あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。   作:七篠トレーナー

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3-多忙である。

「晴君。そっちの書類はどうなった?」

 

 トレーナー室。向かい合うように並べられた机の向こう側から、霧原の声がした。

 ただいま絶賛デスクワーク中である。実際にサブトレーナーとして就いたことで、桐野晴はようやく実感することになった。

 

(仕事量エグいな……?)

 

 最初のうちは、終わりの見えない事務作業に圧倒されていた。現場で指導する時間よりも、書類や確認で一日が終わる。これがトレーナーの仕事か、と何度も思う。

心のどこかでは、早く現場に立ちたい気持ちが膨らんでいた。

 

 彼が急遽サブトレーナーとして任命された理由の一つは、まさにこの作業量に対応するためだった。どうやら彼は成績上位者だったらしく、それに目をつけた理事長が、霧原に「研修も兼ねてどうだろうか?」と打診したという。

 

 霧原にとっては、まさに渡りに船だったのだろう。

 桐野は当初、目を丸くして「本気ですか?」と理事長とその補佐に問いただしたが、どうやら書類の手違いや冗談といったことではなかったようだ。

 

 トレーナーとしてはトップクラスの現場に、いきなり送り込まれることになった彼は、さすがに動揺を隠しきれなかった。トレーナー業が多忙であるという話は聞いていたが、自分が本当に忙殺されるとは――そう覚悟していた。そして実際、その通りだった。

 

「これ、あとは理事長の判子待ちです。まとめておいてあるので、後で持っていこうと思います」

 

 そう言いながら、桐野は印刷した書類の書式に誤字や誤記がないかを何度も確認し、チェックの終わった紙束を書類の山の上に載せていく。

 

 領収書、議案書、カロリー計算表、グラウンドの使用許可スケジュール表、シューズやジャージの在庫一覧、移動用車両の燃料費や交通費、ぱかプチのデザイン確認書、ステージ衣装の発注書、インタビュー用のアンチョコ、写真依頼の日程調整、特別ライブのステージ予定表、さらには四月に控える春のファン大感謝祭におけるチームでの催しについて――。

 

 とにかく多岐にわたる業務に対応しながら、桐野はパソコンに向き合っていた。紙に押しつぶされそうな気分とは、まさにこのことだ。

 その中には、シリウスシンボリのぬいぐるみ監修の依頼書まで混じっている。画面の端に映るぬいぐるみのラフを見て、思わず手が止まった。

 

(……シリウスくんに見せたら、どう反応するんだろう)

 

 あの鋭い目で睨まれる姿が浮かび、桐野は苦笑する。あのウマ娘が自分のぬいぐるみが世に放たれているという事実にどういう気分になっているのか。と。

 次の瞬間、机の上に積まれた四人分の業務の山が視界に入り、現実に引き戻された。

 

 さらに、生徒会からの要請や同期との飲み会、チームメイトとの外出なども加わる。

 

 もっとも、同期との飲み会は新人歓迎会の一度きりだったが。

 

 サブトレーナーという立場上、トレーニングの組み立てや現場での直接指示はほとんどない。

 実態は、もはやトレーナーというより事務員と言っても過言ではなかった。

 

 ただ、サブトレーナーとして得られるリターンは明確である。膨大な業務への処理能力が格段に向上するのだ。同期と比較しても、相当に高い処理能力を身につけることができるだろう。

 

「いやあ、晴君が来てくれて本当に助かったよ。これ、一人でやろうとしたら二徹ぐらいじゃすまないかもしれないね」

 

 霧原が軽口を叩くと、桐野はすかさず言い返した。

 

「原っち先輩……。駿川さんに見つかったら大変ですよ。むしろ押し付けられそうなのは、向こうに送り返しちゃいましょう」

 

 キーボードを叩いていた手を止め、ペットボトルに口をつける。

 働き始めて、半月が経っていた。ようやく四月に入ったところだ。

 

 桐野は四月一日からではなく、三月の半ばから勤務を開始していた。

 トレーナー専門学校の多くは三年制を採っており、三月の頭にトレーナー試験、そして中旬には合否が出る。そのため、新入生のウマ娘が来る前に空気に慣れておけるよう、合格してすぐに働き始める仕組みになっている。

 

 彼もその一人だった。卒業直後から勤務を開始し、今では霧原と「晴君」「原っち先輩」と呼び合う程度には打ち解けていた。

 「なんで原っち?」と問われれば、「お互い“キリ”がついてるから」という、なんともゆるい理由だった。

 

