越後の軍神と気取り屋マスター   作:元ジャミトフの狗

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第六話

 

 ロンドンの夜は霧に沈み、テムズ川沿いの倉庫街は静寂に包まれていた。長尾景虎と梶田悠斗は、時計塔からの新たな任務を待つ間、別行動をとっていた。景虎は現代社会に慣れるため、悠斗の指示で日用品を買いに出かけていた。スーパーマーケットの明るい照明、棚に並ぶ洗剤や歯磨き粉、客のざわめき――400年前の戦国武将であり、聖杯戦争を勝ち抜いたランサーとして受肉した景虎にとって、これらはすべて「学ぶべき知識」だ。彼女はいつしか悠斗に買い与えられた白シャツと黒いパンツに身を包み、銀髪を揺らし、首元の雪の結晶ペンダントを弄びながら、買い物かごを手にスーパーを歩く。

 

「歯磨き粉、歯磨き粉。なぜこんなにも種類があるのでしょうか。味の差異。ほうほう、そのようなものが」

 

 景虎は歯磨き粉のチューブをじっと見つめ、首を傾げていた。彼女の瞳は戦場を求める虎のそれだが、今はただ困惑に揺れている。人の心を理解できない彼女にとって、日常の雑事は戦術書を読むよりも難解だ。店員にぎこちなく礼を言い、彼女は買い物を終えて倉庫街へ戻る準備をする。

 

 

 

 一方、悠斗は倉庫街で単独で待機していた。先日の吸血鬼狩りで損耗した礼装の調整、そして同日に襲撃された黒ずくめの魔術師の調査をしていた。

 

 彼は研究肌の魔術師だが、聖杯戦争を勝ち抜いた実戦経験を持つ。模造の聖杯を改造し、景虎を受肉させた彼の魔術師としての能力は決して二流ではない。だが、それでもやはり戦闘は彼の専門外だ。

 

 霧の中から、数十の気配が一斉に迫る。黒ずくめの魔術師たち――それも手練れの殺し屋だ。時計塔の外縁に雇われたであろう彼らは、受肉したサーヴァントという魔術の至宝を奪うため、悠斗を襲撃する。リーダーの男が、冷たく笑う。

 

「梶田悠斗、サーヴァントはどこだ? 渡せば、命だけは助けてやる」

 

 悠斗は無言で魔術回路を起動し、防御結界を展開する。工房と呼ぶにはお粗末な倉庫で、唯一勝ち筋があるとすれば景虎の応援が来るまで耐え忍ぶこと。

 

「来るなら来い」

 

 彼の声は冷静だが、内心では景虎の不在を悔やんでいた。彼女を日用品の買い物に送り出したのは、現代社会に慣れさせるためだった。だが、今回はそれが裏目に出た。迂闊だったと言えばそれまでだ。

 

 殺し屋たちの攻撃が始まる。数十の攻撃が悠斗を襲う。彼は結界で防ぐ。研究者としての精密な魔術は、敵の攻撃を効率的に凌ぐ。だが、多勢に無勢。結界に亀裂が入り、影の刃が彼の左腕を切り裂く。血が飛び、動きが鈍る。さらに、炎の魔術が結界を突き破り、胸を焼く。

 

「くそっ……!」

 

 悠斗は歯をくいしばり、戦闘には向かない回路を無理やり励起させる。だが、殺し屋のリーダーが放った呪詛の槍が、彼の腹を貫く。致命傷だ。彼は血を吐き、倉庫の壁に凭れる。視界が霞む中、彼は景虎の名を呟く。令呪はない。先の聖杯戦争で使い潰した。

 

「景虎……早く……」

 

 霧が裂ける。長尾景虎が、買い物袋を手に倉庫街に駆け戻る。彼女の瞳は、戦場の匂いを捉えた瞬間、獣の輝きを取り戻す。袋を地面に放り、刀を抜く――その一瞬で、三人の殺し屋が血飛沫と共に倒れる。彼女の白シャツは再び赤く染まり、銀髪が夜風に舞う。聖人君子の仮面は消え、400年前の戦鬼がそこにいる。

 

「マスター!」

 

 景虎は悠斗の血だまりを見つけるが、彼女の動きは止まらない。刀が閃き、敵を次々に屠る。炎を切り、影を裂き、呪詛を無視する。受肉した彼女の身体は、サーヴァントだった頃の力をそのままに、戦場を支配する。

 

「敵の命脈、我が掌中にあり! しねぇー!」

 

 彼女の声は昂揚に満ち、虎のような笑みが浮かぶ。敵の恐怖も、悲鳴も、彼女にはただの雑音。ただ結果のみ伴えば良い。

 魔術師の大群を薙ぎ払い、視界が開ける。そして悠斗の地に伏した姿を見て、彼女の動きが一瞬止まる。

 

「マスター……なぜ、このような傷を?」

 

 彼女の声は穏やかだが、初めて「理解できない何か」に揺れる。買い物という「日常」を強いたことで、彼が深手を負った――その因果が、彼女の知識を超える。

 

「狼狽えるな、倒せ!」

 

 悠斗の声は弱々しいが、命令は明確だ。景虎は頷き、戦場に飛び込む。彼女の刀は嵐となり、殺し屋たちを瞬く間に殲滅する。リーダーが最後の呪詛を放つが、景虎の槍さばきはそれを一瞬で終わらせる。戦いは終わる。霧の中に、亡骸のみが残った。

 

 景虎は悠斗の側に跪く。彼は血だまりの中で、浅い呼吸を繰り返す。致命傷だ。彼女は彼の傷を見つめ、ペンダントを無意識に握る。

 

「マスター、なぜ私が買い物など……。一緒にいれば、こうはならなかった」

 

 彼女の声には、非難めいた響きがある。悠斗は苦しげに笑う。

 

「現代に……慣れてほしかった。お前が、ただの戦鬼じゃなく……人間として生きられるように」

 

 それはどこまでも自分本位の言葉だった。かつて悠斗は暴走した亜種聖杯を即興で改造し、今にも暴発する寸前だった魔力の受け皿として自らのサーヴァントを利用した。故に長尾景虎の受肉は事後承諾だった。後悔と責任感を覚えないほど、悠斗は非情でもなかった。

 

 対する景虎は首を傾げる。彼女にとって、戦いは「生」そのもの。日常の雑事は、戦場に比べれば色褪せた知識に過ぎない。だが悠斗の言葉に彼女の内に波紋が広がる。人として生きる。それは彼女の理解を超えた概念だ。

 

「マスター、死んではいけません。そなたは私のマスターです」

 

 彼女の声に、初めて感情らしきものが滲む。人の心を知らぬ彼女にとって、悠斗はある種、正しい知識を超えた存在になりつつあった。彼女は彼の手を握り、血で汚れたペンダントを胸に押し当てる。

 

「景虎……これは俺の失態だ。だから気にするな。いいな」

 

 悠斗の声は弱々しく、だが笑みを浮かべる。景虎は頷き、初めて喪失の感覚に触れる。それは、命のやり取り以外の生だった。

 

 霧が晴れる。景虎は悠斗を背負い、倉庫街を後にする。買い物袋は地面に転がったまま。彼女の刀は血に染まり、現代の装いは赤く濡れる。だが、彼女の胸のペンダントは、人の心に近づく一歩を、静かに刻んでいた。

 

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