越後の軍神と気取り屋マスター   作:元ジャミトフの狗

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第八話

 

 ロンドンの裏路地にある、年季の入ったパブにて。

 湿った木材と埃っぽい絨毯の匂いが混じり合い、人々の喧騒とグラスのぶつかる音が響いている。薄暗い店内は、琥珀色の照明に照らされ、古びたポスターが壁に貼られている。

 梶田悠斗は、カウンター席に座り、半身を起こしてペールエールを喉に流し込む。顔の青白さはまだ残るが、回復の兆しが見え始めていた。隣には、長尾景虎が白いノースリーブシャツに黒いパンツ姿で座り、その異様な美貌は、パブの常連客たちの視線を集めている。彼女の胸元には、雪の結晶のペンダントが控えめに輝いていた。

 

「マスター。このお酒は苦いですね。越後のものとも、京の逸品とも違う。強いとも言い換えていい」

 

 景虎がグラスを傾け、眉をひそめる。彼女の横顔は、どこか無邪気な好奇心が滲む。悠斗は短く答える。

 

「慣れだ。それに、苦いだけじゃない。後からくる風味も楽しむもんだ」

 

 景虎はもう一口飲み、小さく頷く。

 

「ふむ。確かに、舌の奥に何か残ります。これが『風味』ですか。南蛮の酒類は、奥深いものですね」

 

 彼女の声は穏やかだが、その瞳の奥には、新たな知識を吸収しようとする探求心が宿っている。悠斗は苦笑しながら、腹に物を入れたくなってとメニューを覗く。

 

「しかしお前は本当に酒が好きだな。医者からは、まだあまり飲むなと言われてるんだが」

「何を言います、マスター。酒など嗜む程度。それに、病は気からと言うではありませんか。酒は人の気を満たします」

「お前が飲みたいだけだろうに。ほれ」

 

 悠斗は景虎に自らのグラスを差し出した。快復祝いということでパブを訪れたが、これがなかなかどうしてキツい。流石に四杯は無謀だった。

 

「おお! これはありがたい。ではでは」

 

 悠斗のグラスに残ったビールを躊躇なく飲み干す景虎。その姿は、戦場で敵を討ち取る時と寸分違わぬ迷いのなさだった。悠斗は呆れたように肩をすくめる。

 

「あまり飲みすぎるなよ。足元がおぼつかなくなるぞ」

「ご心配には及びません。私、これでも酒精に酔ったことはないのです」

 

 景虎はそう言いながら、また新たなビールを注文する。その手つきは、すでに手慣れたものだった。悠斗は、そんな彼女の様子を眺めながら、先日襲撃してきた魔術師たちのことを考えていた。

 

「それにしても、あの襲撃は不可解だったな」

 

 悠斗は空のグラスを回しながら、呟く。景虎は耳を傾けるように、静かに悠斗を見つめる。

 

「あの魔術師たち、やけに手際が良すぎた。今思えば、奴らはお前を『降霊の至宝』とまで言っていた。口上だけ受け取れば、自らを降霊科出身であると主張しているようなものだ。しかしその一方で奴らが降霊魔術を行使した気配はなく、それどころか魔術使いみたく短絡的な神秘の運用をしていた。時計塔の魔術師というにはあまりにお粗末と言わざるを得ない」

 

 悠斗の言葉に、景虎の瞳に微かな戦意が宿る。

 

「では、彼らは時計塔の魔術師ではない、ということですか?」

「断言はできないし、降霊科と敵対する派閥の間者であるとも言い切れない。だが時計塔は今、大きく疲弊している。他の聖杯戦争でロードを始めとした多くの魔術師が戦死した上に、貴族主義派と民主主義派の派閥争いも激しい。そんな状況で受肉したサーヴァントを捕獲するために、あれだけの戦力を投入するなんてあまりに非効率的だ。そもそも降霊科の魔術師ならば、もう少し回りくどい手を使うはずだ」

 

 故に時計塔外縁の魔術師。彼らをそう評した悠斗は、再度思考を巡らせる。彼の頭の中には、いくつかの可能性が浮かんでいた。

 

「だとすれば、あの襲撃の裏には、俺たちを別の勢力に引き込もうとする意図があるのかもしれない。時計塔に敵対する勢力、あるいは、自らの野望のために他人を利用しようとする、とんでもない野心家か」

「なるほど。つまり、彼らは敵ではあるが、その裏にいる者は別やもしれぬ、ということですね」

 

 景虎の声には、かすかな興奮が宿る。彼女にとって、この新たな謎は、新たな戦の予感でもあったからだ。

 

「そういうことだ。だが、それが誰なのかまでは分からない。手掛かりは少ないからな。あの連中の手口を見る限り、目的のためなら手段を選ばないだろうし、しばらくは警戒が必要だ」

