かつて黒と赤、二つの陣営が激しく矛を交えた広大な平野。今、その場所で、二つの影が剣戟を繰り広げていた。
一方はギリシャ神話に謳われる大賢者、ケイローン。
もう一方は越後の軍神、長尾景虎。
目にも留まらぬ速さで振るわれる得物。刃と刃がぶつかり合うたび、鋭い金属音が乾いた空気を切り裂く。だがよく見れば――両者の刀剣の刃は、潰されている。その様子からして、この超常的な戦闘が本気の殺し合いではなく、単なる教練であることは明白だった。
一見、両者の実力は拮抗しているように思える。実際、純粋な戦闘能力という点では、ケイローンと景虎の間に決定的な差はない。
しかし、ただ一つの側面――「技巧」にのみ焦点を絞れば、ケイローンが景虎を上回っている。
そう。何を隠そう長尾景虎の剣術も槍術も、根っからの独学だったのだ。もちろん幼少の頃、父・為景から最低限の手ほどきを受けたことはある。だがそれはあくまで基礎の基礎。彼女の戦闘様式の土台になりうるようなものではなかった。
ゆえに長尾景虎は、天性の才覚と戦場で磨かれたセンスだけでここまで登りつめた。英霊の座に名を連ね、常勝の武将として名を馳せ、今なおその名を轟かせている。すべてを、自らの力だけで。
今までは、それで十分だった。何せ十六世紀の戦国日本において、長尾景虎より強い生き物など存在しなかったのだから。
それに足りない部分は、主たるマスター・悠斗が補ってくれた。だからこそ、彼女は圧倒的な格上である俵藤太やアキレウス、カルナといった大英雄たちにさえ勝利を収められたのだ。
だが、上がいるというのに座して停滞することを彼女は良しとはしなかった。
幸いなことに、今ここには名だたる英雄たちを数多く育て上げた、ギリシャ神話屈指の名教師がいる。更なる高みを目指す景虎が、彼に教えを乞うのは、極めて自然な成り行きだった。
……あと、最近悠斗がデスクワークに没頭して、なかなか構ってくれなくなったせいで、単純に暇だった、というのもあるのだが。
「今日はここまでにしましょう」
ケイローンが告げる。景虎もうなずき、刀を鞘に納める。
元々、景虎の戦闘能力は古今東西の英雄たちと比べても、極めて高い水準にあった。独学で極めた武術といえど、それは無数の戦場で研ぎ澄まされた一種の境地である。ならば、そこに安易にメスを入れるのは賢い選択ではない。
ケイローンにできることは、長尾景虎という戦士の長所をさらに伸ばし、欠点を補う手法を共に模索することだけ。 だからこそ、模擬戦を繰り返す。武具を変え、戦場の条件を変え、時に魔術すら用いる。未知を既知に変え、対応できる範囲を広げていく。
加えて、この模擬戦には、景虎が最近習得したスキルの試運転も兼ねていた。
英雄ならば当然のように扱う魔力を用いた身体強化。それを景虎は、知らなかった。より正確に言えば、「魔力という概念自体は知らなかったが、無意識のうちに部分的に魔力で身体を強化していた」といったところか。ともかく、体系的にその技術を身につけていなかったのは事実である。
そこでケイローンは、戦闘に向いた魔力の操作法の手ほどきを施した。彼にとっての誤算は、景虎が魔術の方面でも優れた才覚を有していたということ。ともすれば天才と呼んでも差し支えないほどに。
気づけば彼女は、身体強化どころか魔力放出すら体得してしまった。ケイローンが持つスキル『神授の智慧』による恩恵が全くなかったとは言わないが、それ以上に景虎の才能がずば抜けていたのだ。
「いかがでしょう。魔力の扱いは慣れてきましたか?」
「はい、おかげさまで。しかしどばーっと出す方法は、雑に強力で足りない膂力を補ってくれますが、燃費の悪さがやや気がかりですねぇ」
「だからこそ使いどころを誤ってはいけません。もっともその点に関しては、あまり心配するようなことでもないと思いますが」
「……と、いいますと?」
「景虎殿。貴女の戦いとそれに類する嗅覚は、私が見てきた生徒の中でも随一です。感覚で戦場の機微を把握し、適切なタイミングで適切な戦術を繰り出す。それが貴女の最も優れた才能です。なので魔力放出も適切に扱うことができると言いました」
「ほほう。それはありがたい言葉です」
典型的な感覚派の戦士。ケイローンは、長尾景虎をそのように分析する。しかし、かといって理合を疎かにするわけではない。むしろ、積極的に知識を修める姿勢は、理性的であるとすら言える。面白いのは、理解した理屈を「感覚」としてアウトプットしてしまうということだ。
そういうタイプの戦士は、確かにいる。だが景虎の場合、その変換があまりにも円滑すぎる。理屈と、それを実際に出力することの間には、通常、齟齬が生じるものだ。ゆえに、それをどのように調整し、現実に落とし込むのか――それこそが、教育において最も重要な点なのだ。
