あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。 作:七篠トレーナー
トレセン学園からそう遠くない商店街の居酒屋。その個室にて。
選抜レースを適度に観戦し、ウマ娘のケアを終えたあと、三人は仕事を片づけてから合流することになった。担当ウマ娘たちからは羨ましげな視線を向けられたが、霧原が「これは大人の付き合いだ」と説得してくれたおかげで、なんとか丸く収まった。そもそも未成年どころか、学生を酒の席に連れてくるのは教育者として好ましくない。
「お疲れ様です」
提出書類を片づけていたら思いのほか時間を取られ、少し遅れてしまった。店に入り、先に来ていた白椿と霧原を見つけ、声をかけながら上着を脱いで座椅子に腰を下ろす。テーブルにはいくつかの料理と、すでに空になったジョッキが二つ並んでいた。
「すみません、生三つで」
通りすがりの店員に声をかけ、手元にあったおしぼりを取って温める。四月とはいえ夜風はまだ肌寒く、手のひらに伝わるぬくもりが心地よい。
「桐野さんとは、同期での飲み会以来かな?」
「そうですね。同期って、結局ライバル関係になりますし……」
桐野はやや濁した言い方をする。サブトレーナーの自分はまだしも、本職のトレーナー同士はそれぞれのウマ娘を育成するライバル同士になりかねない。育成方針や情報の共有も難しい。
Laneには同期の連絡先一覧があるが、メッセージ履歴はほとんど空白のままだ。同期のグループチャットも、最初の飲み会以降はほとんど動いていない。共通の話題はウマ娘のことくらいだが、それすら戦う上の情報なのだから話せない、そうなると話題も尽きるというものだ。
「会話デッキがウマ娘しかないと、そうなりがちだよなあ」
白椿の言葉に、霧原が「なにそれ?」と首を傾げる。二人が笑う。
「カードゲームに例えるんですよ。最近のウマチューバーとかが、自分の会話のレパートリーのことをそう呼んでて」
ジョッキに口をつけ桐野がフォローする。この世界は娯楽も情報もあふれている。原理は理解できても、いまだに驚くことばかりだ。もし
かつては「あの頃にこれがあれば」と詮無いことを考え、思考を抑えるのに苦労した。
だが今は受け入れ、素直に楽しめるようになった。
最近は時間がなくて追いかける時間が少し足りないが、ゲームやドラマやらなんかを積んでいる。
娯楽は、やっぱり楽しいものだ。
「原っち先輩は、ウマチューバーとかあんまり興味なさそうっすよね」
「いや、興味はあるんだけど……時間がなくてね。誰かを追い続けるのって、意外と難しいんだ」
「俺はけっこう見ますよ。ウマチューバーもストリーマーも。ウマ娘たちも話題にしてくるんで、ネタの仕入れにもなるし」
「確かに」
桐野は頷いた。ウマ娘たちは年頃の少女たちで、興味関心の幅も広い。走るのが本業とはいえ、トレンドにも敏感だ。一方のトレーナーたちは、成人していて、年齢も彼女たちの倍近いことが多い。チームトレーナーともなれば、多忙を極めて流行に疎くなりがちだ。
逆に若いトレーナーたちは、情報への感度も高く、吸収も早い。専任で動くことが多く、時間に余裕もある。霧原も本来はその「若い部類」に入るはずだが、忙殺されている今は、そういった余裕すらない。
「あ、俺は椿でいいよ。みんなそう呼ぶから。俺も原っち先輩と晴でいい?」
唐揚げを頬張りながら頷き合う。意外と付き合いやすいタイプのようだ。肩肘張らずに済むなら、それに越したことはない。それにしても揚げ物とビールの組み合わせは上位に入る。
トレーナーの家系出身で、名門と比べると一枚落ちといったところらしいが、自信のなさは微塵も感じられない。首席というだけあって、どこか洗練された雰囲気をまとっている。
ウマ娘とトレーナーの世界には、寒門から名門まで多種多様な出自がある。桐野の所属するチームで言えば、シンボリルドルフ、シリウスシンボリ、メジロマックイーンが名門にあたるらしい。確かに、普段の振る舞いを見ていても清廉潔白を地で行くような存在だ。