「警戒することに異論はありませんが、以前の報復の話はどうなったのです」

「勿論するとも。奴らのアジトは既に調べがついている。ただ黒幕の方はなんとも」

「なるほど。ではそちらは任せします」

「この件、先が長くなりそうで気が滅入るよ」

 

 悠斗はため息をつき、ほんのわずかに残っていた酒を飲み干す。景虎はそんな悠斗の横顔を見つめ、再びグラスを傾けた。

 

「ところでマスター、この苦い液体、エールといいましたか。これは、戦場の興奮にも似たものがあります。この身に満ちる感覚は、なんとも心地よい」

 

 景虎はそう言って、店員に手を振る。その顔は、ほんのり赤みを帯びていた。悠斗は苦笑するが、彼女の言葉に、ふとある記憶が蘇る。

 

(そういえば、上杉謙信は無類の酒好きで、それが死因になったとも言われていたな……)

 

 悠斗は、自分のサーヴァントが、戦国時代の「軍神」と謳われた上杉謙信その人であることを思い出し、妙な親近感を覚える。彼女の戦場での苛烈さとは裏腹に、酒を前にした時の無邪気な表情は、どこか人間らしい。

 

「ああ、分かった。さっきも言ったが、飲みすぎはあまり良くないぞ。いくらお前がサーヴァントとはいえ、受肉して肉体を得た以上、無理は禁物だ」

 

 悠斗の忠告に、景虎はにこやかに頷く。

 

「ご心配なく、マスター。私は常に、己の力量を把握しております。それにこの酒は私に喜びを感じさせてくれる。酒とは須く楽しいものなのです」

 

 楽しそうに語っているのに、どこか機械的な響きを感じさせる声音。いつだってそうだ。ふとした折に見せる非人間的な側面。

 一月ほど前に景虎と駆け抜けた聖杯戦争で、悠斗は夢で彼女の過去を覗き見たことがある。魔力パスを繋げたことによる副作用だ。そこで見た長尾景虎の過去は、大凡気分の良いものではなかった。

 人の心が分からない戦鬼。故に仏の教えを知識として覚え、ただそれに準える人生。正しいだけの空虚な人間、それが長尾景虎という女だった。

 甘さも辛さも苦味もわかる。だがそれが美味しいのか、不味いのかは皆目見当もつかない。今景虎の語ったことも、かつて彼女の師だった和尚が言っていた「酒の味とは楽しいもの」という知識を懸命にアウトプットしているだけに過ぎない。本質的に理解しているわけではない。

 

 悠斗は、景虎の胸元で輝くペンダントに目をやる。あのデパートで贈った小さな雪の結晶は、確かに彼女の非人間的な心に、小さな波紋を広げている。それは果たして、悠斗が望んだ人間として生きる一歩になるのだろうか。

 

 酒はさらに進む。景虎は、普段の冷静さを失い、楽しげに笑い声を上げる。

 

「マスター! この酒は、越後の名酒にも劣りません! いや、むしろ、この異国の地で味わうからこそ、格別の味わいがあるのかもしれません!」

 

 彼女はそう言って、悠斗の肩をポンと叩く。その力強さに、悠斗は思わずよろめく。

 

「おいおい、景虎。もう少し手加減してくれ。まだ傷が完治してないんだからな」

「む? これは失礼しました。しかし、マスターの顔色もずいぶん良くなった。私が世話をした甲斐があったというものです」

 

 景虎は満足げに頷く。その瞳は、酒のせいで潤み、戦鬼のような鋭さの中に、ほんのわずかな優しさが宿っていた。

 悠斗は、そんな彼女の様子を見て、じんわりと胸が温かくなるのを感じた。聖杯戦争の勝利、そして受肉したサーヴァントというイレギュラーな存在。魔術師としての人生は、常に危険と隣り合わせだ。だが、この戦鬼のような相棒が隣にいる限り、どんな困難も乗り越えられるような気がした。

 

「そうだな……お前のおかげで、俺もだいぶ元気になった。感謝してる」

 

 悠斗の素直な言葉に、景虎は目を瞬かせる。そして、少し照れたように視線を逸らし、グラスを手に取る。

 

「当然のことをしたまでです。ですが……マスターに感謝されるのは、悪くない心地がしますね」

 

 彼女の頬が、酒のせいかさらに赤くなる。その言葉は、彼女の「正しい」という知識の枠を超えた、純粋な感情の片鱗だった。悠斗は、景虎のそんな変化を静かに見守る。

 パブの喧騒は、夜が深まるにつれてさらに増していく。酒に酔いしれる軍神と、その隣で静かにグラスを傾ける魔術師。二人の間には、言葉以上の絆が確かに芽生えていた。

 

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