あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。   作:七篠トレーナー

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11-生徒会にて。

 治療というほど大げさなこともなく、少し消毒してそれで終わりだった。

 当たったのが口付近だったため、頬が腫れずに済みそうなのは幸いだった。嫌でも目立つ場所だからだ。

 

 それ以上に、桐野の足取りは非常に重かった。

 

 本部には既に連絡が行っていたらしく、一度顔を出すと、先ほどの男性二人は──端的に言えば──つまみ出された後だった。

 事情聴取も既に終わっており、一応形式上の問題があるから生徒会室へと向かってほしいと伝えられた。

 

 「なぜ理事長室じゃなく、生徒会室なんですか?」と桐野が聞いたところ、理事長は別の仕事で不在のため、その取りまとめを担っている生徒会室に案内されることになった、ということだった。

 

 今はほとんどの生徒が出払っており、廊下は静まり返っていた。誰もいない空間はやけに広く、心細さを煽った。

 一歩、また一歩――自分の足音だけが響き、どこか遠い記憶の扉を叩いているように思える。それにしても広い。校則に「静かに走るべし」とあるのも納得の廊下の長さだった。

 警察官に呼び止められると、何も悪いことをしてなくても居心地が悪い気分になるのと似たような感覚。と言っても、今回は少なからず桐野にも非があることを自覚しているのだから、憂鬱にもなった。

 

 胸の奥に沈んでいた重さが、歩を進めるごとにじわじわと増していく気がした。

 

 窓の外では、耳を傾ければようやく遠くで走るウマ娘の蹄音がかすかに届く。その音が、さっきの騒動のざわめきを思い出させる。胸の奥に、まだ重たい石を抱えているようだった。そんな気分だとしても、歩いていれば目的の場所に到着してしまう。

 「生徒会室」のプレートを一瞥して、ドアノブに触れる。と、思い出したようにノックをする。

 

「桐野です」

「どうぞ」 

 

 そのこえは駿川のものだ。

 一度眉間を揉んで、覚悟を決めればネクタイを直し。まるで面接前のような面持ちで彼は扉を開いた。

 

「失礼します」

 

 ドアを開いた瞬間、張り詰めた空気が肌を刺した。

 室内には紙とインクの匂い、窓から差し込む陽の明かりから生まれる木々の影がカーテンに映って揺れている。

 静かな部屋に、壁掛け時計の針の音だけがやけに大きく響いた。

 

Eclipse first, the rest nowhere(唯一抜きん出て並ぶ者なし)

 

 大きく壁にかけられている額縁。思わずそのまま読み上げてしまう。

 トレセン学園の校訓。思い返してみると、職員室や会議室にも飾ってあった記憶がある。

 

「誰もが頂点を狙い切磋琢磨する。容易くはない。私とてね」

「それは……現役最強ってのは現状ルドルフくんのものだろうね」

「だが、それと同時に比肩するものが現れることも望んでいる。二律背反ではあるが並んだうえで抜き去りたい」

 

 純粋に勝利を欲している。そういう目を彼女がしている。

 強すぎて相手がいない。だからこその凱旋門賞の制覇なのだろう。

 

「お疲れ様」

 

 そんな呑気な事を考えていると、苦い顔をした霧原がソファーに腰掛けている。その向かい側のには変わらない笑みを浮かべる駿川。

 その奥には生徒会長用の事務机が置いてあり、その向こう側にシンボリルドルフの姿があった。両手を前で組んでいて表情は見えない。

 

「桐野さん。お怪我の具合は如何ですか?」

 

 ゆっくりと桐野へと近づいてくる様子に、桐野は笑顔を浮かべる。

 

「なんてこと無いですよ。ちょっと口の中が切れたぐらいです」

「本当に? 客に殴られたって聞いたよ」

 

 霧原が笑みも浮かべず視線が鋭くなる。

 

「殴るなんてほど大げさなことじゃないですよ。振り払おうとした手が当たった程度のことです」

 

