あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。 作:七篠トレーナー
今日のトレセン学園は朝からややピリついた空気に包まれていた。
シンボリルドルフの進退についての公式発表を予定されている日だ。
トレーナー室のドアを開けると、霧原がすでに資料を並べていた。
その事もあって今日は朝から駿川の姿もそこにあった。
「おはようございます」
「おはよう晴君。まあ座ってくれ」
霧原の言葉に促され自分の席に座る。
机の上には海外遠征のスケジュール表、飛行機や船便の選択肢、現地の宿泊施設の資料まで揃っている。
「さて事前に話した通り、今日の午後にシンボリルドルフの凱旋門賞挑戦の公式発表を行う」
「はい。発表の場には参加しませんが、後方で控える形ですよね」
「その通り。サブトレーナーとして、補助や雑務は任せる。……正直、今日の発表そのものは大した業務じゃない。むしろ発表以降は怒涛の日々になる」
そのために備えてきた。と言わんばかりに霧原は書類の山に手を置いた。
その手をカレンダーに向け、赤でマークされた日付を指差す。
渡航準備、調整のためのレース、出国の手続き、細々と予定が組み込まれていて空白があまりない。
出国付近に至っては、霧原には休日すらない。これに関しては流石の駿川でも黙認するようだ。
「まず、遠征までの期間は国内調整だ。遠征先についてはたづなさんにもお願いしている」
約二ヶ月間。七月の半ばぐらいには出国する予定だ。
「学園内でのスケジュールや各種施設の許可などは調整済みです」
駿川はそれに付け加えて説明をする。
トレセン学園からしても、挑戦なのだ。そのためバックアップは全力で行われる。
「ありがとうございます。次に、君の担当は、現地サポートやルドルフとシリウスの荷物の確認と輸送準備。
器材やサプリメント、二人のためのトレーニングギアなどもリストアップしている。チェックしてみてくれ」
「了解です。すぐに確認します」
桐野は机に並んでいる資料に目を通し、項目を一つずつ確認する。
数日前から他の業務に優先して調整の話が続いていた。
凱旋門賞の話を聞いたオグリキャップとメジロマックイーンはどこかで納得していた顔をしていた。
オグリキャップは、最初こそ「私も……世界を走ってみたかったな」とぽつりと零したが、模擬レースの結果を見て最後には静かに頷いた。
メジロマックイーンは一言も不満を口にせず、紅茶を口に運びながら目を閉じ、微かに笑みを浮かべて受け入れた。
霧原の都合上管理が難しく、かといってそのトレーニングの為に人を割り振るのは難しい。
桐野を連れて行くとしたら今度はメジロマックイーンを一人にすることになる。メジロマックイーンにとっても大事な時期に一人にするのは難しい。サブトレーナーを増やすのも、他のトレーナーから露骨な贔屓としてとられかねない。
最終的にはシンボリルドルフ、シリウスシンボリ、オグリキャップの三人での模擬レースの結果から納得してもらう形になった。
トレセン学園での業務を続けながら、世界最高峰のレースへ挑む挑戦を進めていく。
心の中から、じわりとした熱が体を広がっていくのを感じた。
「シリウスくんが同行してくれるのは心強いね」
「……当然だ。抜かりはない」
短く、だが確かな信頼を滲ませる声に、桐野は自然と背筋を伸ばした。
帯同バが居るだけでも精神的面持ちが変わるし、併走など行える調整は増える。
あくまでシンボリルドルフがメインではあるが、シリウスシンボリが制覇する可能性もあり得るのだ。
シリウスシンボリにもそれだけのポテンシャルはあると桐野は考えている。
「それと」
霧原は少し表情を和らげた。
「今日の発表は、君にとっても一つの節目になるはずだ。
世界に向けて勝ちに行くと宣言する場だ。正直僕も緊張しているが……しっかりと見ておいてほしい」
「はい!」
