あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。 作:七篠トレーナー
ラテアートとケーキで場が和んできて、喫茶『風月』の空気はすっかり穏やかな空気になっていた。トウカイテイオーはハート型ラテが気に入った様子で、ナイスネイチャは控えめに星模様に飲むのを躊躇っていた。
シンボリルドルフは静かにコーヒーを口にして、シリウスシンボリは犬のラテを前に微かに笑った。
「さて、そろそろお食事持ってきますねっ!」
恵が声を弾ませて桐野と一緒に一度厨房へ引っ込む。
そういえば、先にケーキ出してしまって良かったのかと今更ながら桐野は思ったが、甘いものを食べた直後にでも問題なく食べそうだ。自分は無理かもしれないと思ったが、その辺りの健啖家な部分はアスリートとしては利点でしか無い。
コーヒーの香りに加えて、オーブンで焼かれるパンやチーズの香ばしい匂いが店内に満ちていく。その香りに、オグリキャップの耳と鼻がぴくりと動いた。
「……いい匂いだ」
彼女は無意識にスプーンを握りしめ、待ち切れない気持ちを表すかのようにグラスの水を一口で空にする。
マックイーンは横目でそれを見ながら、口元を抑えて小声で釘を刺した。
「まさか、もう追加を頼むおつもりではありませんわよね?」
「……」
「オグリさん!?」
小さく頷きかけたオグリは、咄嗟に視線を逸らした。
だが、テーブルに置かれた水のグラスはすでに空になっている。テーブルに笑いが広がった。
怜がレモンの輪切りを浮かべた氷水の入ったピッチャーを持ってくる。
ふと、ナイスネイチャが店内を見回し、壁際の飾り棚に目を留めた。
「あれ? あのトロフィー」
古びたガラスケースの中に、十種競技の優勝カップが並んでいる。
銘板には『
「桐野さんの……ですか?」
ナイスネイチャの言葉に桐野は、カウンターに体を預けトロフィーを眺めて少しだけ照れたように笑った。
「ああ、うん。オレが中学生の時のね。十種競技でエリア出場の記念トロフィーだよ」
「えっ、十種競技って、あの十種全部やるやつ……!?」
ネイチャが目を丸くし、テイオーも身を乗り出す。
「キリノって料理だけじゃなくて、運動もできるんだ!? そういえば手品もできるって聞いたけどなんでもできるね!?」
「へぇ……やんじゃん! でも今は……体力落ちたんだろ?」
白椿は口笛を吹き、この間ウマ娘の介助に行った時に息切れしていた様子を思い出した。
「余計なお世話だよ。……まあ、現役ほど体力はなくなったな流石に」
中学生の頃は体力が無限にあるんじゃないかと思っていたが、そういうわけでもなかったし、競技を辞めてからは驚くほど体力が減っていった。筋トレを始めたのもその辺りの理由もあった。
「……文武両道。あらゆる分野で努力を重ねねば辿り着けぬ栄光だな」
シンボリルドルフは静かに頷いた。その言葉に桐野は肩をすくめる。ちょっとしたベールが掛けられてる事実を知る彼女はシンプルにそれだけを言った。
「まあ、今はもう現役じゃないけどね。でも、楽しかったよ。それにトレーナーの方がやりたいことになったから、そっちはもう辞めたんだ。流石にそっちにも力を入れたらトレーナー試験受けれるほど勉強はできないからね」
一瞬、店内にしんとした空気が流れる。
そこへ、恵が大きめのトレイを抱えてやってきた。
「お待たせしましたっ! まずはナポリタンです!」
最初に現れたのは、喫茶店定番メニューとも言える鉄板に乗ったナポリタン。ウマ娘用の量として人間換算でたっぷり10人前はある。
ジュッ――鉄板の上でパスタの端が音を立てる。焼ける匂いが周囲にただよってくる。
ケチャップの甘酸っぱい香りに、バターと炒めたソーセージの香りが折り重なる。子供向けとも言われるが、大人も変わらず好きな一品。
「うわぁー! これが喫茶店のナポリタンってやつ!」
テイオーが立ち上がらんばかりに身を乗り出す。
流石にそのままは良くないと、白椿が小皿に取り分けていた。
オグリキャップも同じく、メジロマックイーンに取り分けてもらっていた。
そしてフォークを手にくるくると麺を巻き、ひと口食べた瞬間、顔を輝かせた。
「んーーっ! なにこれ、初めて食べる!!」
顔を輝かせるテイオーの横で、オグリキャップも無言で頬張り、目を細めた。
「美味しい……」