だからそういう意味で言えば、景虎はまったくもって教え甲斐のない生徒だった。景虎は教えたことをまるでインクに浸した紙のように吸収する。それは良い。だがインクに浸した傍で即座に絵が完成しているのだ。
それはとても寂しいことだ。達成感に乏しい。入力と出力に差がないということは、それはもはや一種のマシンだ。用意された結果だけがあるのであれば、それこそが長尾景虎の本質であるのだとすれば――
「けいろん殿?」
「――ああ、すみません。思考が少しそれていました」
「はて?」
「いえ、気にしないでください。ところで貴女がよければ少しお話をしませんか?」
「かまいませんが」
景虎の言葉にうなずくと、ケイローンは足を折り地面に座る。そしてどこから取り出しのか、ワインを取り出す。すると景虎は「――おお!」と分かりやすく目を輝かせている。
「無類の酒好きだと伺っています。どうでしょう?」
「ええ、ぜひとも! しかしなんとも赤いお酒ですね。確かワインというのでしたか」
「あるいはバッカスとも。かつて私が生きていた時代では水で割って親しまれていました。今でも一部の地域ではそうした飲み方をされているようですが、今回はそのまま楽しんでいただければ」
「ええ、ええ」
そうしてやはりどうやって用意したのか、二つのグラスにワインを注ぐケイローン。一方を自身に、もう一方を景虎に渡す。
「ああ、これはかたじけない。けいろん殿とは轡を並べて戦場に臨んだ仲ではありますが、よくよく思い返してみればこうして改まって会話をすることはありませんでしたね」
「それだけ聖杯戦争が苛烈だった、ということにしましょう」
「あはは。して、お話とは」
「単刀直入に聞きましょう。長尾景虎殿、貴女はどうしてそこまで力に固執するのですか?」
ケイローンの冷徹な眼差しが景虎を射抜く。対する景虎は「はて?」と首をかしげる。その瞳には色がない。いや、あるにはある。彼女が駆け抜けた戦国の世と比べれば、幾分かマシな程度には。
「貴女は十二分に強い。大英雄であるアキレウスとカルナと戦い、見事勝利をおさめたのですから」
「一騎打ちではありませんでした。それこそ、けいろん殿がいなければ到底敵う相手ではなかった。言うまでもないことでしょう?」
「いいえ。英雄とは無理を通して英雄足りえる。その英雄が束になっても相手にならない存在が大英雄なのです。そして私は戦士を教え導くことに長けていますが、戦うことそのものは本職に及びません。アキレウスに勝利したのは貴女が戦士として優れていたからです」
「それはそなたも同じことでしょう?」
「言ったでしょう。私は教師です。戦士ではありません。もし私がアキレウスと一騎打ちをしたとしても、精々踵を打ち抜くのが関の山です」
「分かりませんねぇ。褒めてくれるのは嬉しいですけど、結局そなたは何が言いたいんですか?」
ワインを楽しみながら景虎が問いかける。どうにも結論が見えない。別に会話をすることは苦ではないが、冗長になるのはお酒の味に関わってくる。
「最初に述べた通りです。どうして貴女は私に教えを乞うのです。現時点で貴女は強い。これ以上強くなって、貴女は一体何を求めるというのですか?」
「ああ、そういう意味でしたか」
得心が得たといわんばかりに笑う景虎。その瞳に色彩が宿る。
「私は、己こそが最強であると信じて疑いませんでした」
「事実でしょう。少なくとも貴女の生きた時代で貴女に勝る存在はいなかった」
「宿敵といえる存在はいたんですよ? まぁそれでもやっぱり私のほうが強かったですけど。ただそれはあくまでも戦国の世の話。私が最強であるという自認は、地球規模でみれば全くの過剰評価だった」
全く恥ずかしい話ですと彼女は続ける。やや頬を赤く染め、本当に恥じ入るように。
「でもね。私のマスターは私が最強のサーヴァントであると、今でも信じてくれているんですよ。本当、お馬鹿さんですよね」
ケイローンは無言をもって話の続きを促す。少なくともケイローンの立場から言える言葉はなかったからだ。
「私のマスターは貧弱なんです。本当はそんなに強くない人なんです。なのにちょっと気取って身の丈に合わないことをすぐにしちゃう困ったちゃんなんです。そんな弱き人を守れる存在がいるとしたら、それはやっぱり最強な誰かなわけで」
だったらその誰かは自分でありたい。最後に彼女はそう締めくくった。
「……なるほど。惚気でしたか」
「なんですかそれ」
「いえ、ああ、いや。そこらへんも少し手を加えましょうか」
ケイローンは苦笑する。そして自身の懸念がまったくの杞憂であることに安堵する。
もし景虎が邪な思想を抱いているのだとしたら。それが神霊に返り咲いた自分を現世に留めている
しかしそれは気のせいだった。となるとケイローンの役割は別にある。それを見定める必要がある。彼はそこまで思考を進め――
「あの、けいろん殿」
「はい。なんでしょう?」
「もう一杯ください」
今はこの新しい生を謳歌しようと決めたのだった。