あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。 作:七篠トレーナー
胸の奥に沈んだざらつきは、歩みを進めてもすぐには消えない。
気持ちを切り替えたいと思いながらも、心はまだ重いままだった。
外からは、一定のリズムを刻む蹄音がかすかに届く。グラウンドで模擬レースの準備が進んでいるのだろう。
校舎を抜けると、午後の陽射しが一面の芝を明るく照らしていた。
光はまだ白く、夕暮れには程遠い。影は短く、風が少し肌を撫でる程度だ。
両手で軽く顔を叩く。切り替えていこうという気持ちを形にする。
自然と足は観客席へ向かう。ここに座るのは、ほんの少し前まで面接のような緊張に押し潰されていた自分とは別の自分のようだった。
胸の奥に残る重みを感じながらも、心は次第に蹄音へと引き寄せられていく。
トレセン学園関係者用の観客席に腰を下ろすと、これからパドックが始まる様子だった。
一般的な競バのメインレースと同じく。今は15時半前。
芝の匂い、蹄が地面を叩く低い音、観客たちのささやきが風に混じる。
芝の上に落ちる影は短く、光に縁取られた耳や尻尾が小さく揺れている。
思わず息を呑む。――この時間帯のターフは、どうしてこんなにも美しいのだろう。
自分が走っていたのはターフではなくタータントラックだった。
緑ではなく、オレンジに近い赤が主流。そんな事をなんとなく思い起こさせた。
ウマ娘が並び立って歩いてくる。その先頭、一際強い存在感を放つ姿があった。
皇帝、シンボリルドルフ。
その走りを見るために集まった数は用意された観客席では足りず、ぎゅうぎゅう詰めになっている。
観客席にいた者たちの視線を、自然とひとりでさらってしまう。
その立ち姿は、先ほど生徒会室で見た会長としての彼女とはまるで別人のようだった。
威厳があるのに、重さを感じさせない。芝の上に立つだけで、空気が変わる。
彼女の存在を目にした瞬間、胸の奥に絡みついていた黒い重苦しさが、
ゆっくりと、別の感情に溶けていくのを桐野は感じた。
生徒会長としての姿ではなく、ただひとりのウマ娘として、そこに立っている。
先ほどまで胸の奥に絡みついていた重苦しさが、ゆっくりと別の感情に溶けていくのを桐野は感じた。
そして彼女こそ霧原が育てた一人目の担当バ。その成果。
「よっ」
白椿が後ろから手を上げたまま声をかけてきた。隣には柚木もいる。
「いや、いい席取れてるな」
霧原の隣に腰掛け、柚木も続く。二人の視線もターフに向けられている。
関係者席なので他では中々取れないいい席だ。胸元のバッジに感謝の気持が浮かぶ。
「見回りは免除されましたよ。あんな事あったからおれと椿さんもね」
桐野が気になっていた事を先に柚木が言った。
掻い摘んで言うと、ちょっとした問題児扱いになっていたようだ。
自重聴取が澄んで、晴れて見回りの役目は解任となったらしい。
「ま、気にすんな。悪いことをしたわけじゃねえんだし」
と、白椿が腕を組んで、ふん。と鼻で笑った。
その言葉に若干救われた気分でパドックを見る。既にシンボリルドルフは控えに回っている。
次に出てきたのはマルゼンスキー。ドリームトロフィーでも人気のウマ娘だ。
ゆるい雰囲気だが、包容力があるタイプの見た目、そしてその走りに魅了される人は多い。
「シンボリルドルフはちゃんと見えなかったけど、マルゼンスキー。……うーん。いいよなあ」
歩く事に揺れる尻尾、メリハリの付いたスタイルの良い体。
意外とああいうのがタイプなのか、白椿の顔がだらしなく笑みが浮かぶ。
「わかりますー。年下なのにお姉さんみたいな感じでいいですよね」
サクラバクシンオーの時も似たような反応をしていた柚木に、ストライクゾーン広いタイプなのかと、視線を向けた。
「コース脇で見ているより落ち着いて見られていいですね」
こちらは極めて真面目な顔をしていた。
良くも悪くも色香を振りまくようにしていたマルゼンスキーが折り返し、何人かのウマ娘が通り過ぎる。
