あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。 作:七篠トレーナー
初顔合わせが終わった夜。
トレーナー寮の二階にある桐野晴の部屋は、まだ段ボールが積み上がったままだった。
荷物は多くないが、ほとんどが箱に入ったまま。縦に積まれた段ボールが部屋の隅で陣地を主張している。
「あー……初日が終わった」
思わず疲れた声に出すが、返事はない。
兄や妹のいる家では決して味わえなかった静けさが、夜の空気に溶けていた。
時計の針の音がやけに大きく響く。
「初日が終わった。なんとかやっていけそうだ。と」
晴はスマホを手に取り、兄と妹と三人の家族グループチャットに文字を打ち込んだ。
とん、と送信。すぐに既読がつく。
『ウマ娘さんたちと仲良くできそ?』
妹・恵からの返信は早い。続いて、はてなマークを浮かべたウマ娘のスタンプ。
「まだなんとも言えない」と返してから、担当ウマ娘の話も送ってみる。
シリウスシンボリの名前を出した瞬間、返ってきたのは勢いのある文字列だった。
『えええ!!?? いいなーー! 羨ましい!』
『今度サインもらってきて!!』
「サインは無理かもな……」
シリウスシンボリの視線を思い出す。初対面での印象からすると桐野自身からペンと色紙を向けても睨まれてその手を叩かれるのが関の山だ。そもそもサブトレーナーと担当の間柄だ。そういうのは良くないだろう。
『じゃあ写真! 後ろ姿でもいい!』
『えっ!! いいなー羨ましい!!』
『グッズとか貰ってきて!!』
思わず笑ってしまう。恵は昔からこのウマ娘が大好きだった。そしてとにかく話が長い。
兄の怜は、少し遅れて写真を送ってきた。恋人と一緒に映るツーショット。
「おいおい……」と小さくつぶやく。弟や妹に見せつけるようなものか? と思うが、仲が良いのは悪いことではない。桐野が寮に生活の場を移したことで部屋が空いたら、そのうち彼女の部屋になっているかもしれないな、と思うと少しだけ遠い世界の話のように感じられた。
こういう時はいつもの通り、使い所のよくわからないスタンプを一つ送信して、やり取りを切り上げる。
「提出用の用紙はこれとこれか」
カバンから持ち帰った書類をとりだせば確認し、テーブルの上に無造作に置く。
伸びを一度して、深呼吸。緊張が抜けると一気に疲労が押し寄せた。
手早く書類への記入を済ませ、コップを手に取る。当然空だ。こういう時は大体兄が気を利かせて飲み物を入れておいてくれたりすることを思い出した。
「こんなもんか」
コップを持ったままキッチンに向かい、コップを置いて換気扇を回してから煙草の箱を手に取った。未開封の煙草を開け、慣れた手つきでトントンと叩き、一本を取り出した。
口にくわえてポケットを探る。次に胸ポケットも――ライターがない。ライターを消すマジックをした覚えはない。つまり……。
(どこだっけ……ああ、段ボールのどれかに放り込んだな)
肩を落とし、積まれた段ボールに視線を向ける。
一つを開けて中を漁ると、カサカサと紙が擦れる音が部屋に響く。
誰もいない夜は、こんなにも静かだったのか。
目印をつけていない自分のズボラさに、ため息がこぼれた。
――
物心ついたころから、もうひとつの記憶が霧のように頭の中を占めていた。
それが前世の記憶だと理解するには、時間が必要だった。
二十年と少しを生きた前世の経験に、今の彼の精神が追いつくには年数を重ねるしかなかったのだ。
生まれてすぐは赤子で、歩くことすら大変だった。
頭に記憶があったとしても、ハイハイする以上のことはできない。
十歳なら十歳なりの精神しか持たなかった。
今思えば、それでよかったのだろう。
もし万が一、幼い子どもが魔法を使えたなら、きっと自慢して言いふらし、魔女裁判のような騒ぎになっていたに違いない。
平穏な生活など送れなかっただろう。
段ボールを漁る手を止め、桐野は窓辺に歩いた。部屋が埃っぽくなるのを嫌い、少しだけ窓を開ける。カーテンのない窓から夜風が流れ込み、頬を撫でた。