 だが、その新鮮な呼び名が気に入ったらしく、霧原はまんざらでもなさそうに受け入れていた。

 というより、ほぼ毎日顔を突き合わせて仕事をしている以上、自然とそうなっていったのも当然の流れだった。

 

「トレーナー職って多忙とは聞きましたけど、ここまでとは思いませんでしたよ」

「ははっ! うちのチームは優秀なウマ娘が多数在籍しているからな!」

 

 作業量に少しハイになっている霧原が、肩をすくめて笑った。

 実際、彼のもとに優秀なウマ娘たちが集まっていることによって、仕事量が増加しているのは間違いない。無敗の三冠ウマ娘、ダービーウマ娘、地方から現れた怪物、そしてメジロ家のご令嬢。

 どれもが既に話題性の塊のような存在であり、そのスカウトセンスには桐野も驚かされた。

 

 競争率もきっと高かったに違いない。そう考えると、霧原という先輩はやはり只者ではない。

 名門ではないが、代々トレーナーの家系に生まれたという彼は、基礎知識も、トレーナーとしての実力も申し分なかった。

 なぜこのトレーニングを選んだのか、この距離であればどのフォームが適切か、この展開ならばどんな戦術を取るべきか――そういった問いにも、彼は事細かに答えてくれる。各レース場の特徴まで熟知している。

 

 これだけの成績を残していながら、霧原には不思議と慢心がなかった。

 最初に担当したウマ娘が、あのシンボリルドルフだったという事実だけでも相当なプレッシャーを背負っていただろうと桐野は想像する。

 実際、同期や少し年上のトレーナーたちからの視線は、あまり友好的なものではないと彼は感じていた。

 

 だが、それだけだ。

 確かに、嫉妬や羨望のような感情は見え隠れしているが、あからさまな妨害や陰口はなく、むしろその熱意は皆、担当するウマ娘たちを育成する事へと向けられていた。

 それこそが、トレーナーライセンスを持てる者の資質ということなのだろう。厳しい関門を突破した先にある面談で落とされることもあると聞く。

 ウマ娘に下心を抱くような人物では、そもそもトレーナーになどなれないのだ。

 

 もっとも、仮に強引に何かをしようとしても、ウマ娘と人間とでは膂力に大きな差があり、現実的ではない。そういう意味でも、この世界は善性に満ちていると桐野は考えていた。もちろん、光があれば影もある。

 この世界にも戦争の歴史があり、ゴシップ記事や飛ばし報道も珍しくはない。

 

 たまに逆のパターンもあると聞く。ウマ娘も年頃の娘たちだ。

 向こうの世界では、このくらいの年齢で関係が深まることもよくある話だった。桐野にとっては、理解できないことではなかった。南無南無。

 

 それはそれとして、改めて思う。この世界の人々は、本当に人が好い。100%とは言わずとも、前の世界とは雲泥の差だった。

 ()()()()()()()()()と、しみじみと感じていた。

 

「この四分の一と考えれば、まあ……専任トレーナーならなんとかならなくもないのか」

 

 書類を捌きながら、桐野がぽつりと呟く。

 

「そうだね。僕もルドルフ一人の時は、かなり楽だった……」

 

 霧原は頷きながら、手を止めることなく処理を続けていた。

 純粋に作業量が四倍になったというわけではないが、それでも負担が大きく増えたのは確かだった。

 

「でも、いきなりルドルフくんみたいな戦績を残すウマ娘を育ててるんだから、原っち先輩も相当の逸材ですよね」

 

 そう口にした桐野に、霧原は苦笑して肩をすくめた。

 

「まあね! と大声で言いたいところだけど……実際のところは、ルドルフがすごかったんだよ。本当に」

 

 “誰の下でも好成績を残せただろう”そんな陰口は耳にする機会が少なくない。

 実力のあるウマ娘を育てたいと願うのは、トレーナーなら誰でも同じだ。

 「誰が育てても同じ結果だった」「トレーナーよりウマ娘がすごかった」「口説き落としただけ」「裏取引でもあったのでは」

 そんなやっかみ交じりの噂が、桐野の耳にも届いていた。

 

 当時の選抜レースの現場を彼は知らないし、その瞬間に込められた熱量も想像するしかない。

 だが、どのような背景であれ、結果を出したのは確かにシンボリルドルフであり、シリウスシンボリであり、オグリキャップだった。

 そして、その陰には間違いなく霧原というトレーナーの手腕があった。

 