……その仮面が剥がれるのは、もう少し先の話だが。
「さっきのあの子、軽度の捻挫だったらしいよ。良かったわ」
白椿が、ここに来る前に救護班から聞いてきたらしい。怪我の報せに三人そろって安堵する。
「何度味わっても、ゾッとするよね。ああいうの」
霧原が、店員から受け取った新しいジョッキに目を落としながら呟いた。
泡が弾ける様子に彼女たちの印象を重ねたのだろうか。
怪我はつきもの――それは分かっていても、目の前で起きると全身が一瞬にして冷えるような感覚に襲われる。桐野と白椿にとっては初めての体験だったが、霧原はこれまでに何度も味わってきたのだろう。
おそらく、すべてのトレーナーが同じ感覚を持っている。そこだけは、確かな共通認識だ。
「それにしても、二人ともよく気づいたね。新人なのに」
霧原が思い出したように顔を上げ、二人に視線を向ける。
桐野と白椿は目を見合わせ、ほぼ同時に口を開いた。
「……まあ、なんというか違和感ですかね。急に姿勢が変わったように見えて」
「俺も同じ。あの子の表情が、何かに気づいたような顔になって、その直後に少し減速したんです」
似たような感想に、霧原は満足げに頷いた。
「目がいいんだね、二人とも。いやな言い方だけど、こういうことはよくある。ベテランたちも気づいてはいたけど、真っ先に飛び出したのは驚いたよ。そういう新人めったにいないけど、今年は二人もいるなんて豊作だね」
「原っち先輩だって飛び出したじゃないですか」
「まあね。状況的に控えてたけど、救護班も忙しいから負担にならないようにって思ってたんだ」
あとから思えば思うほど、先走ったようにも感じる。確かに異常は“あるある”であり、良いことではないが日常でもある。だから他のトレーナーがすぐに動かなかったし、救護班は優秀で即座に駆けつけた。焦って飛び出したのが、逆に恥ずかしくなるほどだ。
霧原は話の区切りをつけるように、上着のポケットからタバコを取り出し、二人に目をやる。
「吸ってもいい?」
二人が桐野に視線を向ける。桐野が小さく頷くと、テーブルの端に置かれていた灰皿を手前に寄せた。
それを了承と受け取った霧原は、マッチを擦り、タバコに火をつけて紫煙をくゆらせる。
「煙草、吸うんだ。意外だね」
「俺たちの世代だと、かなりレアじゃないですか?」
「僕よりちょっと上の世代くらいまでですね、多かったのは」
「いやはや、分煙進んだからね。吸える場所探すのも大変でさ。まあ、吸い始めたのもそんな昔じゃないけど」
これは、向こうの自分と地続きの、数少ない嗜好のひとつだった。
もちろん、法律を破ってまで吸う気はなかったし、喫煙が原因でトレーナー資格が取れないなんてことになったら洒落にならない。きっちり二十歳になったその日に、初めて一服した。
こっちの煙草は質も良いしやたらめったらに種類が多い。まだどれをメインに吸うかを決めあぐねていた。
「まあでも、寮か外でしか吸わないようにしてるし、結構気は使ってますよ。ウマ娘って嗅覚、けっこう鋭いみたいだし」
嫌な顔をされたことはまだないが、好きじゃない人には刺激臭にしか感じられないらしい。健康面の配慮もあってか、遠回しに「吸いすぎないように」と言われたこともある。
――まあ、「禁煙しろ」とまでは言われなかったけれど。
酒が進むにつれて、霧原は少しずつ饒舌になっていった。
最初は落ち着いて話していたのが、次第に笑い声が大きくなり、身振り手振りも増えていく。
「酒よりこっちのほうが合ってたんですよね。リラックス、リラックス」
「なんか、そういう言い方すると悪いものみたいじゃねぇか」
紫煙がゆらりと上がる。油を弾く音と、店内のざわめきが心地よく混ざる。
桐野は、一日に数本吸う程度だ。少し時間を空けて吸えば、軽く頭がクラクラするのもそのせいだろう。だが本人にとっては、仕事とプライベートを切り替えるためのちょうどいいスイッチになっている。