「めっちゃ美味えわ! このジャンクな感じの味好きなんだよなあ! テイオーも何だかんだ言ってお嬢様だからあんまこういうの食べる機会無いだろ。粉チーズもかけるとさらにいけるぞ」
「何だかんだ言わなくてもお嬢様だよ! ボクもかけるから! ねぇ、貸して貸して!」
「はいはい。順番にな」
メジロマックイーンも一皿小さく取ってみれば、一口。
「まあ。こういうお料理は口にする機会が少ないのもあるのですが、とても良い味ですね」
満足そうにもう一口。さらには粉チーズも受け取ってかけていた。
粉チーズが白い雪のように舞い、ナポリタンはさらに喫茶店らしい味になる。
「メジロ家じゃでなさそうだもんねー。どうどう? マックイーン」
「こういうのも嫌いじゃありませんわね。また食べに来たいと思いますわ」
結構気に入った様子に怜は笑顔で眺めていた。
「こっちはオムライスですっ!」
続いて登場した皿には、たっぷり五人前はあろうかというサイズのオムライス。とろりとした半熟卵に濃厚なビーフシチューがかけられている。怜の得意料理の一つだ。
湯気の向こうでオグリキャップの瞳が光った。
「これも美味しい。卵がふわふわで、ソースが……いい」
さっそくスプーンを動かし、口に運べばあっという間に半分が消えた。
「ちょっと! 私にも分けてくださいまし!」
慌ててとりわけ始めるメジロマックイーンの様子に周囲は苦笑する。
「ああこれは上品な味付けですね。ビーフシチュー単体でも食べてみたいぐらい」
口にすれば満足そうに表情を和らげる。だいぶ気に入ったようだ。
厨房の奥で同時並行して作っていた怜がかなり疲れている様子だったが、その甲斐はあるだろう。
「こっちはホットサンドとパスタだよ。これはオレが作ったやつ」
桐野が運んできたのはハムとチーズの香ばしさが広がるホットサンドに、カルボナーラパスタ。香ばしいパンの間からチーズがとろりと溢れ、湯気とともにハムの香りが立ちのぼる。
これも大人数分作ったので、同じく少し疲労のようなものが浮かんでいて苦笑している。今のところピークタイムでもこんなにたくさんの料理を作ることはなかった。
ナイスネイチャは恐る恐るホットサンドをかじり、目を丸くした。
「……え、これ、すごくおいしいんだけど。桐野トレーナさん料理うまいんだ」
「まあね。子どもの頃から手伝いしてたからそれなりに」
ナイスネイチャが思わず目を丸くする。
隣の柚木はにやりと笑って、パスタを豪快に巻き取った。
「ネイチャちゃん、もっと食べなよ。遠慮することないって」
「じゃ、じゃあもう一口だけ……」
「まだまだありますようっ! 当店の軽食セットです!」
恵が運んでくる軽食のラッシュが続く。
クロックムッシュ、ミートパイ、チーズトースト、ミニグラタン。
トレイからテーブルへ並ぶたびに、バターとチーズの濃厚な香りが鼻をくすぐった。
どれもウマ娘用に量を多めに用意してある。到底軽食という感じではないが。
どん、とテーブルに並べられた料理に、トウカイテイオーが身を乗り出した。
「すっごい! 見て見て、チーズのびてるー! こんなに伸びるんだ!?」
「美味そうだな。グラタンは熱そうだから気をつけろよ」
テイオーが身を乗り出し、白椿がフォークでチーズトーストを切り分ける。
意外というか甲斐甲斐しく世話を焼く様子にまるで兄妹のようの見えて桐野は微笑ましく思った。
「このミートパイ、サクサクしてるね」
霧原が感心したように言うと、恵は嬉しそうに胸を張った。
「私が作ったんですっ!」
「これはなんとも。美味しいね。ちょっとできるってレベルじゃないね。流石は喫茶店の味だ」
シンボリルドルフは湯気の立つクロックムッシュをゆっくり口に運び、静かに目を細めた。
「……温厚篤実。飾らず、だが確かな腕前だね」
「は、はいっ、ありがとうございます!」
その様子を隣で見ていたシリウスシンボリは無言でミートパイをひとかじりし、ゆっくりと頷いた。
「……悪くない」
その一言だけで「ピエ」と小さな声を上げて恵は耳まで赤く染める。
「そして――これがご自慢のォ! スパイスカレー!」
テンションの高くなった桐野が大皿を運んできて、まず最初にシリウスシンボリの前に置いた。
蓋を外した瞬間、店内にスパイスの刺激的な香りが立ちのぼる。
クローブ、カルダモン、チリ、様々なスパイスの香りはそれだけで風味を感じられる。
そこそこの辛さを感じられる一品だ。流石に自分で食べれる程度の辛さには絞ってあると付け加えた。
