あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。 作:七篠トレーナー
模擬レースが終わり、観客席を後にした。
耳に残るのは、まだ芝を駆け抜ける蹄の音と、観客の歓声の余韻だ。
胸の奥に沈んでいた重苦しさは、あのレースを見たことでだいぶ和らいでいる。
完全に消えたわけじゃない。けれど、今はそれで十分だった。
代わりに、熱と悔しさと憧れが混じった何かが、心の奥で静かに燃えている。
感謝祭の、閉幕が告げられて、その片付けなどが始まっていた。
こちらも毎年やっているだけあって、テキパキと作業が勧められた。
白椿が最後に念の為に……。と言ってグッズ売り場を見たが、やはり
直接やることがなくどうするかと、雑談しながら三人で歩いていた。
(……やっぱり、オレもあのターフに立たせたい)
そう思うと、自然と口元がゆるむ。
今の気持ちをこのまま終わらせるのは惜しい。チームの皆にも、今の熱を伝えたかった。
その前に、先程の謎の現象のようなものについて二人の見解を聞こうと思った。
もしかしたら、彼ら二人にしてみれば当然そういうものであるから気にした様子がなかったのかもしれない。と。
「やほー。トレーナーさん」
声を掛けようと思うとその前に声がした。振り向くと、ナイスネイチャが立っていた。
模擬レースを見ていたらしいが、桐野と白椿を見てやや緊張したのか、柚木の後ろに隠れている。
「ネイチャちゃんもお疲れ様。こっちがテイオーのトレーナーの椿、こっちが霧原トレーナーのところのサブトレーナーの晴」
紹介されて二人は頭を下げる。
「あー。テイオーの」
流石に意識してしまいます。と言った感じでちょっと居心地悪そうに視線を逸らすネイチャ。
「そうでーす。気軽に椿って呼んでくれ」
白椿はナンパみたいなノリで柚木と桐野の肩を抱き、背の高い三人組にネイチャがさらに引いた。
「智也とは仲良くさせてもらってる。だからネイチャくんも仲良くしてくれるとありがたい」
桐野が困ったように笑って言う。
「オレはまだサブトレーナーだから直接的にライバルになることはないけど」
そこで思い至った。
「月末のこの日の休み、二人は空いてる? あとネイチャくんとテイオーくんも」
唐突な言葉に白椿と柚木、ナイスネイチャの三人は顔を見合わせた。
スマホでカレンダーを開いてその日を指さした。
「どうした急に? ……ま、空いてるけど?」
「おれも空いてるよ。ネイチャちゃんはどうだっけ?」
「え、えっと。アタシも特に予定ないですけど」
やや不安気味な様子のナイスネイチャをみて続ける。
「じゃあさ、ちょっといい感じの喫茶店いかね? 学園から車で30分ぐらいのところにいい店あるんだよね。
ちょっと落ち着ける感じだから、悪くない場所だし、帰りも車なくても電車一本だし」
ちょっといい感じのとか言っているが、実家の喫茶店「風月」のことだ。
口にしてみるとなんとも恥ずかしい感じになってしまった。
「ウチのチームも招待してるんだけど、一緒にどう?」
三人は顔を見合わせたあと、白椿が笑った。
「へぇ、面白そうじゃん。いいよ、行く行く」
「え……霧原トレーナーって<アルファルド>だよね……」
流石に有名なウマ娘が多い場だと萎縮してしまうか……。と桐野が思っていたら。
「おれも楽しみだな。ネイチャちゃんも、ね?」
「……う、うん。じゃあお邪魔します」
柚木が諭すような感じで誘導する。既に信頼関係ができ始めている感じのようだ。
予定の休日。
トレセン学園からワゴン車と普通車を一台ずつ借りた。
チーム<アルファルド>はワゴンで、白椿と柚木。その担当二人はセダンを使って移動することに。
「車借りるの楽でいいですねえ。オレ車買うかバイク買うか迷ってんですよね」
運転するのは桐野。助手席に誰が乗るか揉めたが、最終的に霧原が座ることで落ち着いた。
あとはトウカイテイオーがこちらに乗りたい――シンボリルドルフの隣に座りたいと言って駄々をこねたが、その代わりにこちらのウマ娘が向こうに乗ることになるのだから、ほとんど話したこと無いから気まずいだろうと白椿がなんとか言い聞かせてくれた。
後ろにいるウマ娘たちは全員私服。普段は制服、ジャージ、レースの時の体操服ぐらいしか見ないから新鮮だった。それぞれが好みの服なのだろう。中々に可愛い服装だ。後ろの二人、シンボリルドルフとシリウスシンボリも威圧感を出してなければ出歩いても気付かないだろう。
