あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。   作:七篠トレーナー

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10-春のファン大感謝祭 後編

 明らかに模擬レースに見入ってしまっていたせいで、三人は時間を取りすぎていた。

 駿川から電話が入り、途端に空気はお通夜のようになった。

 あの人、一体どこで見ていたのか。駿川に監視されているような感覚が背中に残り、ぞわりとした寒気が走る。

 

「いや、興が乗ってしまった。トレーナーのサガだな」

 白椿が肩をすくめながら言うと、柚木が真面目な表情で応じた。

「わかりますけど、反省しましょう。ちゃんと仕事しないと……」

「そうだな。オレ、あの人に目をつけられるのはちょっと……」

 

 桐野も苦笑しながら答えた。

 どこにでもいて、何でも知っている――そんな印象を抱かせる女性だ。

 その上、書類の不備があれば容赦なく指摘してくるし、疲れた様子を見せることもない。

 ギラギラしているわけではないが、常に一定のテンションで笑顔を絶やさない。

 まさにバイタリティの塊といえる。

 

「それにしても、この“はちみー”って、カロリー爆弾すぎやしないか……」

 

 白椿が出店で買ったプラスチック製カップの中身を一口吸い込み、微妙な表情を浮かべた。

 一口とはいえ、吸うのにずいぶん時間がかかっていた。

 カチカチのシェイクを吸おうとする時のような、そんな顔をしている。

 

「なんで買ったんだよ。明らかに俺たちが気軽に飲んでいいタイプの飲み物じゃないぞ」

 

 桐野が思わずツッコミを入れる。水分補充とは程遠いドリンクだ。

 はちみつとレモネードを混ぜた……というより、“はちみつのレモネード風”と表現する方が正確な飲み物だった。甘さの割合が逆転していて、一目で「一口で十分」と思える代物だ。

 

「いやさ、テイオーが好きらしいから、いい機会だし一度飲んでみようと思って。

 すげえぞこれ、飲むのに肺活量がいる。それも結構な量の」

 

 白椿は少し笑いながら、結露した手を拭いてカップを軽く揺らす。

 だが、内容物はまったく揺れなかった。どう見ても、液体というより“食べ物”に近い粘度だ。

 ウマ娘なら肺活量もあるから平気なのかもしれない。

 トウカイテイオーの好みである「固め濃いめ多め」というのを選んだらしい。

 

「おれ、甘いのはちょっとっていうか……甘味じゃなくてもそれは無理」

 

 柚木が顔をしかめ、白椿が差し出したカップをすぐさま手で押し返した。

 

「あとで、テイオーくんにでもあげれば?」

 

 桐野が苦笑しながら提案する。

 確かに、無理に飲むよりも好きな子にあげるのが一番無駄がない。

 

「そうするかあ」

 

 白椿は肩をすくめながらカップを見つめ、観念したように笑った。

 

 どこからか放送が聞こえてくる。「一問一答」の時間らしい。内容まではわからないが、笑い声も混じっているので滞りなく進んでいるようだった。

 レース場をあとにしてさらに歩いていくと、屋外ライブステージからライブ音源と歌声が流れてきた。それに合わせるように、観客たちの合いの手も重なって響く。

 このライブは模擬レースに次ぐほどの盛況だと聞いていた。実際、この周辺だけ体感温度が上がっているような気さえする。

 本来は、レースの勝者がウイニングライブという形でパフォーマンスを披露する。レース直後にこんなライブをして、ウマ娘は大丈夫なのかと桐野も何度か思ったことがある。だが、これを目当てに足を運ぶ観客も少なくない。

 走るときにはあれほど苦しそうで必死だった彼女たちが、ライブ中には一転して、皆楽しそうに輝いている。もちろん合間に多少の時間はあるとはいえ、日本のレースなら最大で3600mを全力疾走した後なのだ。頭が下がる思いだった。

 何より、自分が応援しているウマ娘がセンターで歌って踊ってくれるのだ。これほど幸せなことはないし、ウマ娘たち自身も意欲的なことが多い。

 総じてウマ娘は顔立ちが整っており、愛嬌があったり、カッコよさがあったりと、それぞれが個性と魅力を放っている。そのため、アイドルとしての活動も、興行として十分に成立しているのだった。

 レース場の整備費、ウマ娘への賞金、トレーナーやトレセン学園の教職員への給与、学園内の機材の保守・管理……。考えれば考えるほど、一体どこからその資金が出てきているのか、不思議に思えてくる。