桐野は深く頷いた。トレーナー室の窓から見える空を一瞥し、静かに息を吐いた。
昼前、学園を出た車の中。
助手席の霧原は淡々とタブレットで資料を確認し、後部座席ではシンボリルドルフとシリウスシンボリが静かに目を閉じていた。
桐野は窓の外に流れる街並みを見ながら、これからの事を考えていた。
信号が赤になり車を止め、その間にスマホの写真を開く。
「妹が喜んでいたよ」
シリウスシンボリにスマホを向ける。彼女は無言で受け取る。
信号が切り替わり、アクセルを踏む。
写真には霧原から貰ったシリウスシンボリのグッズを並べて自撮りした恵が映っている。
それも限定品だと言うのだから、その喜びも大きくその表情が物語っていた。
ルームミラーに反射するシリウスシンボリの表情は、少しだけ穏やかに笑みをたたえていた。
意外にも、というほどではないが面倒見の良さのようなものが彼女の一面として存在している。
「すみません原っち先輩。ナビがちゃんと動いてないみたいです」
「ああごめん、今切り替えるよ」
霧原が車のナビを操作して、目的地を確認する。都内でも有名な高級ホテル。
このナビゲーションシステムというのも、非常に便利だ。
前世での旅は太陽と星を見て、地図と向かい合っても目的地には簡単にたどり着けなかった。
現代の様な精密な地図ではなかったし、距離感も曖昧だった。なんとなくこの方角。ぐらいの手がかりで歩を進めていたことを思い出す。
これから向かうのは、ただの記者会見ではない。――現役最強と名高い日本のウマ娘が、世界の頂点に挑むと宣言する場だ。品格を問われるということだ。
目的地に到着すると、係員が既に待っていて、車寄せにゆっくりと車を止める。
車から降りると、スーツ姿のスタッフたちが道を示すかのように整列している。
ドアマンが扉を開いてくれて、そのエントランスは磨かれた大理石が光を反射させていた。
霧原を先頭にして、シンボリルドルフとシリウスシンボリはさも当然といった足取りで進む。
これだけで既に非日常感が凄い。桐野は圧倒されそうな気分を律しながら一番うしろを歩く。
ややざわめきがある。主役の登場に僅かながらに空気が高揚する。
控室に案内され扉が閉じてようやく一息をついた。まるで貴族にでもなったかのようなもてなしだ。
赤い絨毯に、落ち着いた色合いのソファーが並び、風景がまで飾ってある。
天井にはシャンデリアがあり、外の喧噪とは隔絶された静謐の空間がここにあった。
(あれ? よく考えてみたら、オレはトレセンでオグリくんとマックイーンくんと放送を見ていればよかったんじゃ)
霧原も運転できるし、あまりにも場違い感がある。
霧原へと視線を向けると、存外に悪い笑顔をしていた。
「ふふ。気付いたようだね晴君。来る前にも少し言ったけど……ここには僕だけでも良かった」
ソファーに座り、膝に手をおいて組む。その姿勢はこの場に馴染んでいて風格を感じさせる。
桐野は精々だらしくならない様に姿勢を正すのが精一杯だった。
「まあ、実際舞台にもあがらないし、来なくても何も問題ないよ。
……ただ、君にもこの空気感を味わってほしくてね。僕のサブトレーナーとしての特権だと思ってほしい」
つまりはこれも経験だから、受け取ってほしい。ということだと桐野は理解した。
コンコン。とノックが響き、扉が開く。
「あと十五分で開場になります。準備のほどよろしくお願いいたします」
スタッフが丁寧な所作で頭を下げれば、二人は立ち上がって頭を下げる。
シンボリルドルフは椅子に腰掛けたまま、ただ静かに目を閉じている。シリウスシンボリは壁に背中を預け、腕を組んでいる。極めて平常心。集中こそしているがそこに緊張はいない。
(……世界か)
桐野にはなんとなく手持ち無沙汰になると指を擦る癖がある。
手慰みにコインを弄りたくなるが、ぐっと堪えて時計を見る。この四人の中で一番関係がないのに一番ソワソワしている事がより情けなさを助長していた。