「どのウマ娘も重賞クラス以上。下手なってことは無いが、G1にも引けを取らないレースだな」
マルゼンスキーを見送り表情も戻った白椿がパドックでアピールしているウマ娘を眺めている。
「ただ、本気ではあるけど全力は見れなさそうですね」
あくまで模擬レース。そのために今日のために仕上げてきているウマ娘は居ない。
それぞれが「十全の力を出す」という言葉にも段階がある。
「絶好調。って感じのウマ娘はいませんね」
柚木がウマ娘を目で追いながら続ける。
本気を出すのが能力の上限いっぱいだとして、全力というのはいわゆる「調子」と呼ばれるものだ。
絶不調、不調、通常、好調、絶好調。と段階分けされて呼ばれる事が多い。それぞれがイメージ的に能力と調子で計算される。調子が悪ければ本気を出しても能力の7割程度ぐらいまでしか出せない。といったものだ。
生物としてバイオリズムがあるため、ウマ娘たちは長い時間を掛けてレースに合わせて適正のタイミングを作り出す。
「まあ、それでも相応に走るからこそG1ウマ娘ではある」
そこから、バ場状態や天候、コースの形状、他のウマ娘がどういう手合いかによって変わってくる。
周囲に圧がかけたり、周囲から圧をかけられたり、人間から見てわからない部分での精神的な妨害など条件は様々だ。
その中で抜きん出て一着を取るというのはやはり偉業という他ない。
G1というのはトップオブトップ。2000人弱いると言われるトレセン学園生の一握りしか手にすることのない称号。
「お、タマモクロスじゃん」
白椿が乗り出す。桐野の目が細く絞られる。
ターフの上でも映える芦毛い毛並みが陽光を反射し、観客席から小さなざわめきが起こる。
他のウマ娘に比べてひときわ小さい。だが実力は折り紙付きだ。
「タマモクロス。オグリキャップがライバルのウマ娘ですね」
柚木が桐野を見て言う。チーム<アルファルド>に所属しているオグリキャップを桐野を通して見ている。
本人は今回は走らなかったらしい。他の業務に割り振られていた。
どちらにしてもチームメンバーが同じレースに配置される事はないらしく、シンボリルドルフが居る以上、でたとしても別レースだっただろう。
タマモクロスはオグリキャップを秋の天皇賞で下していて、ジャパンカップでも順位は一着ではなかったが上だった。
有マ記念ではオグリキャップが勝って、やや負け越し。贔屓目に言えばジャパンカップは制覇してないので引き分け……というのは少し苦しいか。
「また二人が並走しているのを見たいね」
柚木がメガネを直すように触れて目を細める。声は抑えているのに、期待が滲んでいた。
有マ記念を最後にタマモクロスもドリームトロフィーに移籍したため、もし二人が戦うならオグリキャップがドリームトロフィーに行ってからだろう。
そして、それを望む声は多い。もう少し早くシンボリルドルフがドリームトロフィーに移籍していたら現役最強の名は彼女のものだったと言われる。
「この距離感でも伝わってくるな。ピリッとした感じ」
桐野は思わず呟く。
同じパドックを歩いているだけなのに、タマモクロスの存在は自然と視線をさらっていく。
ただ立っているだけで、競うために生まれた者たちだとわかる。そんな気迫を纏っていた。
「ほら、耳も尻尾も無駄に揺れねえ。集中してる証拠だな」
白椿が腕を組んで頷く。
「こういうの見るとさ、やっぱトレーナーやっててよかったって思うわ」
「わかります。……次は、ナイスネイチャをあのステージに立たせてやりたいですね」
少しだけ羨ましそうに桐野は二人を横目に見ていた。
滞りなくパドックが済んで、返し馬が始まった。
各ウマ娘がコースへ向かい、芝を確かめるようにゆったりと駆ける。蹄が芝を踏む低い音が、一定のリズムで耳に届く。風が動き、耳と尾がかすかに揺れた。
「シンボリルドルフ、マルゼンスキーやっぱり姿勢が綺麗だな……」
白椿が思わず感嘆する。
背筋がまっすぐで、力みがない。皇帝の名にふさわしい貫禄は、全身から自然に滲み出ていた。
マルゼンスキーと一言二言話していて、その後に握手をしていた。「いい勝負にしよう」と言ったところだろうかと桐野は思った。
