あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。   作:七篠トレーナー

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4-新人トレーナーと知り合う。

『――ミッドナイトソア! すごい末脚だ!』

 

 1600m芝。

 ウマ娘たちのどよめき。歓声。足音。

 白熱した実況が響き渡る中、ターフを駆けるウマ娘たちが目の前を一瞬で通り過ぎていく。

 

『このまま先頭集団に並ぶか!? 二バ身半!』

 

「すげえな……」

 

 ベンチに腰かけたまま、桐野は思わず息を漏らす。

 誰に向けたものでもない。ただ圧倒されていた。

 グラウンドに立った瞬間、胸が高鳴った。

 これが本物のレースの空気だ。観客席のウマ娘たちのざわめきに身が引き締まる。

 

 心の奥底から湧き上がってくる感情は、間違いなく高揚だった。楽しさ、熱狂――手に汗握る展開に息を呑む。走っているのは少女たち。それだけのはずなのに、その姿は見る者の胸を打つ。

 

 係員に「何か手伝えることは」と声をかけても、「大丈夫です」とやんわり断られた。

 彼らの仕事だし、万全を期している。桐野は、ただ静かに見学することにした。

 

 どの顔も必死で、表情には凄まじい覚悟が宿っていた。

 選抜レースは、スカウトを待つウマ娘のほとんどが参加する。本格化の有無も関係なくレースの空気感を味わうことのできる、そして自らの魅力をアピールする、数少ない公の場。

 

 怪我などを見越してなど特別な事情がない限り、不参加という選択肢はほぼ存在しない。

 スカウトを受けられる可能性を掴み取るため。彼女たちにとって()()をかけた一戦だ。地を震わせるような蹄の音、舞い上がる芝の飛沫、こちらまで聞こえてきそうな呼吸の荒さ――そのすべてが、まるで魔法のように観客を魅了する。

 

 レースは芝とダート、距離ごとに分かれ、同じ距離に複数回出ることはできない。

 だが、距離が異なれば複数エントリーも可能だ。

 一つに絞る者もいれば、適性を測るため二種目以上に挑む者もいる。

 

 そのため、選抜レースは日数を分けて開催され、レース総数も膨大になる。

 桐野は、実況や解説を担当する人間の喉の強さに、ひそかに敬意を抱いていた。

 

「どうだい。気になる子はいたかい?」

 

 静かな足音とともに、霧原がベンチへと近づいてきた。

 桐野が顔を上げると、彼を目で追うウマ娘たちの姿があちこちに見え、互いに気まずそうな苦笑いを交わすことになる。

 

 霧原の手には缶コーヒーが二本。

 そのうちの一本を、彼は桐野に手渡した。

 

「ありがとうございます。……どうなんでしょうね。スカウトのつもりで来てるわけじゃないですし、今はほとんど観客みたいなものですよ。でも、レースってここで見ると雰囲気が全然違いますね」

 

 霧原が隣に腰を下ろすのを確認してから、桐野は缶のプルタブを引いた。

 彼の缶はブラック。霧原のはカフェオレ。

 お互いの好みは、既に何となく把握していた。

 

「もし、いい子がいればスカウトも視野に入れていいんだよ?」

 

 霧原のその一言が、静かだった周囲の空気を一気にざわつかせる。

 敏感な視線が、明らかにこちらへ向けられているのが分かる。

 “かかり気味”という言葉がぴったりだった。

 

(……今、ここでそれを言うか?)

 

 この発言が、今この場でどれだけの影響を持つのか。

 桐野はそう思いながら、何も言わずに缶コーヒーに口をつけた。

 

 ――チーム〈アルファルド〉の、残り一枠。

 

 その座を狙う未契約のウマ娘たちにとって、それは喉から手が出るほど欲しいチケットだ。

 たとえひそひそ話でも、ウマ娘の耳はいい。聞き逃すはずがない。

 そうした反応が起こるのも、無理はなかった。

 

 だが、霧原はというと、そうしたざわめきにもまったく動じる様子がなかった。

 泰然自若――まさにその言葉の通りの姿で、堂々とした態度を崩さない。

 

 (……二十代後半でこの貫禄は反則だろ)

 

 桐野は、内心で感嘆の念を隠しきれなかった。

 

「原っち先輩……それはちょっと過大評価では?」

 

 苦笑いを浮かべながら霧原を一瞥し、それからターフへ視線を移す。

 誰もが「自分こそが勝者だ」と信じて走り出す、そんな世界の一幕。

 霧原なら、きっと誰を相手にしても相応の成長を引き出せるのだろう。そう思わせる風格があった。普段の事務仕事の姿とは違い、今の彼の眼差しは鋭く、恐ろしさすら感じさせる。

