あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。   作:七篠トレーナー

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7-予定を伺う。

「晴君。ほんっとうにすまない!」

 

 翌朝。トレーナー室にて。扉を開けた瞬間霧原の第一声が飛んできた。

 昨日の赤ら顔とは正反対の、真っ青な顔である。まるで処刑台に立たされた罪人のような顔で立ち上がった。

 桐野は思わず引いた。

 

「いや、そんな謝罪の構えやめてくださいよ……。頭、上げてください」

 

 土下座でもしそうな勢いだったが、されても困るので先に制した。

 プリンタが「ガガガ」と紙を吐き出し、コーヒーメーカーからコーヒの香りが漂っている。 

 桐野は上着のポケットから財布を取り出し、昨日のレシートを取り出す。

 

「これ、昨日の先輩の泥酔代です。払ってくれたら昨日のことは忘れますんで」

 

 自分でも悪い顔をしていると思う。だが、少しだけ楽しい気分だった。

 レシートを机の上に置くと、霧原は「悪いね、ええと……財布財布」と言いながら、するりとピン札の一万円を取り出し、手渡してきた。

 

「お釣りはいいよ。勉強代ってことで……」

「領収書いります?」

「いや、いいよ」

 

 照れたような笑みを浮かべる霧原。桐野は心の中で、お釣りは椿と分けようと考えた。

 こういうものは後腐れなく受け取っておいた方がいい。

 

「すっとピン札出してきましたね」

「備品とか蹄鉄の換えとか結構掛かるからね。10年前の自分に言いたいよ。スリには気をつけようねって」

「なんですか。もしかしてスられたことあるんです?」

「一度財布を落としたことあってね。警察に届け出されてたのは奇跡だね」

 

 からからと笑う霧原。この様子なら結構な金額が財布に入っているのだろう。

 自分のまだ薄い財布が厚くなる様に頑張ろうと思った。

 

 仕事中にちらっと聞いた話だが、霧原はかなり稼いでいるらしい。

 トレーナーには基本給があり、それだけでも大卒の初任給よりは良いらしい。そこに加えてインセンティブが入り、担当ウマ娘がレースで掲示板入りすればさらに収入が増える。

 G1を制覇したり、人気や知名度に応じてグッズが出れば、その利益の一部も収入になるという。

 

 「らしい」尽くしなのは、まだ桐野自身が初任給を受け取っていないからだ。

 それでも、トレーナーとしてのモチベーションの一つになるのは間違いない。

 トレーナーバッジを見せたとき、兄に「いよっ! 高給取り!」と担がれたが、どうやらそれも本当になりそうだった。なってほしい。

 

 サブトレーナーは、トレーナーと相談して報酬の割合を受け取ることもできると聞く。だが、桐野はそれを断った。

 自分が担当していないウマ娘の報酬から給金を得るのは、何か違うと感じたからだ。

 それに、いざ正式なトレーナーになったときに給料が下がるのも気分が良くないし、そのためにウマ娘を走らせるような気持ちになるのも望ましくない。

 

 実際問題、実績を出しているチームのサブトレーナーは多忙だ。

 トレーナーが高給取りでも、サブトレーナーが固定給では格差が生じ、モチベーション低下につながる可能性もある。

 かといって、場合によっては新人トレーナーよりもサブトレーナーの方が稼いでしまう――それはそれで環境として好ましくない。痛し痒しの制度なのだ。

 

 「金がなくて困ることはあっても、金があって困ることはほとんどない」桐野はそう考えていた。

 

 働き始めて間もないころ、霧原からは再三「一割を受け取ってほしい」と言われた。

 しかし桐野は断固として拒否し、書類の不要欄にチェックを入れた。

 困った顔をした霧原に理由を告げて、なんとか納得してもらったのだ。

 

 霧原にとっても初めてのサブトレーナーだっただけに、今後の前例としては、少しばかり苦い思いが混じったに違いない。

 

 桐野は自分の席に座り、ノートパソコンを開いた。電源を入れて起動を待ちながら、向かいの霧原の様子をちらりと見る。

 

「原っち先輩、あんなに酒が弱いとは思いませんでした」

 