 だが、走りたい、勝ちたい――そう願うウマ娘の情熱に対し、金を出す人間がいて、それを整備し制度として成立させた結果、今の形が出来上がったのだろう。

 

「この歌……」

 

 ふと耳に届いた旋律に、桐野は足を止めた。

 

 G1レース専用のライブ曲だった。はるか遠く、遥か先。まだ担当ウマ娘すらいない桐野にとっては、手の届かない、見ることすら叶わない到達点のひとつだ。だが、いつかは目指すべき目標だとも思っている。自分が育てたウマ娘が、このステージのセンターで踊っている姿を見られたなら――きっと、それはとても素敵なことだろう。

 

 そう想像すれば、やはりウイニングライブは素晴らしいものだと思うし、あってほしいと自然に思える。ふと気づけば、白椿と柚木はもう前方に歩き出していた。

 桐野は小さく首を振ると、気持ちを振り切るようにして、二人のあとを追いかけた。

 

 次に訪れた場所は、別の意味で熱気に満ちていた。

 

 そこでは、トレーナーによる実践形式のウマ娘トレーニングが行われていた。実際には強度を落としているとはいえ、かなりのハードさだ。

 筋トレを趣味にしている桐野ですら、これは一般的な筋力トレーニングとは比べものにならないと感じるほどだった。ウマ娘だからこそこなせる内容――そうとしか思えなかった。

 まるでボディービルダーのような体格の男性が、必死に食らいついている姿も見えるし、すでに動けなくなっている人もちらほらいる。敷かれたマットは、流れ落ちた汗で濡れ、まるで汗の海のようになっていた。

 

 一方で、小さなウマ娘たち――おそらくまだ中等部にも満たないであろう少女たちは、楽しそうに走っている。大人も一緒に走っているように見えるが、明らかに周回遅れのようだった。

 別のレーンでは、アスリート体型の男性が、ジャージ姿のウマ娘と併走していた。

 だが、最大で時速70km近くに達するというウマ娘の速度とスタミナには、太刀打ちできないのは明白だ。

 向こう(前世)の世界でも、瞬発力のある剣士などがいた覚えがあるが、それでもウマ娘の持久力とスピードを超えるのはまずムリだろう。

 このトレーニングは400m走らしく、一般人であれば時速20km出れば速いほうだろう。

 

「いや、思ったより頑張ってるな」

 

 白椿が、走っている男性を見て素直な感想を漏らす。

 

「こうやって中等部とはいえ、トレセン学園のウマ娘と併走できる機会って、なかなかないんですよ。実はこの400m走、一部で結構人気あるんです。チケットが取れたら毎回参加してる常連もいるくらいで。

 勝てることはまずないんですけど、対策会議を開いてるサークルまであるらしいですよ」

 

 柚木の話に、白椿も感心したようにうなずいた。

 二人とも最低限のトレーニングしかしていないらしい。400mの話を聞いた桐野は、率直に「すごい度胸だ」と思った。

 ああいう挑戦をする人間は、純粋に尊敬できる。きっと彼らにとっては、勝敗よりも挑戦そのものが楽しいのだろう。

 400m走人間の世界記録が43秒程らしいが、トレセン学園に着たばかりのウマ娘が同等かそれより速い。ぎりぎり届くか――むしろ届いたら言っちゃ悪いがこんな場所で走ってる場合じゃないぐらいの扱いになるだろう。

 

 そして、こうした隔絶した差こそが、ウマ娘のレースという世界の魅力をより引き立てていると桐野はそう感じていた。

 

「なんだ?」

 

 さらに少し歩いていると、何かざわざわとした気配が見えてきた。緊迫とまではいかないが、心地よいひりつきとは程遠い、微妙な空気が漂っている。

 人だかりができていたため、桐野は声をかけ、トレーナーパスを提示して道を開けてもらう。そして、事態を見て小さくため息を吐いた。

 

「はいはい、通してねー。そこのお兄さんたち、ちょっといいかなー?」

 

 トレセン学園の生徒に声をかけている複数の男たちがいた。その手にはスマートフォン。写真を撮ろうとしているのが見て取れる。

 

 問題は、その“逆側”――被写体にされようとしている生徒の反応だった。

 彼女の耳は完全に垂れ、近くにいた他のウマ娘たちの耳も後ろへ倒れている。

 周囲の一般人はどうすればよいかわからない様子で距離を取り、結果的にぽっかりとした空間ができていた。

 

 お祭り的な雰囲気の中でも、こういう人間は一定数出てくる。言い方は悪いが、社会にわずかに存在する“澱”のような存在だ。

 