 その慧眼に選ばれるのは容易ではない。ましてや選ばれたときの責任や負担を思うと、身が引き締まる思いがする。

 

「オレはなんていうか、ちょっとばかし頭が良かっただけです。次始まりますね」

 

 目を細め、コースを走る一人のウマ娘を見る。それは正直な気持ちだった。

 改善点は見える。けれど、形にする力がない。

 実践の裏付けを欠いた未熟さを、レースは容赦なく突きつけてくる。

 何より、最初が肝心だ。ウマ娘としての道を選び取る彼女たちの未来を預かるにはまだ早い。

 

『1200m芝。今――スタートしました!』

 

 ゲートが開いた瞬間、一人のウマ娘がつんのめっていた。桐野は思わず立ち上がりそうな気持ちを抑えた。

 

 育成とは、ただ鍛えることではない。

 どんなレースがあり、各競バ場にはどんな特性があり、対戦相手はどんなウマ娘か――そういった情報を織り込み、無数の選択肢の中から最善を選び抜く。その積み重ねだ。

 

『――おっとフェザーストライド大きく出遅れです!? 追いつけるでしょうか!』

 

 出遅れた様子のウマ娘を見る。焦った顔をしているが正しいフォームを意識して飛び出た。

 

 もちろん知識としては持っているが、それを実際にウマ娘にどう伝え、どう引き出すかはまた別の話。今の自分は、その入り口に手をかけているだけにすぎない。

 

 レースの合間、給水をしているウマ娘の姿が目に入る。凄い勢いで水を飲んでいる様子に桐野は思わず目を細めた。

「……あのウマ娘、がぶ飲みしてるけど大丈夫かな。横っ腹痛めなきゃいいけど」

 

 自分でも気にしすぎだと思う。それでも、つい口から漏れてしまう。

 

「大丈夫だよ。彼女たちは慣れている。元気すぎるぐらいで良いね。それに複数走る予定ではないらしいし、今日はやっても流すぐらいだろう」

 

 そんな言葉が聞こえてしまったのか、霧原は苦笑しながら肩をすくめた。

 スカウトを絞るとは言ってるが、霧原がアテをつけるぐらいにはウマ娘の情報を拾っているのは知っていた。聞けばどういうウマ娘かを説明してくれるだろうという底知れなさがある。

 

「えらく慎重だね、晴君は。首席じゃないにしろ、上位の成績を出したって聞いてるけど……落ち着いてるね」

 

「だからこそですよ。中途半端な立ち回りじゃ、担当するウマ娘に迷惑がかかる。オレが無茶して自分が後悔するのは勝手だけど、巻き込まれる彼女たちはたまったもんじゃないでしょ」

 

 缶コーヒーに口をつける桐野の言葉に、霧原は少し目を見開き、そして微笑む。

 

「いいんじゃないか。それで。晴君に担当してもらえるウマ娘は、幸せだと思うよ」

 

 機が熟すのを待つ――桐野は、そういうタイプなのだろうと霧原は思った。

 若さに任せて突っ走るようなタイプではない。落ち着いていて、腰が据わっている。

 成績だけを見れば、サブトレーナーではなくトレーナーとして即採用でもおかしくなかった。

 だが彼は、サブトレーナーとしての誘いにもすぐに飛びつくことなく、慎重に返答してきた。

 

 霧原がトレーナーになったのは、年齢的に言えば霧原より遅かった。筆記試験で一度落第したからだ。だが、合格してすぐにシンボリルドルフのトレーナーとなり、数々の交渉を経て了承を得た。

 そしてすぐに確信した。この才能を枯らせてはいけない、と。

 その一心で突き進んできた。何よりもルドルフの成績が素晴らしかった。すべてが報われるような充実感があった。

 

 できるなら、桐野にも――短い時間でもいい、ウマ娘たちと真剣に向き合う姿を見てみたい。

 そして、その先に育まれるウマ娘の姿を見てみたい。さらに言えば、彼の育てたウマ娘を倒すウマ娘を自ら育てたい――そんな思いすら芽生えていた。

 

「原っち先輩なら、そんなに悩まないんでしょうね。胆力が違いますよ」

 

 桐野は笑いながらそう言った。霧原はその笑顔に、未来への期待を重ねていた。

   

「大丈夫。晴君もいずれはそうなるよ。僕のサブトレーナーなんだから、いずれは有力なライバルになるように育てるからね」

 