冷たい空気が心を静かに落ち着かせる。
(……便利すぎる世界だよな)
一人になった夜は、色々、昔のことを思い起こさせる。
前世の彼は戦災孤児で、天涯孤独の身。栄養状態も悪く、体格にも恵まれなかった。
共通しているのは、せいぜい「好奇心」の強さくらいだろう。
今世はあまりに恵まれていた。
道は整備され、建物は高くそびえ立つ。
空を見上げれば、鉄の鳥――飛行機が、夜空を当たり前のように横切る。
前世での旅は、ウマの背に頼るものだった。
空を駆けるのは鳥か、せいぜい伝説の竜だけで、生物ではない金属の塊が飛ぶことなど想像すらできなかった。
前世で最も長く共に過ごしたのは、きっとあの賢いウマだっただろう。
食事も眠りも旅路も共にした、唯一の相棒でこちらで言うならば愛バというやつだった。
けれど、今の世界にはウマはいない。
代わりに、人間の隣を走る「ウマ娘」がいる。
前世にも、似たような種族は存在していた記憶がある。猫耳と尻尾を持つ種族、鱗に覆われたトカゲのような種族……。だが、こちらの世界では探しても見つからなかった。
「竜」や「魔族」も物語の中にしか存在せず、空を支配する象徴はなく、代わりに飛行機やドローンなんていう金属の鳥が飛んでいる。
心に余裕が生まれたのは小学生の頃。何かがチグハグで、妙にバランスの悪い思考の高さを自覚した。さらに――
それが魔法の影響だと気づくのは、もっと後のことだった。
子ども特有の全能感や誇大妄想のようなものだと、自分でも思っていた。
それでも確信はあった。――
小銭入れから100円玉を取り出す。手の中で出したり消したり見えるようにするハンドテクニック。クラシックパームからフィンガーパームへ。様々な名称がついている手品の練習を手遊びがてら行う。魔法を手品として使うことを思いついて、練習するようになっていた。手先の訓練がてらではあったが、披露すると好評なのでいつの間にかに覚えていった。
指先で硬貨を消す。手の中には何もない。袖の中に滑り込ませて消えたように見せる技術だ。
体を思ったとおりに動かせることの利点を活かした趣味であり特技の一つだ。
「まあまあこんなところか」
ちらりと窓を見た。近日中にやろうと思ってまだカーテンすらつけていないが、二階で向かいは学園を囲む塀。手品の練習を誰かに覗かれる心配はないだろう。
前世の名前は思い出せなかった。
だが、今の自分が「桐野晴」であるという実感は、揺らがなかったし、誰かの居場所に入り込んだわけでもない。
だからこそ、体を鍛えることも勉強も苦にならなかった。思うように体が動き、学べば学ぶほど吸収される。良い成績を取れば、両親や兄、妹に褒められる。それが――
ウマ娘が人間と決定的に異なる存在だということも、彼は身をもって知ることになったのは中学生の頃だ。意のままに動かせる体を使って十種競技に挑戦した。決して目覚ましい成績ではなかったが、日々が楽しかった。そんな時だ。近所に住む妹より幼いウマ娘にかけっこに誘われ、付き合う――正確には連れ回されることもあった。
彼女は圧倒的に速かった。一度たりとも先行することはなかった。悔しさを覚えながらも、それ以上に楽しかった。
この頃から、ウマ娘を育成する「トレーナー」という職業に興味を持ち始めた。初めてレース場でウマ娘の走りを間近で見たとき、胸が熱くなった。人間の競技とは次元の違う迫力。目を奪われた。妹が興奮して語っていた理由を、全身で理解した瞬間だった。
(いわゆる
脳裏に、初顔合わせの光景がよみがえった。
チーム<アルファルド>。
そこにいたウマ娘たちの顔、声、視線。
ルドルフの威圧感は、ただ立っているだけで部屋を支配していた。そんな中でもメジロマックイーンはその視線を崩すことなく涼やかに受け流していた。
オグリキャップの目には曇りがなく、ただ走ることだけを見つめる純粋さが宿っている。
そして――シリウスシンボリ。近くで見ると、その瞳には自分の知らない世界が映っていた。妹が夢中になるのもわかる気がした。
「……本当に、やっていけるんだろうか」