そもそも問題があるなら現代日本でも最初から禁止されているはずだろう、と彼は思っている。
煙草が『嗜好品』というジャンルに入っていいる以上、気にする必要はない。
「ま、ほどほどにな。トレーナー室がタバコ臭くなるのは、あまり褒められたことじゃないしな」
「ずっとウマ娘のことで頑張ってるし、こういうので区切りつけられるならいいんじゃないか?」
二人とも、そこまで悪い印象は持っていないようだ。
ヘビースモーカーでもなく、業務に支障が出るほどでもないなら、それでいい。その程度の緩い反応だ。
桐野もそれは理解している。ウマ娘にやめろと言われたらきっぱりやめるつもりでいる。
とはいえ、じゃあ最初から吸うなよと言われれば「それはそれ、これはこれ」で済ませるつもりでいる。
「それで、椿君。スカウトの目星はついてるのか?」
霧原が話題を切り替える。
おそらく、将来的にライバルになる可能性があるから気になったのだろう。
料理が運ばれ、酒も進む。話題が変わればまた、酒も進む。
「うーん。今のところはナイスネイチャって子がいいかな。有力候補だね」
「いいよねナイスネイチャ。本人の性格上、少し後ろ向きに見えるけど……目を引くものはある。余裕があったら、僕もスカウトしてみてもいいかなって思ってる」
「他にはトウカイテイオーかな。昔からちょっと付き合いがあるから、本命になるかもしれない。……まあ、競争率はすげぇ高そうだけど」
「どっちも聞いたことあるな……」と桐野は呟く。
その後に挙がった名前も、どれも聞いたことのある期待度の高いウマ娘ばかりだった。
さすが、周囲から注目されている新人トレーナーだけはある。
狙う標的が大きければ、その分、担当するウマ娘の資質も比例してくる。
……にしても、トウカイテイオーと昔から付き合いがあるってどういうことだ? と、桐野は内心首を傾げた。
「一強って言われるぐらいにはね。ウチのルドルフに憧れてるって話は、ルドルフ本人からもよく聞くよ。
破天荒というか、自信家な子だよね。ベテラントレーナーに組ませる手もあるけど……むしろ、椿君みたいな新人トレーナーのほうが相性がいいかもしれない」
霧原の所感になるほど。と白椿が頷く。
「お互いに育て合うような関係性のほうが、のびのび走れる感じはするよね。気質的に。
逆に、ウチでスカウトできる立場にあっても、僕は多分取らないかな。チームってこともあるから窮屈になりそうだし」
「シンボリルドルフに憧れてるって話はよく聞きますもんね。
確かに、もしそっちで受け持ったら、ルドルフと同じ走りを意識しすぎて、かえって窮屈になる気がする。できれば彼女には彼女らしい走り方で、いずれシンボリルドルフを超えていってほしいって思います」
「いいね。僕はそういう考え方、好きだよ」
「お褒めにあずかり、どーも」
冷静でいて熱のこもった視線。
どちらのウマ娘を担当するにせよ、間違いなく頭角を現すことになるだろう。
そして、どのトレーナーが育てるかで、そのウマ娘の色が決まってくる。
霧原が言うには、「自分のチームだけが強くても意味がない」のだそうだ。
切磋琢磨することで、より鋭く、美しくなっていく走りを見るのが好きなのだと語っていた。
確かに、やり手のトレーナーらしい意見だと桐野は思った。
希少価値の高い宝石の原石を磨くには、トレーナーとウマ娘の力だけでは足りない。
そこに、良きライバルとなる相手の存在が必要になる。
ただ「走るのが好き」「走りたい」という気持ちだけでは足りず、「勝ちたい」と思わせる精神的な火種が必要なのだ。
それを引き出すのもまた、トレーナーの手腕の一つである。
「お手柔らかにしてくださいよ、先輩。まあ、育てたら俺が勝たせますけどね」
「期待しているよ。とはいえ、今年度は今のところスカウト予定はないからな。あるとしてもマックイーンと走るなら、最短でもジャパンカップあたりか。でも三冠を狙うだろうから、ローテ的に厳しいだろうね」