「レースごとに移動するのも大変だからなあ。でも僕はあれだよ。
中型免許まであるから中型バスまで乗れるから合宿の時はそれで楽できるよ」
「おーわざわざ取ったんですか。オレも取っておこうかなあ。
なんか昔は普通車とれば中型まで乗れたらしいっすよね。うらやま」
そんなに混んでいない道路をゆったりと進んでいる。
「晴君はなんでバイク買おうと思ってるの?」
「いや、原付きだとウマ娘と並走するには遅すぎるから、バイクのほうが良いかなって」
「たしかに……。車よりいいかもね。ただあんまりうるさくないのを選ばないとだね」
爆音を慣らす大型バイクも気にはなるが、それは買うとしても趣味で済ませておこう。
「事後承諾にはなっちゃいましたけど、他の人も呼んでしまってすみません」
「いいよいいよ。トレーナーの交流も大事だし、ミーティングとかじゃないんだから居合わせたって問題ないさ」
他愛のない会話をしていると、すぐに近くにまでくる。
入口で一度降りてもらって、追従していた車も止まるのを確認する。
白椿が運転していたらしく、駐車場が裏にある事を告げて誘導してこちらも止める。
「じゃあ、改めていらっしゃいませ。喫茶「風月」にようこそ」
木の扉に下げられた「貸し切り」の札をくぐると、ほのかなコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
中はアンティークの調度と真鍮のランプ、歯車を模した飾り棚が並ぶスチームパンク風の喫茶店。壁際には古い気圧計や、パイプを組み合わせた小さなオブジェが飾られている。
高い天井の梁には真鍮のシーリングファンが吊られ、昼下がりの陽光を受けて柔らかく反射していた。
棚の上には手回しのコーヒーミルや、ぜんまい仕掛けの小さな置き時計が静かに佇んでいる。
最初に踏み出したシンボリルドルフは一歩店内に足を踏み入れ、ゆっくりと店内を見回した。
「……閑雅幽趣。落ち着きと遊び心を兼ね備えているな。晴君、良い店だね」
「おお……ほんとだ。なにこれ、めっちゃオシャンじゃん」
白椿が思わず声を上げた。トウカイテイオーも同じく、キラキラした目で店内を見回す。
「なんか映画の中みたい……! ボク、こういうとこ初めて来た~!」
「良いだろ。オレと兄貴の趣味で改装したんだよね。ま、とりあえず好きな席にどうぞ。今日は貸し切りだからね」
褒められて満足気な桐野。
私服姿のトウカイテイオーはくるりと一回転して店内を見渡した。
「よく作られていますわ。こういうって中々お目にかかれませんわね」
パイプに触れて、その行先を目で追いかけるメジロマックイーン。
オグリキャップは特に琴線に触れた様子もなく、広めのテーブル席へとメジロマックイーンと移動し始めた。
「すごく落ち着いた雰囲気ですね」
ナイスネイチャは少し緊張したように真鍮で縁取られた椅子の背に手をかけ、恐る恐る腰を下ろした。
シンボリルドルフとシリウスシンボリは、店の奥の、こちらもまた全体的な部分を黒革でおおってあり、縁が真鍮で装飾されているソファーに腰掛ける。その姿だけで絵になる。
まずは挨拶を済ませるために霧原がカウンターへ歩いていく。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から現れたのは、落ち着いた雰囲気の青年だった。
白シャツに黒のベスト、磨かれた銀縁メガネ――桐野の兄、桐野怜である。
続いて顔を出したのは、ふわりとしたフリルエプロンを着けた妹の恵。
両手にトレイを抱えたまま、霧原を見てぴたりと動きが止まる。
「兄の
桐野が軽く頭を下げると、怜と恵も穏やかに微笑んだ。
「晴が頑張ってると聞いてます。今日は是非ともゆっくりしていってください」
「こちらこそ晴君のお陰で助かっています」
霧原が軽く頭を下げた。
「お兄ちゃん、飲み物はどうする?」
霧原の後ろに続いて入ってくるウマ娘の姿を見るように恵が顔を出した。
「わぁ! かわいらしい」
「よく……似合っている」
思わず声を上げたのはメジロマックイーンだ。隣でオグリキャップも小さく頷いている。
「え、えへへ……ありがとうございますっ!」
恵は少し照れながら、メニューを配っていく。
その声は元気いっぱいだったが、視線がシリウスシンボリに触れた瞬間、ぴたりと固まった。
(……し、シリウスシンボリ……! 本物……!?)
