この世界には天使が実在する。天使が実在すれば、悪魔も実在するし、天国も地獄もある。
いや、天国も地獄もこの世ではないので、この世にはないというのが正しいのかもしれないが。
兎にも角にもこの世ならざる場所と存在が実在するということだけ覚えておいてほしい。
「貴女は、七千万回に及ぶ輪廻転生を経て、ついに天使として生まれ変わることができたのです」
「祝福とともに、貴女に名前を授けましょう」
「――天使アクヸネル。これからは多くの人々を導いてください。期待していますよ」
あまりにも巨大な、優しくも眩く光り輝く女性の手のひらの上でそう言われた時、俺は自分が人間から、天使という存在へ生まれ変わったことを理解した。
天使になるには、七千万回という膨大な輪廻転生の中で少しずつ魂を磨き上げる必要があり、大抵はその回数を迎える前に擦り切れるか、魔に惹かれて地獄へと堕ちてしまうらしい。
また、天使の人格……天使格? は、最後の七千万回目の生のものに寄るらしく、俺は生前一般男性だったので、天使格もそのようになったとのことだ。
ちなみに見た目はきれいなプラチナブロンドの長髪に、アクアマリンの如く煌めく優しげな瞳。スラリとした体つきは起伏こそすくないものの、まるで芸術作品のように整った超絶美少女(光輪と白い翼つき)となっていた。
「いやいやいやいや、そうはならんやろ。いやなっとるやろがい!」
ひとり寂しくボケツッコミをする声が、与えられた自室である湖の中に響く。
どうやら俺は水を司る天使らしく、水の中は酷く落ち着いた。
もしかすると人間の「俺」になる前はお魚さんだったりしたのかもしれない。
天使になってからもう二十年ほどが経っているらしいが、天国が特殊なのか、天使という種族が特殊なのか、体感としてはほんの一週間くらいに前に生まれたような時間感覚だ。
――ポツンポツン。
と、水面をノックされる感覚。
水面から顔を出してみると、訪ね人、もとい訪ね天使は、姉天使であるアルビネルとヹンティエルだった。
二柱はそれぞれ、木と風を司る天使であり、水を司る俺と相性が良いのか可愛がってもらっている。
「こんにちは、アクヸネル」
「こんにちは、アルビネル、ヹンティエル。今日はどうしたんですか?」
俺達天使に上下関係はないそうだけれど、先輩というか姉であるし、可愛がってもらってもいるので、基本的に敬語で接するようにしている。
「今日は良いものを持ってきたの」
「良いもの?」
「アクヸネルはまだ一度も人間さんを見たことがないでしょう?」
「導くもなにも、見たこともないのにそんな事言われても困っちゃうわよね?」
「だからはい、これ」
そう言って手渡されたのは、金属のような何かで作られた、美麗な装飾が施された縁(ふち)だった。
いやいや、人間を見たこともないもなにも、もともと人間だったのだから、特に感慨深いものはなにもないのだが……姉達の好意を無下にするわけにもいかないので、素直に受け取っておく。
「これは?」
「貴女は水を司っているから、自らの水で水鏡を作ってご覧なさい」
「これは水鏡のフレームってこと」
「なるほど」
「権能の練習にもなるだろうし、それで人間さんたちの営みを覗いてごらんなさい」
「ありがとうございます」
そう言って去っていった姉たちを見送り、さっそく水鏡用の水を作り、貰ったフレームに凪いだ水面を張る。
「どれどれ……」
やはり最初に見るのは、生前の俺が生まれ育った日本だろう。
権能を用いて様子を見てみる。
「へぇぇ、ついこの間までスマホだったのに、新しい端末が主流になってるんだ。便利な世の中になったもんだなぁ」
「このゲームの新作出たんだ。やりたかったなぁ……」
「