二人の会話は、桐野が今いる場所より一つどころか、二つも三つも先を行っているように感じられた。自分たちが育てるウマ娘はG1制覇して当然――そう語る姿勢には、揺るぎない自信がある。重賞ですら取れるのはごく一部のものだが、頂点のG1となれば1%未満だ。
「羨ましいことですなあ。オレなんか、まだ事務処理ばっかですよ」
冗談めかして笑ったが、半分は本音だった。
今は、じっと力を蓄えるしかない雌伏の時――そう思う。
書類に埋もれる日々も、ウマ娘に関わる仕事であることに変わりはない。
いずれ羽ばたく日のための、準備運動みたいなものだ。
遠くからジュワッと油が弾く音が響く。
唐揚げの香ばしい匂いがふわりと漂い、空のジョッキに氷水が注がれる音が心地よい。
「晴だって、一、二年もすればトレーナーになるんだ。その時までの先行者有利はもらっておくけどな」
挑戦的な笑みとともに視線が向けられる。獰猛な気配を含んだ、心地よい威圧のような空気。まるで猛獣と目が合ったような感覚だ。
そこまで期待されているとは、正直想像していなかった。まだスカウトもまだだが、霧原トレーナーの下につくという事の期待度のようなものなのだろう。白椿の様子を見る限り、彼が専任のウマ娘をスカウトするのも時間の問題だろう。
もしタイミングが合えば、トウカイテイオーはまず彼のもとに来るに違いない。
「晴がトレーナーになったら、原っち先輩の事務作業の倍率がドンッ! 忙殺されて手が回らなくなるかもしれないし」
霧原は頭痛を覚えたかのように目を閉じ、こめかみを押さえた。
本当にそれを想像して、頭を抱えている様子だった。
「ほんとにそれな。今から考えても頭が痛いよ。晴くん、このまま事務員やってくれないかな」
白椿が笑い、霧原もと苦笑いを漏らす。 ジョッキがぶつかり、ビールが零れそうになる。
酒のせいか、三人の声はさっきより少し大きくなっていた。
桐野は「それは困ります」と少し赤くなってきた顔で笑いながら手を横に振る。
実際、今桐野が抜けたら霧原は確実にパンクするだろう。だが理事長や駿川がそれを見過ごすとは思えない。仮にそうなっても、彼が簡単にパフォーマンスを落とす姿は想像しにくい。
「いやですよそんな。トレーナーバッジ、なんのために取ったと思ってるんですか」
「冗談さ。駿川さんに都合をつけてもらうしかない。どうせ仕事はまた増える予定だからね」
自分のウマ娘たちの勝ち鞍が増える。だから仕事量も増える――という意味だ。
ただ、霧原という男は事務作業をしている時は疲れて見えるのに、練習場に行ってチームメイトのトレーニングを見ている時は明らかに活力を取り戻しているように見える。
出る前は疲れ切っていたのに、戻ってくるときには元気そうなのだ。
――トレーナーというのは、そういう職業なのだろうか?
「それに、
酒の力もあってか、霧原は饒舌だった。普段は口にしない「僕の」などという言葉も飛び出す。
担当するウマ娘たちを平等に扱う男だが、初めて受け持ったウマ娘であるルドルフには、やはり特別な思いがあるのだろう。
普段なら語らないようなトレーニングの秘訣や接し方、戦績の話までどんどん話していく。
――これは、良くない酒かもしれない。
桐野と白椿はお互いに目を合わせ、眉をひそめた。氷水の入ったジョッキを三人分貰って口にする。あまり飲ませないほうがいいな、と小さく頷き合う。
元々、目の上のたんこぶのような存在だった霧原は、あまり酒宴に呼ばれないことが多かった。それがかえって良かったのかもしれない。あるいは、今日は珍しく呼ばれて気分が良くなっているのかもしれない。
そして、その口がとんでもない一言を放った。
「今年、ルドルフは
店内のざわめきが一瞬遠のいたように感じた。
氷がカラン、と静かに鳴る。
桐野と白椿は、ぎょっとして顔を見合わせた。
15話まではできてますが、ちょっとコロナかインフルかかったぽいのでペースおとすかもしれません。