 霧原は冗談めかして言ったが、その目は本気だった。彼は冗談を交えることもあるが、根は極めて生真面目な男である。

 その視線に、桐野は冷や汗がにじむような気分になり、乾いた笑みを浮かべるしかなかった。

 

「……書類仕事のスキルだけ上がっていく気がします。実際に担当ウマ娘を持つようになったら役立つのは分かるんですが」

 

 彼がそう返すのも無理はない。現時点で桐野が任されているのは、ほぼ書類整理だけだ。たまに、空いた時間でトレーニングの様子を見学することはあっても、指示を出す立場ではない。

 

「もう少ししたらキリが良くなるから、それから本格的にトレーニングに参加してもらうよ。

 この時期はどうしても書類仕事が増えるんだ。僕もほとほと困り果ててて……たづなさんに、もう少し選別してもらえないか相談してみようかな」

 

 実際のところ、霧原と桐野の二人では処理しきれないほどの量に忙殺されている。たまにシンボリルドルフが「手伝おうか」と申し出てくれることもあるが、ウマ娘にそうした負担をかけるわけにもいかず、そもそも中には彼女たちに見せられない内容の書類もある。そのため、日夜、二人でひたすら書類仕事に追われていた。

 

 桐野としても、入ったばかりでいきなり残業続きになるとは思ってもみなかったし、徹夜明けにふらふらしているところを駿川たづなに見つかれば、決まってお小言が飛んでくる。その矛先は大体、霧原の方へ向かうのだが。

 

「そうなるといいですね。春先はイベントごとも多いですもんね。正直、想像していたのと違ってちょっとビビってますよ。書類の山が本当に()になってるなんて、不思議なことに処理してるのに減ってる気がしないんですよね……」

 

 次に待ち構えている書類仕事の山を思い出しながら、桐野はひとつ、ため息を漏らした。

 

 目で追っていたウマ娘を見つめ、視線が止まる。

 違和感に頭の中にちりりと電流のようなものが走る。

 思わず立ち上がる。ベンチから立ち上がる瞬間、足元に一瞬だけわずかなぎこちなさが走った。

 

 次の瞬間、弾かれたようにターフへ駆ける。

 

「そこ、道を開けてもらえるか!」

 

 霧原の声に、通路が割れるように開く。霧原は頷くと選抜レースの会場設営方向へと向かう。

 桐野は外ラチに手をかけ、一気に飛び越えた。

 

 体がふわりと宙に浮く。着地と同時に走り出す。

 そしてもう一人のトレーナーがも同様に並んで外ラチを飛び越えていたのが視界の端に映る。

 

 レース直後の騒然とした空気の中で、それはやや異様に映る行動だったが、他のトレーナーの中にも、同じことに気づいていた者たちがいた。

 

 ――後ろから三番目でゴールしたウマ娘。

 走り終えた彼女は、左足をわずかにかばうような仕草を見せていた。

 

「キミ、足を痛めてるね?」

 

 ――黒鹿毛のウマ娘は、その髪の下で走りきった疲労のせいか苦しげな表情を浮かべ、そして愕然としたような顔を見せた。そしてようやく頷く。

 きっと、自分でもわかっていた。それでも、走ることを選んだのだ。

 

「ごめん、持ち上げるよ!っと」

 

 桐野はそう言うと彼女を抱き上げた。膝の奥で、かすかに悲鳴が上がる。

 思いの外軽い。この小さい体であれだけの速度を出すことにあらためて驚いた。

 

 もう一人の黒い髪のトレーナーの背中が見えた。教官たちへと事情を伝えに走っていく。

 その事に心の中で感謝しながら彼女をそっと抱え、ターフの外へと移動した。

 

 いわゆる「お姫様抱っこ」の形になり、ウマ娘は「あの……」と恥ずかしそうに声を上げるが、気に留めることなく近くのベンチまで連れて行き、そっと降ろす。

 こういう場面のためのものではなかったが、鍛えていた意味を感じる。

 

 救護班の手配は、霧原がすでに動いているはずだ。

 もう一人のトレーナーがこの場所を伝えているはずだ。

 

「触れるのは良くないから、靴と靴下、自分で脱げそうかな?」

 

 怪我の程度を確認するには、まず目視からだ。

 触れて悪化する場合もある。

 

 ウマ娘は痛みに顔をしかめながらも、一呼吸置いてゆっくりと頷き、靴下を脱いでいく。

 

 その様子を見て、桐野はひとつ安堵の息を吐いた。

 