瞳が吸い寄せられるようにシリウスシンボリに釘付けになる。
手に持ったメニューが小刻みに震えている。兄の桐野がちらりと振り返る。
「恵ちゃん大丈夫か?」
「えっ!? あ、あのっ、ぜ、全然大丈夫ですっ!」
上ずった声の恵が慌てて首を振る姿に、白椿とトウカイテイオーがクスクス笑った。
シンボリルドルフは目を細め、面白げにシリウスシンボリを見ていた。
「……無理はしなくていい」
低い声でシリウスシンボリが言うと、恵はさらに真っ赤になって「は、はいぃ……!」消え入る声を残しながら裏へ引っ込んでしまった。
兄らしく晴と怜は微笑ましく妹の様子を見ていた。
「あはは……妹さん、完全にシリウスくんのファンガだねえ」
「まあ、俺たちから見ても『カッコいい側』って感じだもんな」
柚木がうんうん。と頷きながら言うと白椿も同意するように頷いた。
「ラテアートできますよっ!! 練習しました!」
奥の方から恵の声が聞こえてくる。
「ラテアート……! テイオー、絶対やるでしょ」
白椿がニヤリと振ると、テイオーはキラキラした目で頷く。
「やるやる! ハートとかネコとか描いてほしい~! カイチョーは?」
トウカイテイオーがシンボリルドルフのところまでメニュー表を持ってくれば一緒に眺めようと広げて見せる。なんというか二人の関係は親戚の妹分の面倒を見ているような感じだ。
その様子を怜が微笑ましそうに眺めていた。
「私はいいよ。ふふ。恵君のおすすめを頂こうかな」
「じゃあ、アタシは……かわいいやつで……」
ナイスネイチャは視線を逸らしつつ、恥ずかしそうにオーダー。
「ふふ、ネイチャちゃんはこういう所だと控えめになるんだね」
「こういう、オシャレっていうの、なんかキラキラしてるし……」
もじもじとした様子に柚木が目を細めて笑う。
ナイスネイチャからするとアウェーのような気分なのだろう。
「……私はブレンドでいい」
一通り目を通したのかシリウスシンボリは無表情でメニューを閉じる。
「チーズケーキとガトーショコラ、どっちにする?」
恵が差し出したメニューを見て、トウカイテイオーとオグリキャップが同時に叫んだ。
「チーズケーキ!」
「全部……」
オグリキャップが言いかけて、メジロマックイーンに肘で小突かれる。
どちらが歳上なのやら。と白椿がツッコんでいた。
「もう。どちらかになさいな」
「……ああ」
露骨にシュンとするオグリキャップの様子に笑いが広がり、空気が少し緩む。
白椿が椅子にどっかり座りながら言った。
「いやー、こういうとこでチームの皆で集まるの、いいよな」
「わかります。普段は学園の寮とグラウンドばかりですからね」
「オレたちはチームになった覚えはないけどな?」
柚木が店内をゆっくり見回した。
「……ねえ、なんかこのランプ、蒸気出てるけど大丈夫?」
トウカイテイオーが指差した先では、細い煙が立ちのぼる小型の装置がある。
油圧計の様なメモリが付いているのが気になって視線を左右に動かしそれと一緒にポニーテールが揺れていた。
「あ、それは飾りです~。と中でアロマ焚いてるんです」
恵がぴょこっと説明して、テイオーは「おお~!」と目を輝かせた。
「アタシ、こういう落ち着いた場所で勉強したいな……」
ナイスネイチャがぽそっと呟くと、聞いていた白椿が口を開く。
「じゃあ今度からここでミーティングする?」
「えっ、ちょ、やめてよ……!」
「良いんじゃない? ここ立地良いけど客足がなあ。もうちょっとなにかあればいいんだけど」
桐野は兄の怜を見て苦笑する。
「……閑古鳥が鳴いてるよ。あんまりバズるタイプの店じゃないのかなあ」
一応それなりに広告は打ってるんだけどね。常連がほとんどだと怜は呟く。
桐野家の、喫茶店『風月』の課題の一つだった。生活に困っては居ないが、続いてる店なので新しい客が来てほしいというのも本心だ。実際ちょっと
