霧に沈む廃工場。
戦いの熱が抜けた空気は、皮肉なほど澄んでいて、破壊と死の痕跡をかえって際立たせていた。床に散らばる礼装の破片は、すでに役目を失って力を失い、もはや瓦礫と見分けがつかない有様である。
破れた窓から吹き込む冷たい風が、鉄の匂いを運ぶ。血と錆が混ざり合い、冬の夜気に溶ける。悠斗はその中で、魔力の残滓がまだ漂っていないかを確かめていた。
背後には、返り血を浴びた長尾景虎。衣服のあちこちに赤が散り、銀の髪は戦闘でほどけ、月明かりを柔らかく反射していた。
「……終わったか」
低く、いつも通りの声。だが、そこにはごくわずかな安堵が混じっている。
「はい。敵は全滅しました、マスター」
景虎は刀を納めると、静かに視線を落とした。表情に起伏はないが、その瞳の奥には、まだ戦いの残光がかすかに揺れている。
悠斗はふと足を止め、耳を澄ます。
――空気が、震えた。
天井の破れ目から黒い羽根が舞い降りる。
一枚、また一枚。床に触れる直前、それらは鳥の形をした小柄な使い魔だった。
『……ほう。噂以上だな』
響いた声は、直接耳に届くものではなかった。
使い魔を媒介に遠くから流れ込む、低く抑えられた声。冷たいが、響きに妙な重みがある。
悠斗は眉をわずかにひそめた。この口調、この声色――聞き覚えがあった。
「……ダーニック・プレストーン・ユグドミレニアだな」
名を口にすると、使い魔の口元がかすかに動く。人でなくとも、それが笑みを浮かべているのだと分かった。
『私をご存じか。なら話が早い』
知識と企みの色が濃い空気。
ダーニック・プレストーン・ユグドミレニア。
その通り名は『八枚舌』。二級講師にして階位は『王冠』。没落した魔術師の受け皿として名高いユグドミレニアの長である。
『まずは労をねぎらおう。君の手際は見事だ。サーヴァントを率いているとはいえ、要塞化された拠点の構造を見抜き、なおかつ迅速に制圧する。君の結界に対する造詣は時計塔でも指折りだろう』
「……お世辞を言いに来たわけじゃないだろう」
悠斗は淡々と返す。だがその内心は、相手の意図を量りながら、同時にわずかに身構えていた。
『率直に言おう。君を、我が陣営――ユグドミレニアに迎え入れたい。来るべき大戦のために』
景虎の視線がわずかに動く。「大戦」という響きに反応したのだ。悠斗は表情を変えず、ただ沈黙をもって続きを促す。
『君は梶田家の次男坊。魔術回路は家系と相性が悪く、幼い頃から冷遇されていた。長男に何かあったときのための予備――それが君の立場だったのではないか?』
悠斗の眼差しが僅かに細まる。否定はしない。事実だった。
『だが、君には結界術に関して天賦の才があった。ロード・バリュエレータがそれを見抜き、拾い上げた。もっとも、その代償として君は私兵として戦場に駆り出され、己の研鑽を制限されたまま過ごしている』
ダーニックの声は淡々としているが、その実、相手の胸中を抉るための言葉を的確に選んでいた。
『私の下に来れば違う。自由な研究、蔵書、実験の場……そしてその受肉したサーヴァントを存分に活かせる環境を保証しよう』
景虎が首を傾げ、悠斗の横顔をうかがう。
その瞳は、戦場でしか輝かないはずの彼女にしては珍しく、わずかな興味の色を帯びていた。
「……悪くない条件だな」
『そうだろう?』
「とはいえ、今答えを出す気にはなれない。分かるな?」
『勿論だとも』
ダーニックは薄く笑う。
悠斗の胸中では、理屈と感情が静かにせめぎ合っていた。
制約だらけの時計塔。しかしその場に立てているのは、ロード・バリュエレータが拾ったからだ。彼女の恩を切り捨てるほど、悠斗は利得だけで動く人間ではない。
『ふむ……ではこうしよう』
ぱちんと指を弾く音。使い魔の瞳が赤く輝き、わずかに空気が重くなった。
『この使い魔に君の魔力を記録させた。決断の時が来たら、魔力を流し込むだけで私に届く。それでは、梶田悠斗。君の返事を楽しみにさせてもらおうではないか』
次の瞬間、使い魔の輪郭が歪み、黒い羽根となって舞い散り、霧の中に消えた。
再び訪れる静寂。瓦礫を踏む景虎の足音だけが響く。
「マスター」
「……すまない。少し、一人にさせてくれ」
景虎はしばしその横顔を見つめ、やがて静かに頷いた。彼女には彼の忠義や恩義の重さなどわからない。ただ、その短い言葉に、なぜか切り捨てられない何かが含まれていることだけは、肌で感じ取れた気がした。