「それでも、その逸材を口説き落としたのは原っち先輩ですから。やりますねえ」

「うん、まあ……フィーリングとか、そういうのも大事なんだよ。晴君だって、そのうち専任になるんだから、そういう感覚も少しずつ磨いていくといいよ」

「ですねえ。でも、今は目先のことが優先です。選抜レース見に行ってみたいですし」

 

 そう言う桐野に、霧原が少し真面目な顔をして返した。

 

「……ただ、今年はスカウト、ちょっと絞ろうと思ってるんだ」

「そういえば、チームは五人いるって聞きましたけど、ウチは四人しかいないですよね」

「理事長に“無理しなくていい”って言われてるからね。――本来、僕はチームを持てるほどの年期をまだ務めてないんだ」

 

 トレーナーとしての一般的なキャリアの流れは、まずサブトレーナーとして経験を積み、その後に独り立ちして専任担当を持つというものだ。

 もちろん、中にはサブを経ずに直接担当を持つ者もいるが、新人トレーナーが初年度からスカウトを成功させることは難しい。

 実績のない者を選ぶウマ娘が少ないのは、ある意味当然の話だ。

 

 トレーナーは複数のウマ娘を見ることがあるが、ウマ娘にとって「自分のトレーナー」は常に一人。自分の競技人生を託す相手として選ぶ以上、その重要性は極めて高い。

 

 トレーナーがスカウトのためにウマ娘のデータを集めるのと同様に、ウマ娘たちもトレーナーの情報を調べている。結果としてスカウトされず、半ば諦めに近い気持ちで新人トレーナーと契約するウマ娘も少なくない。それでも、時にその組み合わせが奇跡を起こすこともあれば、逆に共に挫折する場合もある。

 

 契約がうまくいかなかった末に退学するウマ娘や、強く育ててあげられなかったことに絶望して離職するトレーナーも存在する。そのため、まずはサブトレーナーとしてしっかりと経験を積むことが、安全かつ確実な道とされている。

 桐野も、それを理解したうえでサブトレーナーとしての道を選んだ。

 

 もちろん、スカウトがうまくいかず結果的にサブに回る者もいる。

 だが経験という観点で見れば、桐野にとって今の立場は悪くない。むしろお得だとさえ思っていた。

 

 霧原は本来、専任トレーナーとして一人のウマ娘を育てている最中だった。だが、あまりに早く結果を出してしまった。それに目をつけた理事長が、半ば強引にお願いする形で、霧原の担当人数を増やすことに。そのため、現在の四人編成は特例として許されている。

 本来であれば、さらに一人増やすように言われている状況らしい。

 そんな中、新人である桐野が彼の下でサブトレーナーとして働けているのは、まさに僥倖といえるものだった。

 

「是なるかな。正直、スカウトしてほしいってウマ娘、無限にいるんじゃないですか?」

 

「無限って……まあ、かなりの数は来たよ」

 

「実際どうやったんですか? 参考にはならないと思いますけど、今後のために聞かせてくださいよ、先輩」

 

 書類の束を越えるように体を前に出して霧原の方を見る。

 霧原は少し目を細めて、思い出すように背を伸ばす。噛み殺すようなあくびをしながら答えた。

 

「ルドルフとシリウスが、なんとかしてくれたよ。……まあ、その代わりシリウスをスカウトすることになったんだけどね」

 

 なるほどと桐野は納得する。

 話してみればすぐに分かるが、その二人はそれぞれ異なる種類のカリスマ性を持っている。

 それが見事に噛み合い、寄せつけないように立ち回ったのだろう。

 

「あの二人って、仲悪いんじゃないですか? よくまあ御せますね」

 

「御せるって……。まあ、なんだかんだでトレーニングには真摯だからね。お互いを意識してくれてたのは、こっちとしてはむしろ都合がよかった」

 

「そういうもんなんですねえ」

 

「そういうものさ。ウマ娘だからね。“走りたい”“勝ちたい”って気持ちは、ほとんど皆同じなんだ」

 

 明らかに、あの二人は霧原を“男性として”意識している――それを知ってか知らずか。

 桐野は姿勢を戻すと、一枚の書類を手に取り、ぱらぱらとめくり始める。

 会話が一区切りついたのを見て、二人は再び無言で作業に戻っていった。

 