「なんすかお兄さん。写真を撮らせてもらいたいだけなんだけど?」

「どう見ても嫌がってるように見えるが」

「いい機会だし、ツーショット撮るぐらいバチは当たらないでしょ」

 

 白椿が、まずさっと生徒と男たちの間に入った。動きに迷いがない。桐野もそれに倣い、その横に立って壁を作る。ちょっとかっこいいなと思った。

 柚木はスマートフォンを取り出してどこかへ連絡していた。おそらく警備への通報だろう。

 

 こういう場での二人の立ち回りは非常にスマートだ、と桐野は感心する。その上で男たちへ視線を向けた。

 

「嫌がってますよ。彼女の様子見てください。耳が垂れて怯えてるでしょう。

 撮られるのが好きな子もいますけど、そうじゃない子もいるんです。撮影ブースもありますから。ここは、諦めてください」

 

 最後の方は少し語気を強めに印象付ける。相手は桐野たちより少し年上くらいに見える三人組だった。酒類は提供されていないため素面のはずだが、どこか節度を欠いていた。

 彼らの目当てが、ただ可愛いと思っただけなのか、あるいはもっと下卑た欲望から来るものなのかはわからない。

 だが、嫌がる子を無理やり撮ろうとすることに、言い訳は通用しない。通すわけがなかった。

 

「ちょっと写真撮らせてもらうぐらい、いいじゃん? ほらほら」

 

 食い下がらない様子。男の片方が、桐野の肩に手をかけてどかそうと押してきた。

 桐野は、目を細めて睨みつけたくなるのを抑え、冷静さを保つ。

 

「……?」

 

 当然、びくともしない。男は「おかしいな?」という顔をしていた。

 桐野はトレーナーとして、そして趣味としても身体を鍛えている。少々押されたくらいで動くほど、軟な身体ではない。

 

 男は数度、無理にでも突破しようと桐野の体を前後に揺さぶった。そこまでして撮りたいのかと、呆れる。いい加減桐野はムカついてきて、その手を掴んでひねるように剥がした。

 

「いってて! 何すんだよ!」

 

 反射的に、手が飛んできた。 殴るというよりは咄嗟に動いた手 。

 ほんの一瞬、世界がスローモーションになる。

 

 指の一本一本が空気を裂き、頬へと迫るのが見えた。

 避けられる。防げる。

 けれど身体は動かなかった。

 

 バチンと乾いた音が、やけに大きく響いた。

 頬に熱が走り、わずかに口の端に血の味が滲む。

 周囲のざわめきが大きくなるが、一瞬だけ遠くなる。

 

(……まただ)

 

 心の奥がざわめいた。

 向こう(前世)で繰り返した、力でねじ伏せる日々。

 ここを暴力で制するのは簡単だが()()()()

 

 怒りと血の気が押し寄せるが、だが、ここは自分を優先する場ではない。

 

 息をひとつ吐く。

 

 ――それでも、いい口実にはさせてもらう。

 

「晴!?」

 

 白椿が思わず男に掴みかかろうとするが、桐野は手でそれを制した。

 男の連れも、「まずいって……」と青ざめ、周囲の視線を気にしはじめていた。痛いだろう、その視線。

 

「あ? ああ。お客さん。暴力行為は如何なもんかと思いますけどね」

 

 口の端から血の味がした。が、桐野は表情を変えず、男の手首を離さない。

 むしろ痛いのは殴った本人の手のほうだろうし、掴まれている手首も痛んでいるに違いない。

 

「いいですか。ここは、学生が学び育つための学び舎です。

 見たところ、俺より年上に見えますけど――大人が模範にならなくて、どうするんです?」

 

 桐野の声は低く静かだった。

 

「ウマ娘を応援してくださるのは、ありがたいです。でも、やり方ってものがあるでしょう」

 

 自分でも、力で押さえ込むやり方はよくないとわかっていた。

 けれど、どこか鬱憤が混じってしまったのも事実だ。

 威圧感の混じった冷たい目が男へと向けば、萎縮したように黙り込んだ。

 

 その直後、柚木が呼んでいた警備員が駆けつけてくる。桐野はそのタイミングでようやく、手を離した。

 

 白椿が舌打ちし、射るような目で男を睨みつけながら、警備員に事情を説明していた。やがて男たちは連れ立って連れて行かれる。その様子を見届けた桐野は、自然とため息をこぼした。

 親指で口の端の血をぬぐい、ハンカチを取り出して傷を拭う。ふと振り返り、目を白黒させて震えているウマ娘を見つけると、そっと屈んで目線を合わせた。

 