「辛さは結構あるよ」
「……上等だ」
シリウスシンボリが静かにスプーンを手に取り、一口目をゆっくり口に運ぶ。
――沈黙。
表情を変えぬまま、二口、三口と淡々と食べ進めていく。
周囲が様子をうかがう中、彼はスプーンを置いて小さく息を吐いた。
「……鋭く、深い。舌だけじゃなく、胸まで熱くなる味だな。
……
短い言葉だが、確かな満足がにじむ声だった。
「よーし、俺もいくぞ!」
白椿が勢いよくスプーンを口に放り込んだ瞬間、ぎゅっと目を瞑った。
まあ、こういう感じだよな。と白椿を見て桐野は満足した。
「くっ、うまいけど、辛ッ!」
汗を流しながら顔を真っ赤にして、スプーンを止めない白椿。
「これは結構味わい深いですが、それ以上に辛いですね……」
柚木も挑戦したが、二口目で無言になり、三口目で汗がにじみ出てきている様子だった。
トウカイテイオーは一口でギブアップして水に手を伸ばす。
「ひぃぃっ、舌が燃える!」
「水を飲むとさらに辛く感じるよ……」
「テイオー、ラッシーでももらうかい?」
微苦笑。シンボリルドルフが助け舟を出す。
この辛めに作られたカレー用にメニューに書いてあるラッシーを選ぶ様子に桐野は感心した。
「うんっ……でもアイスも食べる!」
流石にもうちょっと辛さ控えめのほうが良さそうだな。と桐野は思った。
一度に複数人に食べてもらうという経験がなかったので、これはもしかしたらお値段が高いからというよりは、この辛さが問題なのかもしれな気がしてきた。自身で色々試しているため、若干辛さに対して麻痺しているのだろう。これはこれで美味しいのだが。と。
オグリキャップは、最初こそ涼しい顔で食べていたが、三口目で急に目を潤ませる。
「辛い……。けど……。おいしい……。でも辛い……!」
それでも食べるペースが落ちない様子に、全員が苦笑を浮かべた。
「試練克己。良き経験になるだろう」
その様子に、霧原とシンボリルドルフの食べなかった組は静かに笑った。
ちょっとした阿鼻叫喚。それが終わり食事がひと段落したころ、恵が小さな木の台に乗せて運んできた。
「お待たせしました。アップルパイです。焼きたてですよーっ!」
サクサクのパイ生地の香りとシナモンの香り。それと甘く煮詰めた林檎の匂いがふわりと広がる。ルドルフの耳がぴくりと動いた。
「ふむ……」
ナイフを入れれば、サクッと軽快な音。
熱々の林檎がとろりと垂れ、シナモンの香りが立ちのぼる。
「……芳醇甘美。実に見事だ。シナモンの香りも良い。喫茶店で食べれるのは珍しいと聞くが、これは本当に美味しいね」
穏やかに目を細め、機嫌よく動く尻尾を動かすシンボリルドルフに、恵は胸の前で小さくガッツポーズを作った。
「やった!」
横でオグリキャップが、熱々のまま大きくかぶりついた。
「あっつ! でもおいしい。でもあっつ!!」
周囲は思わず笑いに包まれる。そんなに急いで食べなくともまだあるのだ。
オグリキャップはどれにも手を付けているが、まだ食べれる様子に晴と怜は少し冷や汗をかいていた。
「はいはーい! パフェですよー!」
スパイスカレーがメインディッシュなら、今度はメインスイーツといったところ。
トレイではなく恵が押すサービスワゴンに乗せられたパフェが登場すると、トウカイテイオーは立ち上がった。
「うわぁ!! ねえねえツバキ! 見てこれ! キラキラしてるーっ!」
グラスには、季節のフルーツと紅茶ゼリー、上品な生クリーム、そして金箔まで乗っている。
アイスクリームを少なめにすることで、多少なりカロリーは抑えている。
量が多いので正直焼け石に水程度ではあるが。
「まあっ……なんて優雅なのかしら」
メジロマックイーンが思わず声を漏らすと、周囲もつられて身を乗り出す。
横でナイスネイチャが、感嘆のため息をついた。
「こんなん、写真撮るしかないでしょ……!」
「ずるいぞー! ボクも食べたい!」
「アタシも……その、小さいやつで……」
結局、全員が追加でパフェを頼む流れになった。
オグリキャップは既に二つ目を狙っている。
デザートを楽しむひととき、恵は勇気を振り絞ってシリウスシンボリに近づいていく。
「あ、あのっ……! サイン、いただいてもいいですかっ!」
シリウスシンボリは無言で頷き、さらりと紙にサインを書く。
最後に頭を撫でてから色紙を渡すと、恵は顔を真っ赤にして飛び上がった。