「……よかった。見た感じ大きな怪我ではなさそうだ。捻挫が悪化したか、あるいは今やったか……」

 

 足首が赤くなっており、やや腫れて熱を持っているのが見て取れた。骨折のように見える変形はない。

 

「よくこの状態で走りきったね。すごく頑張った。でも、無理は良くないよ」

 

 優しく笑みを浮かべてウマ娘を見つめると、彼女の紫色の瞳にじわりと涙が浮かび始める。もうすぐ溢れそうだと気づいた桐野は、慌ててハンカチを取り出した。

 

「まあ、そういうこともあるさ。見た感じまだ悪化してはいないし、キミの感じだと本格化はまだだよね。焦らなくて大丈夫だよ」

 

 まだトレーナーでもないのに、何を言っているんだと自嘲しながらも、安心させるにはこれぐらい言い切ったほうが良いと判断した。ハンカチを彼女に手渡し、涙を拭ってもらっていると、救護班が到着する。思っていたよりも早かった。

 

 初動で霧原が動いたのも大きかったし、救護班の手際もよかった。さらに、もう一人のトレーナーが道を開けてくれたおかげで、対応も迅速だった。今になって遅れて疲労感がやってきた。息苦しい。

 

 状況を簡単に伝えて処置を任せると、桐野は立ち上がって深呼吸をする。

 

 ウマ娘は深く頭を下げてくる。軽く手を振って応えると、その場を後にした。

 

 霧原と合流すると、彼の隣にあのもう一人のトレーナーが立っていた。

 

「晴君」

 

 霧原が、目で状態を尋ねる。

 

「たぶん、捻挫だと思います。コーナーで捻ったのかもしれません。救護班に任せたので、もう大丈夫でしょう。……それで、そちらは?」

 

 桐野は霧原と向き合っていた青年に目を向ける。彼は、さっき一緒に飛び込んだトレーナーだ。

 

白椿(しろつばき)です。俺も、あの子の様子が気になって飛び込んだんですが……飛び込んだはいいけど、正直どうしていいかわからなくて」

 

 そう言って、照れたように困ったように笑った。汗を拭いながらすこし肩で息をしていた。

 処置を終えた事を伝え、白椿の表情も安心した様子だ。

 

「俺は桐野。こっちは先輩の霧原トレーナー」

 

 名乗り、三人が頷き合う。

 

「あー。あの霧原さんですか。どもっす」

 

 名前にピンときたのか白椿が軽く頭を下げる。

 

「白椿さんって、あの()()って噂の白椿さん?」

 

 その名前には聞き覚えがあった。成績優秀で、いま最も熱いと言われている新人トレーナー。下の名前までは思い出せなかったが、サブトレーナー経由ではなく、いきなり担当を持つ予定と噂されている逸材だ。年齢も、自分より一つ上だったはず。

 さっぱりとした短髪と力強い濃い黒の目が確かな自信を秘めている。

 

 桐野も能力はあるという自負はある。けれどそれは精神的な優位性――つまり「緊張しない」という下駄を履かせていての優秀さだ。

 向こう(前世)の世界で生きてきた桐野にとって、「命のやり取りのない場」では極端な恐怖を覚えることはない。そのため、ほぼ常に一定のパフォーマンスを維持できる。

 

 しかし、目の前の白椿は、その“特性”を超えてくるものを持っていた。天が与えた傑物。そんな印象だった。

 

「……そういう噂あるみたいで。まあ、まだ実績もないのに、ちょっと大仰っつうか」

 

 白椿は、謙遜するように言った。

 もっと傲慢な男かと思っていた。首席という肩書は、そういうイメージを生むものだった。だが今の姿勢を見る限り、謙虚な男だ。

 それに飛び込んだ様子を考えれば自分と似たような感覚を持っているのかもしれない――そんな印象に変わる。

 

 むしろ、好感が持てる。強いて言わなくても、いい男だ。この男は。

 

「ここで話してるのもなんだし、場所を変えない?」

 

 桐野が提案する。周囲にはウマ娘たちがたくさんいたからだ。

 当然だった。この二人のどちらかにトレーナーになってほしいウマ娘がたくさんいるのだ。自分はちょっと場違いな気すらしてくる。周囲のざわめきが聞こえてくるが、自分にはその内容まではわからなかった。

 

 その場を離れるまで、ウマ娘たちの声は絶えなかった。

 

 堂々とした二人を見て、少しはその精神を分けてほしい――そんなことを思いながら、桐野は歩き出した。

 

 

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