 そんな様子にやれやれ。と霧原が立ち上がった。駿川と二人が同時に頭を下げてきた。

 想定していない反応に、思わずびくっと肩が揺れる。

 

「いやいや。元々オレ達のグループが模擬レースに熱中してて見回りを怠ったのが原因ですから、怒られることは有っても頭を下げさせるようなことはしてませんって」

 

 あわわ。と両手を開いて胸の前で振る。

 

「過剰な謙遜は良くないよ。桐野君」

 

 頭を上げた二人の向こう。シンボリルドルフが笑顔で言った。

 自分たちの落ち度。という意識なのだろう。笑顔ではあるがその雰囲気は若干刺々しい。

 咎められ、苦笑いしか浮かべることができなかった。

 

「体を張って守ってくれたことは、感謝しているよ。こういった手合は正直に言えば完全に制御はできないのも僕たちの不徳の致すところだ。

 だが――君はサブトレーナーだ。軽々しく手を出すのは、正しい行動とは言えない」

「それは……認めます。オレもあのやり方もいいやり方ではなかったと反省しています」

 

 ほんの僅かな言い訳が浮かんだが、それよりもあの時の黒鹿毛のウマ娘が脳裏に浮かぶ。それだけで十分だった。

 自罰的で後ろ向きな言い方ではあるが頭を下げ、きっぱりと、告げた。

 

「そうですよ。チェックはしていますがそれだけで済まなかったもしれないんですよ。トレーナーさんとして気をつけてください。本当に良くないですよ?」

 

 駿川が横入りして注意してくる。ぐうの音も出ない。

 

「はい」

 

 神妙にその言葉を受取る。

 トレーナーになにかがあってはウマ娘にも影響する。トレーナーもウマ娘も同等に――対等に必要な存在だ。何かあればウマ娘は逃げ足がある。成人男性だってウマ娘を抑え込むことはできない。力の具合が違う。下手を打てば逆に怪我をさせかねない。

 それでも、自分が傷つく方が良いということは言わないが、何も有ってほしくない。

 

「それに、なんというか、君自身も少しウマ娘たちから認知度があるようだよ」

 

 ふふ。と笑うシンボリルドルフ。

 

「何やら、ウマ娘たちに結構好かれているようだよ。手品を見せて回ってるらしいね?」

「見せて回ってるっていうか……、まあ、なんというか受けが良くてつい……」

 

 まあ、自画自賛だが結構本格的に見える程度には練習をしている。今もトランプマジックぐらいなら披露できるようにデッキを忍ばせているのが桐野という男だった。

 

「それになんとも世話焼きだと聞く。将来は一人のウマ娘を導く立場になる。あまり多くに手を伸ばしていると、色々と面倒を背負いこむことになる。

 君は少し――ウマ娘に気を使いすぎている」

 

 シンボリルドルフがふっと目を細める。

 

「……耳が痛いですね」

 

 その通りだった。考えてみたらその都度霧原が「気にしなくても問題がない」と教えてくれていた。それはほんとうの意味で正しい。 

 

「もちろん悪いことではない。ただ、過剰な心配は時に足を引っ張る。

 世話を焼きすぎると、かえって彼女たちのためにならないこともある」

「妹がいるので……つい、同世代の子を見てると……やっぱりあんまり良くないですかね」

 

 悪いことではないのはずなのだが、やはりチームに所属しているのにあれこれ声をかけたり世話を焼くのは外聞的に良くないのだろうか。そう思いながら桐野は苦笑でごまかすように、視線を動かす。

 

 その様子にルドルフと霧原は顔を見合わせ、駿川はやや意味深に微笑んだ。

 そして三人が頷いてから、シンボリルドルフが言葉を紡ぐ。

 

「それで、一つ言わなければならない」

 

 底冷えするように、空気が張り詰めた。

 

「――申し訳なく思うが、桐野君の、キミの過去の話を調べさせてもらった」

 

「は」

 