時間になり、スタッフに案内されるように会場へと向かう。
桐野は途中で三人と別れ、暗めの関係者席に案内された。
そこには駿川の姿があり、桐野に気付いてお互いに会釈する。
「もうすぐですね」
黙っているのもなんとも居心地が悪くつい言葉に出してしまう。
「ふふ。桐野さんはこういう場所は初めてなんですか?」
「ええ。まあそうですね」
その居心地の悪さを察したのか、小声で言葉を返してくる。
「ここまでのは珍しい事ですが、あなたが担当を受け持って勝てばこういう場に立つ事になります」
「先輩にも似たようなこと言われました」
「今のうちにこの雰囲気を感じられるのは得難い経験ですよ?」
「そうですね……。そうありたいですね。うん」
すでに報道陣が並んでいるが、静かなものだ。もっと騒がしいものになるかと思っていたが、彼らにもそれなりに品位があるということだ。
もっとも、記者に関しては最大限の配慮として理事長やURA幹部によって選別されていると聞かされている。駿川がここに居るのもURA側の立ち位置としてのもののようだ。
どうぞ。と渡されたグラスに満たされたワイン。どうやら記者以外の招待客も居るらしく、そういう人たちは歓談をしていて、さながら立食形式の食事会の様相だった。
(……味がわからん)
場に飲まれているのがこのワインの味から伝わってくる。手の震えは無いが緊張の現れ。
その様子に気づいた駿川が僅かに微笑んでいた。
桐野はグラスをそっと置き、息を潜めるように背筋を伸ばした。
やがて、壇上に向けられたライトだけが白く浮かび上がり、
それを合図にしたかのように歓談がぴたりと止む。
霧原、シンボリルドルフ、シリウスシンボリの順で壇上に上がっていく。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
霧原の低く落ち着いた声が、ホール全体に響く。
司会者と思われる男性が、短く挨拶すれば改めて霧原が口を開く。
「この度、シンボリルドルフ、およびシリウスシンボリは、
今年の秋――フランス・ロンシャン競バ場で行われる凱旋門賞に挑戦します」
けっして大きくない声だが力を持った一言に、会場がざわめく。
同時にカメラのシャッター音と少しばかりのフラッシュ。
しかし、誰も声を上げずその次の言葉を待っている。
シンボリルドルフとシリウスシンボリの二人が前に出る。
その一挙手一投足に、会場全体の視線が吸い寄せられるように集まった。
「――勝ちに行く」
シンボリルドルフの短い言葉。しかし威風堂々とした言葉。
ビリビリとその気迫が空気を震わせている気がした。
「皇帝と共に、世界を制する」
シリウスシンボリも視線を正面へと向けて、その言葉を重ねた。
記者たちがペンを走らせる音、シャッター音だけが響く。
静寂だが熱気がそこに存在するという異様な空間だと桐野は感じた。
「では、質疑応答を――」
その言葉に待ってましたと言わんばかりに何人かの記者の手が上がる。
「……では、そちらの帽子の方」
霧原が手のひらを下にして記者へと声を掛ける。
指名された記者が立ち上がってまず出版誌の名前を告げてから質問をする。
「まずお伺いします。遠征はいつからになりますか?」
霧原は落ち着いた声で答えた。
「七月半ばに日本を発ち、現地のシャンティイで調整を行う予定です。
移動後に十分な適応期間を設け、ロンシャンのバ場、洋芝に順応させます」
会場が頷きとペンの音で揺れる。
桐野は心の中で、スケジュール表を開いて確認する。
記者の質問が終わったので、帽子を取って一礼して座り直す。
次の挙手を確認して若手と思われる記者が指名される。
「皆さん聞きたいと思っていると思いますが、まずは今後のスケジュール、遠征前には出バするレースはありますか?」
「シンボリルドルフ、シリウスシンボリ両名、宝塚記念にまずは挑みます。勿論調整という意味合いではなく、彼女たちの現時点の力を持って挑ませていただきます」