 どうやら二日酔いはないらしい。桐野は密かに安堵した。

 仕事は日々増えているが、最近はようやく波が落ち着きつつある。それでも作業量が減ればすぐに追いつかなくなるかもしれないし、急な追加業務が来る可能性もある。

 

「僕も驚いたよ……。前はもうちょっと飲めたんだけどね。やっぱり、しばらく飲まないと自然と弱くなるのかな」

 

 霧原はかりかりと頭を掻き、二度三度ため息を吐く。

 本当にやらかした――そう思っているのは明らかだった。予想以上に反省している様子に、桐野はそれ以上突っ込むのをやめる。

 

「それで――ああ、いや。ルドルフくんが……全員そろってからですかね。詳しい話は」

 

 桐野が切り出すと、霧原はすっと真面目な表情に戻る。

 

「まあ、あくまで予定だけどね。実際にノミネートが出るのは五月中頃だ。正式発表は来月頭。今のところ知っているのは、理事長周りとルドルフ、帯同バ予定のシリウスだけだ。他で知っているのは晴君と椿君の二人。みんなに話すのは、もう少し先になる」

「ほんと気をつけてくださいよ。オレと椿、酔いが一瞬で冷めましたからね」

 

 じとりと半眼で睨むと、桐野は「ま、これ以上は言わないけど」と前置きしてから続けた。

 

「酒は飲むなとは言わないけど、自重してくださいよ。原っち先輩、酒が入ると気が大きくなるタイプみたいですし」

「いやあ、はは……。気をつける」

 

 霧原は苦笑しながら答え、桐野はカタカタとキーボードを叩き始めた。とりあえず話はここで一区切りだ。

 

 ふと霧原が息を整え、改まった口調で言った。

 

「それで、本当はもう少し先で言おうと思っていたんだけど――晴君をサブトレーナーにした理由の一つでもあるんだ」

 

 一呼吸置いて視線を上げる。その目と自然に合う。

 理事長と相談のうえで許可された、四人体制での活動。正式なチームとしてサブトレーナーを加入させるための布石。

 桐野は改めて、霧原という男の手腕に驚きとわずかな恐怖を覚える。これだけの例外を通してくるのか、と。

 

「凱旋門賞……」

 

 桐野は、机の上に置かれた資料の端を指先でなぞった。

 日本競バ界において、夢と挫折が入り混じる名前。何十年も挑戦して、なお勝てなかった壁だ。

 

 そして言葉は続いた。

 

「そうだ。凱旋門賞に遠征に行くのは、当然、僕とルドルフとシリウスだ」

 

「あ、ああ――ああ」

 

 桐野はすぐに理解した。

 オグリキャップとメジロマックイーンは()()()()()

 つまり、実質的に彼女たちを担当するのは桐野ということになる。

 

 プレッシャーが背中に覆いかぶさるようにのしかかり、冷や汗が吹き出す。

 ――否が応でもやらなければならない環境を、整えられてしまったのだ。

 

「そのために、四月いっぱいは事務作業を詰め込んで覚えてもらう。五月からは基礎トレーニングの指示出しやスケジューリングを任せる予定だ」

 

 霧原は手元の資料を軽く指で叩きながら、淡々と説明を続ける。

 

「一応、大雑把なローテは組んである。オグリは夏から調子を上げて秋の天皇賞を狙う。マックイーンは皐月賞もダービーも見送って、長距離の菊花賞をターゲットにする。細かいローテは、今後詰めていく」

 

(うーん……わーっと情報をぶつけないでほしい)

 

 桐野は心の中で呻いた。

 要するにパワーレベリングだ。

 新人トレーナーが一年かけて学ぶ内容を、数カ月に詰め込んで最低限の水準まで引き上げる。しかも、その上でさらに成果を求められる。

 

 手のひらにじっとり汗が滲む。

 

 ああ、これが緊張か。

 

 桐野はほとんど無縁だった感覚を、ここでようやく自覚した。

 今までの緊張はせいぜい自分の行動に自分が責任を負う範囲に限られていた。だが、これは違う。自分の判断が、他人の人生を大きく左右する――そういう重みのある緊張だ。悪くない感覚が体を駆け抜ける。