思わず独りごちる。新人サブトレーナーとして、これ以上ない舞台を与えられた。
けれど、まだ自分は彼女たちの何も背負えていない。
そのことを噛み締めながら、晴は深く息を吐いた。
ただ、彼女たちが走るのを最前線と言っていい位置で見られる事に心は躍った。
やがて桐野は、
この世界の文明は、前世よりあまりに発達している。
特に暮らしている日本という国の識字率はほぼ100%。前世では、彼はこの年齢で文字すら満足に書けなかったのを覚えている。読み書きができないことで詐欺にあいかけたことあった。
さらに、毎日のように情報が波のように押し寄せてくる。通信機器、テレビ、書物――どれも娯楽であり知の宝庫だ。
道は整備され、建物は高く、自動車は驚くべき速さで走る。電話やインターネットは世界をつまびらかにし、空の向こうには「宇宙」があると誰もが知っている。
同じ中等部の頃には「異世界転生」という概念を物語で知る。
自身の出自がいわゆる「剣と魔法のファンタジー世界」に属していたと理解したのもこの頃だった。
もっとも、前世は輝かしいものではなかった。
「隣の芝は青い」という言葉の通り、現実はむしろ地味で、旅をしていたこと、魔法が使えたこと、冒険者という職業に就いていたこと……。名誉も富もない、短くささやかな人生だった。それらは思い出せるのに、肝心の「魔法を使っていた記憶」になると、強い記憶の問題点が発覚する。そしてその力をこの手で確かめることはできなかった。
思い出すのは、霧のように漂う記憶だけ。
何度も手を振り、息を整え、意識を集中させても、現実には何も起こらなかった
正確に言えば、それはただの記憶の欠落などはなかった。――「
自動翻訳されてしまっていて、向こうの自分が使っていた言語を思い出せない。こうなると、もはや前世があるかというより、痛めの中二病の延長のような感覚にさえ桐野は思い始めていた。
ライターを探すのを再開し三つ目の段ボールを開けたところで、桐野は手を止めた。
探すのも面倒になり、外へ買いに行くかどうか天秤にかける。
夜はすでに更け、静まり返った寮の廊下に足音を響かせる気にはなれなかった。
やや諦める様な気分で自然と指先を動かし、小さく呟いた。
すぐに指先がじんわりと熱を帯び、皮膚の下で血が早く流れる感覚が広がった。
指先から更に先、存在しない場所まで自分の感覚が伸びて繋がっている様なイメージ。
――ぱちり、と小さな火花が弾ける。
次の瞬間、煙草の先に炎が生まれた。 間違いなく再現できるようになった
淡い橙色の光が指先を照らし、窓辺の段ボールに一瞬だけ影が踊る。
熱とともに、わずかに焦げた紙の香りが鼻をくすぐった。
夜の匂いと煙草の香りが混じり合い、心だけが
(魔法をライター代わりにか……)
ぼやきながら、既に火が消えてしまった指の先を眺める。
火は霧散してもうない。それでも、確かにそこに力が宿っていた感覚は残っている。
それは手の中に、何の仕掛けもないのに、炎が灯る。
それは水を生み、それは風を巻きおこし、それは石礫を操る。
どれも数秒しか続かないが、たしかに存在する異能。現代の科学には再現できない異能。
もし、もう数年早く気づけていれば――そんな後悔もあった。
だが、思い出したところで、この世界でそれを使う場面は訪れないだろう。むしろこれは「使ってはいけない異能」の類であると、彼は理解していた。
いくつかの条件が重なり、この世界はその力に適していない。少なくとも、現代の日本という平和な世界において、彼の異能が必要とされることはない。されてはいけない。
ただ――何かに使うことがあるかもしれない。そう思って、せめて衰えさせないようにしておこう、と彼は決めていた。
また、小さく呟いて魔法で風を生み出す。
それと一緒に夜風が紫煙をさらい、闇に溶かしていった。
煙草を灰皿に押し付け、夜の空気を吸い込んだ。
窓の外では、学園を囲む塀の向こうに街の灯りが瞬いている。
静けさの中に、車の遠い走行音と、夜風のささやきが溶けていった。
この小さな火は、誰にも知られないまま――
桐野晴の胸の奥で、静かに燃え続けている。