「体幹の安定が段違いですね。……脚の捌きも無駄がない」
柚木がじっと視線を向け、専門的な視線でつぶやく。
模擬レースとはいえ、見る人が見ればその格の違いが分かるのだ。
タマモクロスが続く。芦毛の毛並みが陽光を反射し、白銀に輝く。小柄な体躯が弾むように進み、鋭く地面を蹴るたびに観客から小さな歓声が漏れた。
返し馬でさえ彼女の走りは華があった。ファンサービスも忘れない。両手を大きく振って、なにか言ってるようだ。声はここまで届かないが、それに反応するように大きな歓声が響く。
時間が来た。
ウマ娘たちが指定の順番どおりにゲートに入っていく。
「いよいよですね」
柚木が小さく息を呑む。
「模擬レースとはいえ、このメンツでのレースは相当見応えありそうだな」
白椿も前のめりになってターフを見つめる。
『エキシビジョンマッチ。芝2000m。コンディションは良。ウマ娘たちがゲートインしていきます」
「2000mだと、シンボリルドルフがやや有利か。マルゼンスキーには少し長めだし、タマモクロスには少し短いぐらいのイメージだ」
『今――スタートしました!』
ガコン。 というゲートが開く音。桐野はこの音が好きだった。
ドン! と一斉に芝を蹴る音が響き、芝を弾き飛ばして空気が割れる。
『少しばらついたスタートになりました! 飛び出したのはコバルトシンフォニー!
そのすぐ外にマルゼンスキー! その次タマモクロスは好位に控えます』
実況を聞きながらターフを眺める。先頭を走るのは青毛のウマ娘。
そのすぐ横にマルゼンスキーが並走している。
「逃げ馬は迫力あるよなー。結構好きだわ」
白椿が両手を握り込む。
『やや先行気味、三番手はスカーレットワルツ――タマモクロスは四番手につけた! シンボリルドルフは中団からのスタートです』
やや縦長。数人のウマ娘が先行し、その先頭には栗毛のポニーテールと芦毛が交互に揺れているのが見える。
彼女たちが先頭集団を形成していた。そこから一バ身程開いて中団。そこにシンボリルドルフは控えていた。
(ルドルフくんは落ち着いている。視野が広いのか。周囲に圧をかけてる)
『前半はややスローな展開 コバルトシンフォニーが逃げて、マルゼンスキーが2番手!
その後ろに入れ替わってタマモクロス、そしてスカーレットワルツ!』
レースはスローな展開で進む。観客席の熱気がじわじわと高まるのを肌で感じた。
誰が最初に仕掛けるのか、どこが起点になるのか。この場の全ての視線が集まっている。
第3コーナーに差し掛かった瞬間、マルゼンスキーが外に持ち出して加速。
『逃げるコバルトシンフォニーをかわし、マルゼンスキーが先頭に立つ! おおっと! さらにその外タマモクロスがぐんと伸びてくる!』
白い稲妻の名をほしいがまま。小柄な体をしならせ、風を切るその姿は獣じみた迫力すらあった。
その気迫は本当に周辺に稲妻が散っているようにすら見える。
『さらに、シンボリルドルフがここで動いた! すごい伸びだ! 二人三人と追い越していく!』
まもなく直線。まるで静かに流れる水が、急に滝となって落ちるような勢いですべてのウマ娘が動き出す。その中でもシンボリルドルフは更に速い。
フォームは微塵も乱れず、ただ力強く、優雅に前を食らう。既にスカーレットワルツを抜き去っていた。
「うわっ速い……!?」
白椿が思わず目を開く。
『更に伸びて既に先頭は射程ないか!? いや、タマモクロスが加速する!!』
――その瞬間、桐野はバチリ。と
『マルゼンスキーと並んで――そのまま抜き去っていく!』
不可視の光のようなものが、タマモクロスとシンボリルドルフに繋がっていく様な光景。
瞬きするまもなくそれが繋がった瞬間に、世界に入ったヒビが弾け飛んだ。
「――!?」
――その瞬間、桐野の視界に、言いようのない異変が走った。
思わず飛んでくる破片のようなものに一瞬顔を背けてしまい、それが触れても何もなかったことに気づく。
白椿と柚木を見るが、何にも気付いていないかの様子だった。
(今の、は……?)