「ごめんね。オレたちがのんびりしてたせいで、こんなことになっちゃって」

 

 彼は頭を下げて謝った。本来なら、こうなる前に止めなければならなかった。今回の対応は決して最善でも、次善でもなかった。

 男に対しては正論を語ったものの、自分の行動が果たして「大人」として正しかったのかといえば疑問が残る。自己嫌悪の暗い気持ちが胸の奥で蠢く。ただ、それを表に出すほど未熟でもなかった。

 

「こういうことがあったら、迷わず学園の人に声をかけるんだよ」

 

 目を合わせたウマ娘は、驚いたように目を瞬かせ、視線を彷徨わせる。背中で庇っていたとはいえ、大人同士の争いを見てしまったのだから、怖がるのも無理はない。

 桐野は、彼女が見覚えのある黒鹿毛のウマ娘であることに気づく。

 

「はい。……ありがとう……ございます……その……」

 

 おずおずと、恐る恐る頭を下げてくる。キミがそんなことをする必要はないのに、と彼は思う。

 

「キミはあの時の子か。足はもう大丈夫そう? よかった」

 

 彼女は頷いた。足を庇うような仕草は見られず、立ち姿、重心も安定している。問題なくまた走れるだろう。ああ。本当に良かったと、桐野の中であった黒い気持ちが徐々に晴れていく。

 

「おい、晴。大丈夫か?」

 

 戻ってきた白椿に呼ばれ、彼は立ち上がって歩み寄る。振り返ってウマ娘を見れば、彼女はまた頭を下げていたので、あのときと同じように手を振って見送った。

 

「ああ、大丈夫だよ。ちょっと口が切れたぐらいで」

 

「ホントだよ、まったく。危ないことするなあ」

 

 柚木も声をかけてきて、傷の様子を確認するように頬へと手を伸ばした。ピリッとした小さな痛みが走る。とはいえ、触れなければ痛まないし、血もすぐに止まった。

 

「それにしても、まったく動かずに殴られるとか……ビビったわ。流石にアレぐらい避けれないか?」

「な――んというか、急すぎて反応できなかったというか……」

 

 ()()()()()という言葉が喉元まで出かかるのを、桐野はなんとか取り繕って苦笑いを浮かべる。

 実際には躱すこともできただろうし、もっと穏便に済ます方法もあったはずだ。

 ただ、心の奥で血の気の多さに反応した“向こう側”の自分が動いた。それを抑えきれなかったことに、少し腹が立つ。

 

 精神性は十分に成長していたはずなのに――だが、今まさに気づいたのだ。精神年齢が追いついたことで、()()()()()()しはじめていた。桐野晴のまま向こう(前世)の自分がそこにいる。

 なぜなら、この世界でそんな荒事に()()()()()わけがないからだ。

 元いた世界では、今回のような小競り合いは日常茶飯事だった。自分から手を出すことは稀だったが、暴力が日常にあったのは確かだ。

 今ここで桐野晴として生きた二十一年と、向こうの世界で二十と数年生きた自分が重なった。

 それが四十年近くを生きた人間の精神性だったらもっと落ち着いた態度だったかもしれない。

 結局のところ二つの記憶が混在した二十一歳の男でしか無いということも理解する。

 だからだろうか、どちらの世界でも大人として生きた時間が限りなく少ない経験でしか無い、大人としてちゃんと生きてきていない人間として、「大人というのはもっとカッコいい生き方をしている」ものだという羨望が彼の中には存在していた。

 

 ――こういうことは、あってはならない。

 簡単に言ってしまえば自分自身で制御しなければならないのだ、と桐野は学んだ。

 

「いや、すまん。俺も止めればよかったんだけど、咄嗟に反応できなかったわ」

 

 白椿が笑いながら桐野の肩をばんばんと叩いた。「気にすんなよ」とでも言いたげに。

 桐野は、彼のそういうところを「気のいいやつだ」と思った。

 そう。この隣に立つ男を自分より精神性が下には全く見えなかった。むしろもっと、強い部分で彼らは尊敬するべき同世代の友人であることが誇らしく感じた。

 カッコを付けても大人の仲間入りした程度の男が自分である。桐野はそう納得した。

 

「ここからはとりあえず椿さんと二人で回るから、晴は傷を見てもらって。そのあと本部へ向かって……たづなさんが……」

 

 最後に柚木がそっと視線を逸らした。

 

 ――絶対、そっちのほうが怖いじゃん。

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