霧原の言葉に、記者たちは小さくうなずきながらメモを取る。直近のレースに両名が出るというのはそれだけで場が揺れる。同じチームで同じレースに出るのは珍しい。
一着は一つしか無いのだから、適性を考えてレースを分散させる事がセオリーではある。
会場を包む空気は張り詰めているが、声を荒げる者は一人もいない。
「ありがとうございます。続いて質問を」
続いて指名されたのはグレーのスーツを着た女性記者だった。
「お二人に伺います。世界挑戦となる凱旋門賞……最大のライバルは、どのウマ娘だとお考えですか?」
その問いに、会場の視線がシンボリルドルフへと集まる。
彼女はゆっくりとマイクを取り、わずかに目を細めた。
「全員が、最大のライバルといいたいところだが、名前を挙げるならまず――」
シンボリルドルフは一拍置く。そして静かに続けた。
「フリューゲルシア。皇帝と呼ばれるからには対するのは北欧の氷の女帝だ。
キングジョージと、英ゴールドカップを制した実力バです。末脚は欧州随一と言える」
会場に低いざわめきが広がる。
凱旋門賞の話を聞いて、調べていた時にあった名前だと桐野も考える。
「地元フランスのルミナステラがいる」
霧原が補足するように言葉を重ねる。
「昨年の凱旋門賞覇者。フランスダービー……ジョッケクルブ賞とニエル賞を制覇。今年もガネー賞で快勝。
現地では“光の歌姫”と呼ばれ、まさに凱旋門賞の顔です」
一瞬、会場がどよめきと共に熱を帯びる。当然と言えるその名。
その名が持つ圧倒的な格が、空気を変えていた。
前年の覇者が再び出る――その事実だけで、その壁の高さを認識させる。
「最後に……アイルランドのエリュファリア」
霧原は一呼吸置いて、白い幻影と呼ばれるウマ娘の名を告げる。
「昨年のアイリッシュダービー、アイリッシュセントレジャーを制覇。
今年のタタソールズゴールドカップでも2着に入り、末脚の切れ味は健在です」
会場が一瞬、しんと静まる。
ペンの走る音が遠くに聞こえるほどの緊張感が漂った。
「違うな。最後はルドルフ。オマエだ」
シリウスシンボリは、隣の皇帝を真っ直ぐに見据えてそう告げた。
静かなざわめきが、再び会場に走る。
霧原はやれやれと苦笑し、ルドルフはわずかに口角を上げただけだった。
だがその瞳は、誰よりも強く燃えている。
数秒もすれば、まだ質疑応答が終わっていない。シリウスシンボリが押し付けるように霧原にマイクを返した。
「欧州特有の重バ場や気候への対応は、どのように準備されますか?」
霧原は少し微笑んだ。桐野を見ているようにも見えた。
「日本の調整だけでは足りない部分があります。
そのため現地での滞在期間を長めに取り、シャンティイでのバ場への対応を徹底します。
長距離移動については、ルドルフもシリウスも未経験ですが、そのための手配も手厚く行って、必ずものにしてみせます」
桐野は胸をなでおろした。
このあたりの管理は、まさに自分の担当だからだ。信頼の言葉と受け取った。
最後の質問となります。との言葉に、年配の記者が手を挙げた。
「日本のファンに向けて、意気込みを一言お願いします」
ルドルフはゆっくりと前を向き、短く答えた。
「――必ず、頂点を獲る」
その隣で、シリウスシンボリが静かに続ける。
「皇帝と共に、いや、皇帝をも越えて世界を制する」
その一言に、会場の空気が震えた気がした。
質疑応答が恙無く終わり、三人が壇上から降りる。
気を張りすぎていたのか力がぬけて少し重心がゆらゆらとしていた。
今さっきまでのこの場所はいわば日本の競バの最前線だった。
(原っち先輩。緊張してるとか言ってたクセに声一つ上ずらなかったな)
最近少し距離が近く感じていた霧原という先輩の背中のデカさを感じた。
改めて、驚くほど遠いところにいる。凱旋門賞を制覇すれば更に遠のく。
足踏みしているというわけでないが、自分のスタートラインは、まだ遠くにあるのだと痛感した。