 桐野は窓越しにグラウンドを見て手を止める。ここからもウマ娘が走っているのが見える。

 トレーニングメニューをこなすウマ娘のフォームが、少し乱れた気がしたからだ。

 たしかミホノブルボンという名前のウマ娘だった。

 

「……あの子、少し疲れてません?」

 

 霧原もその言葉に窓へと視線を向ける。

 

「うーん。まあ、まだ許容範囲だよね。スタミナが切れたときこそ、しっかりフォームを維持しないと減速――垂れちゃうからね。それに本格化前の子はフォームが安定しにくいってのもある。多少疲れてるように見えても、彼女たちは僕達が思うよりよっぽど根性もある」

 

 こういう何気ない時に見える練習風景からでも、きっちりと解説してくれる。

 心配が先に来てしまうのはまだまだ自分が未熟なんだなと桐野は思う。

 ウマ娘を近くで見ている分のウマ娘への信頼度の高さが伺える。

 

「まあ、それに彼女はまだ本格化前らしいから、スカウトももうちょっと先の話だね」

「……本格化前ってスカウト禁止なんですか?」

 

 桐野は首を傾げる。本格化――ウマ娘の身体能力が飛躍的に伸びる時期。

 

「そんなことはないよ。ただ、新人トレーナーはまずしないし、スカウトするにしてもチームかな。中等部の一年二年で本格化する子もいれば、結構時間が必要な子もいるから……。

 僕達トレーナーも給与とかに実績が関係するから、一年中トレーニングしかできない子は選びにくいし、ウマ娘からしてもトレーナーにスカウトされるイコールデビューのイメージがあるから」

 

「どっちから見ても損しかしない、一挙両失ってことですね」 

 

 中等部や高等部でもまだスカウトされていないウマ娘を見かけることがあったが、焦った様子がないのはそういうことか。と納得した。まだその段階に達していない子をスカウトするのは、両者にとってリスクが大きい。

 仕事を再開しようとして桐野の視線が、ふとある一枚の書類の上で止まる。

「一番近いのは『選抜レース』ですか」

 

 桐野が、書類をぴんと指で弾きながら口にした。

 見てみたいとは以前から思っていたが、予想以上にその機会はすぐに訪れそうだった。

 

 選抜レース――それは年に四度開催される、大規模なスカウトの場のひとつである。

 新入生が入学してきた直後、いわば“青田買い”の季節。

 よほどの名門の出身か、小学生時代に各地で行われる草レースなどで注目を集めていない限り、大多数のトレーナーがこのレースを視察に訪れる。

 

 選抜レースは、まだ体もできあがっていない新人たちが走る限りなく公式に近い“最初のレース”だ。

 走法ひとつ取っても、まだ理解が追いついていない段階での出場となる。

 教官が付いて一斉に基礎コーチングを施すものの、それはどこまでいっても付け焼き刃だ。

 地方では「自分が一番だ」と意気揚々とやってきた新入生たちが、野望を胸にスタートラインに並ぶ。

 

 だが、それでもこのレースは模擬戦ではない。実況と解説が入り、本番さながらの実践形式で行われる。

 そんな内容が、かつて専門学校時代に読んだテキストに記されていたことを、桐野は思い出していた。

 

 在校生が出走するケースもあるが、主にスカウトの対象となるのは新入生たちだ。

 本格化のタイミングが中等部一年で必ず訪れるとは限らないため、早熟かどうかの差異が結果に出ることも多い。

 

 なお、今年度はメジロマックイーンをメインに育成する方針であるため、新たにスカウトを行う必要はない。それが霧原の考えだった。

 とはいえ、チーム〈アルファルド〉にはまだ一枠の空きがあり、それを巡ってレースでの争いは必ず起こる。

 

 霧原自身は「スカウトを行うつもりはない」と明言していた。

 だが、確率がゼロでない以上、そこに望みをかける者は必ず現れる。

 そうした水面下の駆け引きは、トレーナー、ウマ娘の双方にとって情報戦であり、静かなる戦いでもあるのだった。

 

「そうだね。晴君も実際に見ておいたほうがいい。得られるものは多いと思うよ」

 

 霧原は、目を輝かせて楽しげに話す桐野の様子を満足そうに見守っていた。

 彼もまた、ウマ娘に自らを捧げるかのように、深くのめり込んでいる一人であった。

 

「……楽しみだな」

 

 胸が熱くなる。

 荒削りでも、全力で駆ける姿を、この目で見たい。

 桐野は書類を閉じ、窓の向こうの青空を見上げた。

 

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