 気をつけたつもりではあったが、思ったよりも低い声が口から漏れた。

 桐野は自分がどういう表情を浮かべているかを想像できなかった。胸の奥で、冷たいものと熱いものが同時に膨れ上がる。

 静かな苛立ちが、神経を過敏に研ぎ澄ませる。皮膚の下を、ジリジリと焦燥が這い上がってくるようだった。

 大したことではない、そう。怒るようなことでもない。そもそもこの眼の前に居る駿川と理事長にはそういったデータは知られているのだ。

 霧原や彼女たちには――できれば、自分の口から語りたかった。それだけのことだ。

 

「……そうでしたか」

 

 そこまで思考を割いてから。深呼吸はしなかったが、一度息を溜めて細く吐いた。そうしてようやく言葉を口にすることができた。

 いずれこの人たちにも伝わる日が来るだろう。ここで苛立ってみせたところで、どうにもならないことだ。ここに居る誰も原因ではないし、誰も悪くない。いや、ほんとうの意味では誰も悪くないということなかったが、はそれは()()だったのだから。

 できれば胸の奥にしまっておきたかったし、知られるとしても自分から言い出せたほうが良かったと桐野は思う。

 

「それに関しては、いずれは知られることではあるので、気にしていません」

 

 諦めにも似た言葉を口にした瞬間、胸の奥でわずかに熱が引いていくのを感じた。

 胸の奥で、遠い日の光景がかすかに瞬いた気がした。血と雨の匂い、アスファルトの冷たさ、誰かの叫ぶ声――。足の奥に、もうないはずの痛みが一瞬だけ蘇る。

 

「――!?」

 

 殺気にもにた威嚇のようなものが――噴き出してしまう。抑えるつもり以前に、桐野にはそんなつもりはなかった。

 霧原は何が起きたのかよくわからないという驚きの表情でよろめいてソファーに座っていた。

 駿川とシンボリルドルフは、少し驚いた表情をしていたが、それでも平静を保っていた。

 

「できれば、自分の口から語る日まで、この胸の奥に閉まっておきたかったところですね」

 

 ようやく、自身を落ち着けて笑顔を浮かべる。

 それでもまだ生徒会室の空気が、目に見えない緊張で満ちていた。

 

「……勿論、他に漏らすつもりもないし、知っているのは理事長一部の役員とたづなさん……そしてルドルフと僕だけだ」

 

 若干血の気の引いた霧原が静かにそう付け加えた。

 

 生徒会室の空気は、しばらくの間、まるで時間が止まったかのようだった。

 誰も動かず、誰も言葉を発さない。時計の針が刻む音だけがやけに大きく響く。

 胸の奥で熱と冷たさがせめぎ合い、心拍だけが耳に届く。

 何かを答えなければならないと分かっていながら、ほんの数秒が永遠のように感じられた。

 

「桐野君」

 

 その静まり返った状況を破ったのはシンボリルドルフだった。よく通る声。

 

「言い訳のようになってしまうが、私たちは、君に疑念があったわけじゃないんだ。……約束しただろう? 喫茶店への招待の話を。それで……そういう情報に行き着いてしまった」

「まあ、そうなりますよね」

「あれだけの事故だ。――すぐに出てきたよ。罪悪感はあったが、君を知るためにもその背景を知る為に確認する必要があった。他のウマ娘たちが調べているがわからないが、そういう気質ではないだろう」

「わかっています。必要なことですから」

 

 素直に頷く。心の奥に小さな棘は残るがそれ以上は不要の産物だ。

 インターネットというものはそういうものだ。ちょっと調べればそれなりの情報が手に入る。

 『中学生の十種競技の選手が移動中に交通事故に巻き込まれ、死傷者が多数出た』というちょっとした悲劇。ショッキングなニュースとして取り上げられた。

 当時はマスコミや報道関係者が桐野の周辺で色々騒いでいたが、周りの大人や兄がそれから守ってくれた。

 一年がすぎる前にはそういった話も自然と鎮火していった。六年前の痕跡がそれでも残っていた。桐野はただ少しだけ文明の利器を少しだけ恨んだ。

 

