ。あの神代の猛毒は人体を内側から蝕み、死に至らしめるもの。

 

 故に目覚めたという事実自体が、すべてを物語っていた。

 

「……ユグドミレニアが勝利した、か」

 

 声に出して呟くと、喉が乾いて掠れていた。聖杯大戦の記憶が断片的に蘇る。黒の陣営と赤の陣営の激突。ルーマニアの大地を舞台に繰り広げられた、サーヴァントたちの死闘。

 セミラミスの毒を受けてからも随分と無茶をしたが、あれからどれだけ時間が経ったのか。数日か、それとも数週間か。

 

 彼はベッドに横たわったまま、魔術回路を活性化させた。体内の魔力を巡らせ、自己診断を行う。心臓の鼓動、血液の流れ、臓器の機能——すべて正常。毒の痕跡は微塵もなく、完全に除去されていた。

 

 神代の猛毒を除去するだけの奇跡。それは聖杯しかない。

 

「ふう……」

 

 安堵の息を吐き、悠斗は上体を起こした。部屋はユグドミレニアの本拠地、ミレニア城塞の医務室らしい。白い壁と簡素な調度。窓からは、ルーマニアの荒涼とした風景が広がっている。戦いの爪痕がまだ残る大地だ。

 その時、視界の端に白い影が映った。ベッドの横、椅子に座った女性——長尾景虎。彼女の銀色の長い髪は今やその殆どが黒く染まっており、部屋の淡い光を反射して輝いていた。

 

 景虎は目を閉じ、静かに座り、悠斗の手を握っていた。彼女の細い指が、悠斗の手に絡みついている。冷たく、だが確かな温もりがあった。彼女はずっとここで、彼を見守っていたらしい。

 

「ランサー」

 

悠斗が声をかけると、景虎の目がゆっくりと開いた。凍てついた湖のような瞳が、悠斗を捉える。彼女の表情はいつも通り、穏やかだがどこか機械的。感情の揺らぎが少ない、それが彼女の特徴だった。だがその瞳の奥底にどこか、穏やかな色が芽吹いていた。

 

「お目覚めですか」

 

彼女の声は静かで、まるで風が葉を揺らすような柔らかさ。手を離そうとせず、そのまま悠斗を見つめ続ける。

 

「どれだけ寝ていた?」

「二日です。解毒を終えてもそなたは全く目が覚めなかった。寝坊助さんです。フィオレとカウレスは今も戦後処理に奔走しているというのに」

 

 景虎の言葉に、悠斗は苦笑いする。

 

「ありがとう。また命拾いした」

 

 悠斗の言葉はそっけなく、いつものように感情を排したものだった。だが、景虎はそれを不満に思わない。むしろ、彼女の瞳にわずかな光が宿ったように見えた。景虎は手を離さず、逆に少し強く握り返す。

 

「マスター。私はサーヴァントとして当然の務めを果たしたまでです。ですが、ええ。私、今回とっても頑張りました」

「ああ、そうだな?」

「……なら、その。そなたは頑張った臣下を褒めるべき、ではありませんか?」

 

 伏し目がちに告げる景虎の発言に面食らう。だってそんな言葉、今まで聞いたこともなかった。え、何この生き物かわいい。

 

「……お前、随分と人がましくなったな」

「そうでしょうか?」

「少なくとも今まで褒めろと要求することはなかった」

「確かに。で、褒めてくれないのですか?」

 

 悠斗は一瞬、言葉に詰まった。景虎の瞳が期待を込めて自分を見つめている。いつもは機械的な彼女が、こんなに素直に——いや、まるで子犬のようにねだってくるなんて、予想外だった。胸の奥がざわつき、頰が熱くなるのを感じる。

 

 恥ずかしい。だが、拒否するのもなんだか悪い気がする。戸惑いを押し隠し、悠斗はゆっくりと手を伸ばした。景虎の頭に触れ、銀と黒の混じった髪を優しく撫でる。指先に柔らかな感触が伝わり、彼女の体温が僅かに感じられる。頰がさらに熱くなり、視線を逸らしたくなるが、なんとか耐える。

 

「……よくやったな、景虎」

 

 声が少し上擦ってしまった。景虎は目を細め、満足げに微笑む。彼女の頰も、ほんのり赤らんでいるように見えた。

 

「今この瞬間、私は喜んでいる。そういう感情が分かるようになりました。まったく皮肉なものです。毘沙門天の化身となった今の方が、かつての生よりよっぽど人らしいのです」

 

 彼女の言葉に、悠斗は一瞬言葉を失った。

 

 彼女は正義を求め、悪を拒む。だがそれは心からくるものというより、教えられた枠組みの中で動いていた。戦場で彼女の槍が振るわれる時、悠斗は時折それを感じていた。だが、今の彼女の声には本物の温かみが混じっているように思えた。

 

 部屋の扉がノックされ、フィオレが入ってきた。ユグドミレニアの若い魔術師は、車椅子ではなく自らの足で立っていた。

 

「悠斗さん、お目覚めになられたようですね。お加減は?」

「問題ない。一応確認するが、ユグドミレニアの勝利ということで間違いないか」

「ええ、おかげさまで。貴方も聖杯の力で毒は問題なく浄化されたようですね。さて、早速ですが、これからユグドミレニアの生き残りを集めて会議を開きます。赤の残党の処理と、聖杯の運用についてです。来てくれますか?」

 

 悠斗は頷き、ベッドから立ち上がった。体に力が入る。景虎も立ち上がり、彼の傍らに寄り添うように並ぶ。彼女の手は、まだ悠斗の手を離さない。

 

「行きましょうマスター。戦いは終わりましたが、これからが本番なのでしょう?」

 

 二人は医務室を出る。ミレニア城塞の廊下は、勝利の余韻に満ちていた。だが、悠斗の心には新たな予感が芽生えていた。聖杯の力は、願いを叶える。悠斗の解毒によって消費された魔力はおそらくそう多くない。

 

 見たところフィオレは当初の願望の通り足を治癒した。となれば、ケイローンも不死性を取り戻したとみていい。そして聖杯に焚べられたサーヴァントの数は計一四騎。おそらく聖杯の魔力は未だ残っている。

 

 ユグドミレニアがこれからどう動くのか。悠斗と景虎の今後の身の振り方。今更時計塔に戻ることもできない。となればやるべきことは限られてくるわけだが。ともあれ――

 

――越後の軍神と気取り屋マスターの物語は、新たな章へ進む。

 

 




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