店の中はゆっくりと、でも確実ににぎやかになっていった。
コーヒーの香りと笑い声が混ざり、スチームパンクの店内はまるで時間が止まったような居心地の良さを放つ。
「……ここ、ほんとに落ち着くな」
白椿はソファが気に入ったらしくどかっと腰を下ろし、カップを片手に天井を仰ぐ。
「うん、静かだけど雰囲気があっていいな。こういう所で作戦会議も本当に悪くないかも」
柚木が頷きながら、カップを口に運ぶ。
「会議っていうより……うちのチームがここで集まったら、普通に寛いじゃいそうだな実家だし」
桐野が笑いながら言うと、霧原も小さく肩をすくめた。
「君たち、今日は仕事ないけど、気を緩めすぎないようにね」
「へいへい、わかってますよ、霧原トレーナー」
白椿は軽く手を振って返した。
言っている割に、霧原もだいぶ寛いでいる様子だ。
そこへ、妹の恵がラテアートを乗せたトレイを抱えてやってくる。
表情は必死に落ち着こうとしているが、視線がついシリウスシンボリに吸い寄せられてしまう。
「お待たせしましたー! ラテアートとケーキでーす……!」
彼女の声は裏返りそうになっているし、手がわずかに震えているのを見て、桐野が小声で言った。
「恵、落ち着けって。大丈夫だから」
「は、はい……っ」
ラテを受け取ったトウカイテイオーが、目を輝かせた。
「わっ、見て! ボクの、ハートマークだよ!」
「おれのは歯車だ。店の雰囲気に合ってるね。というかほんとに上手」
柚木が感心しながらカップを回し、スマホを取り出して写真を撮ろうとしている。
「……私のは、犬か?」
シリウスシンボリの低い声に、恵は真っ赤になって勢いよく頭を下げた。
「は、はいっ! し、シリウスさんには絶対犬かなって思って……!」
シンボリルドルフのコーヒーを起きながら言った思わぬ告白に、テーブルの空気が一瞬止まる。
次の瞬間、白椿が吹き出した。
「ははっ! やるじゃん妹ちゃん!」
「お、お前笑うなよ……!」
桐野が小声で制するが、本人も笑いを堪えきれずにいる。
「恵君、落ち着くといい。君の仕事は立派だ」
シンボリルドルフの低く穏やかな声に、恵はハッとして姿勢を正した。
シリウスシンボリは無言でカップを見下ろし、ゆっくりと口元を緩めた。
「……悪くない」
その言葉に、恵は耳まで赤く染めて、嬉しそうにカウンターへ引っ込んでいった。
「ふふ……妹さん、本当にシリウスのファンだね。あそこまでの様子だとこっちも嬉しくなるよ」
霧原が小さく笑うと、桐野は肩をすくめた。
そもそも競争ウマ娘となると、ファンとの交流も仕事の一つ。こういった形のファンサービスはお手の物。という様子だった。後で感謝の一言でも伝えようと考えた。
「昔からクールなタイプが好きなんだよな、あいつ」
「まあ、わかるけどなー」
白椿はニヤリと笑いながら、フォークでガトーショコラをすくった。
「このブレンド……香りが豊かで、後味が軽やかだ。飲みやすくて良いね」
ルドルフの言葉に、カウンターの恵が思わずガッツポーズを取った。
そんな恵の様子に思い出したように桐野が霧原へと尋ねる。
「そういや原っち先輩。アレ持ってきました?」
「うん。持ってきてるよ。帰りに渡そうと思ってさ」
テーブルの上では、ウマ娘たちが思い思いにケーキを食べたり、ラテを楽しんだりしている。
トウカイテイオーは甘いものに夢中になり、オグリキャップは控えめに見えて実はチーズケーキを二口で消していた。そのあとは厨房を眺めている。
ナイスネイチャは窓の外を眺めながら小さく息を吐き、メジロマックイーンはその様子に微笑む。
スチームパンク風の静かな喫茶店に、笑い声とカトラリーの小さな音が溶けていく。
外の世界が遠く感じるほど、穏やかで特別な時間が流れていた。