目を瞬かせたときには、何もなかったかのように世界は元通り。
すぐに視線を戻す。息を呑み、もはやシンボリルドルフの姿しか目に入らない。
『残り100m! シンボリルドルフ! シンボリルドルフがタマモクロスに並ぶ!』
「フォームがまったく乱れないどころか、まだ加速してる。これが皇帝――」
柚木の声は小さく震えていた。
タマモクロスが白い稲妻のように弾け、芝の上に影が伸びる。
その横を、黒い皇帝が一歩、また一歩と迫り――やがて並んだ。
『タマモクロスも置き去りにシンボリルドルフ! やはり皇帝はここにいる!!』
横並びになったのは一瞬だ。シンボリルドルフの背にタマモクロスは必死に食らいつくが、距離はじわりと開く。既に一バ身先行している。
マルゼンスキーは3着争いに回り、後続はもう勝負圏外だ。
『シンドリルドルフが一着でゴール!! 二着はタマモクロス、三着はマルゼンスキー。四着争いはスカーレットワルツがやや優勢か!?』
大きな歓声にハッと我に返る。
桐野は思わず胸元を握りしめていた。呼吸を忘れていたらしく、深呼吸をする。
改めて、先程飛んできた破片のようなものが触れた頬に触れる。
王者は唯一人そこに立つ。
芝を駆け抜けていく蹄音が耳から離れない。
これがウマ娘。これがレース。強い熱が体を駆け巡っていく。
掲示板には、一着と二着の差は二バ身半と表示されていた。
その数字以上に、シンボリルドルフの存在感は圧倒的だった。
芝を駆け抜ける蹄音が、まだ耳から離れない。
胸の奥に沈んでいた黒いざらつきが、さっきよりもはるかに薄れているのを桐野は感じた。
完全に消えたわけではない。けれど、必要な熱が、望むことに必要な確かなそれが胸の奥に灯っていた。
「はぁ……すげえな」
白椿が、頭をかきながら笑った。
柚木は無言で眼鏡を押し上げ、視線をターフから外せずにいる。
その横顔を見て、桐野も自然と口角が上がるのを感じた。
(――オレも、あのターフに、ウマ娘を立たせたい)
その思いが、はっきりと胸に芽生える。
黒い重みの代わりに、熱と悔しさと憧れが混じった感情が、心の奥で静かに燃え始めていた。
ウイニングランを終えたシンボリルドルフが、ゆったりと観客席へ向かって手を挙げる。
その動作ひとつで、空気が変わる。圧倒的な王者の存在感――ただそこに立つだけで、誰もが目を奪われる。
「……甘く見たつもりはまったく。これっぽっちもなかったがやっぱり、皇帝だな」
呟きは、歓声の中に吸い込まれていった。
模擬レース終了後、関係者席の通路を歩きながら、桐野は白椿と柚木の言葉を聞いていた。
白椿は興奮したまま、レース中の展開を何度も語り直している。
柚木は頷きつつも、「やっぱり、うちの子をあそこに立たせたい」と小さくこぼした。
「……オレも、そう思うよ」
自然と零れた言葉に、二人は同時に笑った。
黒い重みはまだ残っている。それでも――前を向ける気がした。
それと同時に、あの世界が割れる様な感覚は何だったのか、ターフを眺めていた。