 

 凱旋門賞は十月の最初の日曜日に開催されるのが通例。菊花賞も秋の天皇賞もその後に控えている。つまり、霧原は帰国後にさらに追い込みをかけるプランまで描いている、ということだった。もちろん状況次第で調整はあるのだろうが、霧原は淀みなくスケジュールを読み上げていく。

 

「え、マジで言ってます?」

「マジなんだよなあ」

 

 あまりにも軽く言われ、桐野は内心で毒づいた。

 ――こっちはピカピカの一年生だぞ。

 

「代打、サブトレーナー椿」

「残念ながらそうはならなかった。晴君がドラフト一位なんだよねえ」

 

 霧原はにこにこと笑うだけだ。何か言い返そうとしたが、桐野は結局、適切な言葉を思いつかなかった。

 

「本当は椿君をサブトレーナーにする案もあったんだよ。ただ、理事長とか駿川さんが『首席ッ!彼には即トレーナーになってほしい!』って言ったからね」

「次善策かよ。ドラフト二位じゃねえっすか……まあ、これ以上ない評価をもらったのはありがたいような、困ったような」

 

 もう無理だ。

 言い返す手も、状況をひっくり返す策も、桐野には持ち合わせていない。

 

 お手上げだ――そう言わんばかりに両手を挙げ、ついでに背中をぐっと伸ばした。

 

「やれるだけやりますよ」

 

「理事長納得の推薦だ。そういう晴君だから選ばれたんだろう」

 

 桐野は心の中で、面談のとき含めて秋川やよい理事長としっかり話したのは二、三度しかないことを思い出した。

 それ以外は、せいぜい書類を提出する際に顔を合わせる程度だ。

 少し物事を強引にすすめるきらいがある。だが視野が広く、ウマ娘やトレーナーへの援助も幅広く行っている。そんな評判はどこでも耳にする。

 どういう基準で自分を選んだのかはわからないが、少なくともお眼鏡には叶ったらしい。

 

 いつか来ることなのだから。今だとしても受け入れるための()()()だ。

 

「でも、そこまでビビらなくてもいいよ。今の時代はネットも普及してるし、オンラインでトレーニングの指示は出せる」

 

 確かに。桐野はすぐに納得する。

 オンラインでやり取りできるなら、現場での調整役として動くだけで十分対応できるはずだ。

 

 よくよく考えれば、これはむしろ好条件でもある。

 トップトレーナーの一人である霧原のトレーニング状況を常にモニタリングできるのだ。これ以上ないアドバンテージ。いわゆる()()()だった。

 

 そして、ようやく「事務作業だけのサブトレーナー」から、トレーニングに関わるサブトレーナーへと本格的に移行できる。長くて短かった事務員生活ともおさらばだ。

 それを示すように、書類のジャンルの変化と、それに伴う座学用の資料が増えていた。

 今までは本当に事務作業の処理案件が殆どだったが、ウマ娘用のスポーツ医療の論文や国内外での各種距離や客室に対しての育成論などのトレーニングに必要なレポートを()()時間が設定されている。日本語で書かれていないものも当然あるので、普通に書類処理をするより勿論難易度は高い。

 

「よし、それなら仕事、さっさと終わらせますか」

 

 桐野は指をぱきぱきと鳴らし、肩を回して気合を入れる。だが、すぐに眼前の冊子に視線を落とした。

 

「とはいえ、目先の業務が春のファン大感謝祭なんだよな」

 

 案内冊子の表紙を撫で、ペラペラと捲る。厚紙に光沢のある紙が綴じられ、印刷のインクの匂いが新しい。

 ページをめくるたび、イベントのカラフルな写真やイラストが目に飛び込んでくる。

 

「うわ、今年のポスター、こんなデザインなんだ。ルドルフ先輩めっちゃセンターじゃん」

「まあ生徒会長だからね。ポスターも毎年の恒例さ」

 

 日程が事細かに書き込まれており、空白は少ない。叩き台というよりは、すでに校了直前の完成度だった。そのまま頒布しても問題ないぐらいだ。

 校内の案内や、去年の出店やレースの写真が掲載されている。

 