「私たちが憶測するべきことではないと理解しているが、それで言わなければならない。

 それが理由で今のような性格をしているというのであれば、それは歪と言わなければならないと」

「……オレやオレの兄妹はもうそのことは乗り越えています。過剰に同情されるのはむしろ辛いです」

 

 これは嘘偽りない事実だ。と桐野は訴える。

 

「妹はその時はまだ八歳でした。なので、触れないで頂けるのが一番ありがたいです」

 

 頭を下げ、それから深呼吸した。

 

「十種競技の事についても、中学で終わりにして、それからはトレーナーになりたいと思っていた。悔いが全く残らなかったとは言いませんが、納得はしています」

 

 これ以上は何も言わないでくれ。という言外の威圧。

 諦めてか、納得してか。どちらかはわからなかったが吐息が聞こえた。

 

「……無粋にも君の触れられたくない所に触れてしまったこと、謝罪する」

 

 シンボリルドルフが悲しげに目を細めて、頭を下げようとする。

 

「それは置いておいてだよ。やっぱり晴君は少しウマ娘に肩入れしすぎている。

 守りたい気持ちもわかるし、僕も同じことをしてしまうかもしれない……だけど」

 

 やや食い気味に霧原は桐野のその様子を見て、そのまま何かを言おうとしたが言葉が淀む。それに続くように駿川が言う。

 

「過剰に守られるほどウマ娘は弱くありませんよ? 桐野さん。

 もっと、信用してあげてください。そのほうがもっと歩み寄れますよ?」

 

 わかっている。例えば体を制御できたとして、心まで完全には制御できないのだ。

 最終的に落ち着くのはまだまだ未熟であるという結果だ。自分がウマ娘を信用していないと取られかねないという事実。もっとおおらかであって自然な関係性を駿川が求めていることがわかる。

 

「はい。それに関しては、本当に反省しています」

 

 その回答に霧原は息を吐き、駿川は静かに頷く。

 

「桐野君。ウマ娘を思うその気持ちは尊いが、行動には軽重緩急が必要だ。

 全力で守る場面もあれば、一歩引いて見守る場面もある。その見極めこそが、トレーナーとして必要な資質の一つだよ」

 

 静かにシンボリルドルフが、穏やかな声で告げる。

 

「晴君。晴君自身が潰れてしまってはいけない。バランスを覚える必要があるよ。君のようなトレーナーが必要なウマ娘がきっと現れる」

 

 叱責ではない。道を示す言葉だ。

 桐野は目を閉じ、霧原の言葉を胸の中に染み込ませるように沈ませていく。

 理解できる。頭では、すぐにでも頷けるはずだ。けれど心の奥の何かは、まだ頷く準備ができていなかった。

 申し訳無さと、軽率だったことへの悔しさの様なものが綯い交ぜになって心を縛り付けている。

 

「さて、言いたいことは以上だ」

 

 ルドルフが手を打ち、空気を切り替えるように言った。

 

「このあと、模擬レースがもう一戦ある。君も見ていくといい。……皇帝、シンボリルドルフの走りをね」

「え……?」

 

 思わず聞き返すと、ルドルフは口元だけで笑う。

 

「生徒会長としての務めはここまでとして、ウマ娘としての務めは別だ。

 今日の私は、後者として走る。……目に焼き付けておくといい」

 

「……わかりました」

 

 その言葉を聞いた瞬間、桐野の胸の奥に残っていた棘が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。

 それでもまだ、心の奥底は波立っている。そういう事を乗り越えていかなければならない。

 

 退出の挨拶を済ませ、廊下に出る。

 

 生徒会室を出た瞬間、廊下の空気がやけに冷たく感じられた。

 窓の外は、まだ明るい陽の光が目に付く。遠くで喧騒と、ウマ娘の蹄音が変わらず響いている。

 その声や蹄音はさっきまでよりも遠く、そして少しだけ眩しく感じられた。

 胸の奥に残ったざらつきは消えないが、前に進むためには、これも抱えていくしかない――桐野はそう思った。 

 

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