恵の心臓は、胸の中でくるくると回って飛び跳ねていた。
視線を向けられるたびに、ふわふわとした気持ちが弾けるように跳ねる。
手に持っていたトレイが飛んでいきそうだった。
「ーっ! ありがとうございます!!」
胸の奥に宝物を抱えたような気持ち。これを部屋のどこに飾ろうかとニヤニヤしていた。
「ネイチャちゃんもアレぐらいファンサできるようになると良いね」
「いや~アタシはあそこまではムリかなーって。ハハハ……」
笑い声とコーヒーの香りに満たされる喫茶『風月』。
みんなで記念写真を撮り、また来ようと約束するころには、夕日の光が店内を黄金色に染めていた。針の進みがゆっくりに思える、特別で穏やかな時間だった。
「ふふ。良いファンサービスだね」
霧原が小さく笑う。シリウスシンボリは周囲に圧を向けるタイプではあるが、その一挙手一投足がファンサービスになるタイプ。誰にでも威圧感を振りまくわけではなかった。
「ま、これで恵も一年は頑張れるな。これもあるし」
桐野は苦笑しながらサインを貰って跳ねてる恵を見ながらコーヒーを啜った。
妹に渡す予定のシリウスシンボリの限定グッズを紙袋にあるのを確認した。
今日の妹は忙しなく仕事をしてくれた。それぐらいの労いはあっていいだろう。
夕方が近づき、外の光がオレンジ色に変わるころ。
楽しい時間はあっという間に過ぎていた。
「よし、せっかくだし記念に一枚撮るか」
白椿がスマホを取り出し、みんなで店内で並んで撮影することにした。
恵も恥ずかしそうに端っこに加わる。
「はい、撮るよー!」
タイマーを掛けた怜が枠に入ればカシャッという音とともに、笑顔の写真が一枚残った。
こうして、穏やかで特別な一日が過ぎていく。
喫茶『風月』の時計の針はゆっくりと進み、外の夕焼けに染まった街を見守っていた。
写真を撮ったあと、恵がそっと厨房を覗く。
「兄さん、オグリさん、まだパフェいけそうだって……」
「ええ、マジか、もうあんまり在庫がないぞ」
「お兄ちゃん、どうするの? フルーツもゼリーも残りあと一人前しかないよ」
「うーん。そうだな。……オグリくん用の特盛を作るか」
「えっ、特盛?」
恵が目を丸くして、桐野がゆっくりと頷くと直後、客席から元気な声が響いた。
「
オグリキャップが椅子に立ち上がり、手を振っている。
周囲のウマ娘たちは呆れ半分、感心半分で見守る。
「おいおい……さすがにさっきので終わりかと思ったんだけどな」
「兄さん、パフェ用のグラス、あの大きいやつ使ったほうがいいよね?」
「あぁ、爺ちゃんたちの頃から置いてあるって言ってた使い道意味わからなかったやつか。あれウマ娘用だったのか……?」
急遽、特大サイズのグラスに残りのフルーツとゼリー、アイスをこれでもかと盛る桐野兄妹。
てっぺんに小さなチェリーを飾った瞬間、完成したそれ。
「でっか!! マジででけえ!」
「なんか……トロフィーみたいになってません?」
ナイスネイチャが呆然とつぶやくと、柚木と白椿が笑いながらスマホを向けた。
「写真撮っとこ、これは絶対にバズる」
「俺もー。普通に頼んだら幾らぐらいするんだこれ」
恵が慎重に両手でサービスワゴンに乗せて運ぶと、オグリキャップは目を輝かせて立ち上がった。
「おお……! すごい……夢みたいだ……!」
彼女はスプーンを手に取り、真剣な表情で小さく呟く。
「いただきます……!」
次の瞬間、オグリの頬はふくらみ、目はきらきらと輝いた。
「うん。おいしい……!」
周囲は笑いに包まれ、晴はカウンターに肘をつきながら肩をすくめた。
「いやー、十種競技で記録出すよりもオグリくんの胃袋を攻略するほうが大変かもな」
「お兄ちゃん、それフラグだよ」
恵が苦笑いしながら言ったその瞬間、オグリキャップが次のひと口に挑んでいた。
後で怜が全員からサインを貰って、店内に飾ることにした。
チームの四人は快く書いてくれたし、トウカイテイオーも自慢げに「いずれプレミアになるもんね!」と言っていたし、ナイスネイチャは「アタシのなんかで良ければ……」と照れてこそいたがちゃんと書いてくれたようだった。
これでもしかしたら店に客が入ればいいなと思いながら。
そうでなくとも、今日一日の幸せは忘れないだろう。
こうして、喫茶『風月』の一日は笑いと驚きのまま締めくくられた。
一旦体調が治るまではお休みとさせてください。
申し訳ございません。