いくら天使として生まれ変わったと言っても、生前は一般男性であり、水鏡で人間の世界を覗き見るのも、単なる暇つぶしでしかなかった。
そのはずだったのだが……。
「うわ、また戦争始めた。なんでそんな愚かなことするんだ。可愛すぎか?」
「うわああ! ベビーブームだ! いっぱい生まれてる! 可愛いすぎる……」
「あああ、日本滅んじゃった……可哀想すぎる……でもいっぱい頑張ってて偉かった。ロシアも辛い中よく頑張った……偉すぎる……!」
「変な宗教流行ってるなぁ。できれば女神様を信仰してほしいけど……けど変なもの信じてる人間可愛いなぁ」
「あら、すっかり人間さんに骨抜きね」
「うわあああああ!?」
突如背後から聞こえてきた声に驚き、水鏡を放り投げてしまう。
振り返ると、ウルビエルが嬉しそうにこちらを覗き込んでいた。
「ウ、ウルビエル……入る時はノックくらいしてくださいよ……」
「したわよぉ。なんなら二十年くらい前にも来たんだけど、返事がないから改めて来たくらい」
「う、嘘……」
「やーね、天使が嘘を付くわけないでしょう」
ころころと笑うウルビエル。
どうやら二百年ほど、人間界を見るのに夢中になっていたらしかった。
「人間さんを可愛がるのも良いけれど、そろそろ天使としての勤めも覚えてもらおうと思ってね」
「人間を導くってやつですか?」
「そうそう」
「導くって言っても、具体的に……どこに導くんです?」
「ちょうど今日はそれを見せようと思ってね。言って説明するより、ひと目見てもらった方が早いと思って」
そういって湖から連れ出されていったのは、天国の端っこも端っこにある、大きな井戸だった。
そこには、弓矢を持った戦闘に特化した天使が複数柱いて、井戸から下に飛び降りていったり、逆にボロボロになって井戸から這い出してきたりしていた。
「え、な、なんですかあれ……」
「あれはね、地獄へとつながる井戸よ」
「地獄……」
白い血を流す天使達の姿に、思わず後ずさってしまう。
「大丈夫。悪魔達はこの井戸を通ってはこれないから」
「そうなん、ですか……」
ウルビエルに促されるがままに、井戸に近づいていく。
「落ちないように、覗き込んでごらんなさい」
「は、はい……」
そっと、井戸の上に顔を差し出し、遥か下を覗いてみる。
一見すると、ただ暗闇であった。
しかし、よくよく目を凝らし見ると、そこにはうじゃうじゃとした黒い奴らがいた。
ゾッとした。
見るまでもなく、腕に背中に脚に、これまでにないほどの鳥肌が立っているのが分かる。というか、羽根が大きく膨らんだ。
「な、なにあれ……」
思わず声に出たが、答えを聞くまでもなかった。
――悪魔だ。
「悪魔、それから、悪魔に魅入られた魂たちよ」
「そ、そんな……」
まるで人間の頃の感覚でいうなら、腐った肉が詰まった壺に、蜘蛛やムカデや虻がギチギチに集っているような光景だ。
そうか。悪魔に魅入られた魂は、いわば物言わぬ腐った肉片になってしまうのか。
あんなに愚かで、賑やかで、可愛らしい人間が、あんなに気持ちの悪いモノに成り果ててしまうのか。
「……なきゃ……導か、なきゃ……」
駄目だ。あれは駄目だ。この世に存在していて良いものじゃない。
一刻も早く滅ぼさなきゃ。
でも、俺にアレと戦う力も決意もない。
「ええ、そうよ。だから私たちは導くの。人間さんたちが、悪魔に魅入られないように。地獄に落ちないように。……手伝ってくれる? アクヸエル」
「……はい。導いてみせます。私が……!」
俺は暑い思いを胸に、人間さんたちを導くことを誓ったのだった。
誰か続き書いて。
ちなみに主人公さんは30年後に、悪魔に魅入られかけた国を水の底に沈めて、
「危なかったぁ。悪魔に魅入られる前に輪廻の輪に還せた。いい仕事したなぁ」
と言っています。