「日程が……うわ、ギッチギチですねこれ」

「だろう? 当日なんて目当てのもののために走り回ることになるさ。晴君は新人の特権で見回りだけだから気楽なもんだよ」

 

 冊子を広げたまま、桐野は机に突っ伏すようにぼやく。

 新人トレーナーに割り振られた「見回り」という仕事は、実際には建前の意味合いが強い。

 トレセン学園の広大な敷地を歩きながら、場所に慣れさせるのが目的だ。

 

「気楽って言いますけど、めちゃくちゃ歩くやつじゃないですか。絶対足痛くなるやつですよね。それにこの予定表見るとあんまり模擬レース見れなさそうっすね」

「そそ。模擬レース中に問題が起きないかを見て回るのも大事さ。警備の人たちは当然いるから、比較的緩いけどね」

「警備の人たちと同じことを求められても困りますからね」

 

 桐野の行動範囲はこれまで驚くほど狭かった。

 寮とトレーナー室、チームの部室、トレーニングジムやプール、そしてグラウンドを往復するだけの日々。

 ウイニングライブの練習場になるダンスレッスン場や屋外ステージもあるらしいが、まだ縁がない。

 

 校舎に入ったことも数えるほどしかない。新人向けの講義、新入生の入学式、理事長室への書類提出。それくらいだ。

 美浦寮と栗東寮はトレーナー立入禁止。2,000人弱の生徒を抱える学園だけあって、今でも道に迷いそうになることがある。

 

「そのへん、うちは楽だね。ルドルフが生徒会長だから、生徒会業務が優先されてて。手伝い以外に個別で何かやる必要はないし」

 

「スピーチにインタビュー……それと模擬レースも出るんですね。うわ、マルゼンスキーにタマモクロスも出るんだ。結構豪華」

 

 ページをめくるたび、桐野は思わず感嘆の声を漏らした。

 他にもG1制覇ウマ娘の名前がずらりと並び、G2・G3重賞制覇組も少なくない。明らかにこの感謝祭のメインイベントだ。

 流石に全員ではないが、勝負服を着てターフの上でポーズを取っている写真が数ページに渡って載っている。写真のじゃまにならない程度に各ウマ娘の一言コメントが載っている。これだけでもこの冊子の魅力が倍増しているように見えるし、参加できなくても欲しがる人がいるのは当然だと思った。

 

「現地に来るお客さんは喜ぶだろうね。メインに据え置かれてるだけあってね。晴君、去年は応募したけど外れたんだっけ?」

「外れましたよ。去年どころか今まで一度も当選したこと無いですね。家族三人で申し込んで、全員ハズレです。家族でスマホ持って結果見て、声揃えて『全滅かよ』って」

 

 思い出して、桐野は思わず笑ってしまった。

 それを聞いた霧原も、くつくつと笑う。

 

 春のファン大感謝祭は、文化祭というよりも体育大会に近い。

 模擬レースや球技大会など、体を動かす催しが中心で、ほとんどのプログラムは事前に取り決められている。

 新入生が入学したばかりの時期なので、運営は基本的に在校生に任され、新入生は自由参加。入学直後のぎこちなさを和らげる意図もあるのだろう。

 

 さらに、トレーナーが走る競技まであるらしい。

 もっとも新人は免除だ。入学直後でそれどころではないため、当然の配慮だった。

 

 他にも、トレーナーが教官のように実践的なトレーニングを見せるカリキュラムや、地方から訪れたウマ娘や一般人が体験できるプログラムもある。

 一問一答のコーナー、進路相談、お悩み相談所に、果ては占いまで――。

 チケット制とはいえ一般公開される機会は少なく、毎年大盛況になるのも納得だった。

 

「そして僕はルドルフの補佐という名目で自由が効くという」

「数少ない休養日みたいなもんですね」

「はは……。そんなとこ」

 

 霧原は平日も休日もほぼ働き詰めだ。

 桐野はサブトレーナーとして、担当ウマ娘と相談しながら無理やり週一の休みをねじ込んでいる。もっとも、その休日も大抵はウマ娘たちに付き合って出かけており、完全オフはほぼないらしい。――駿川さんの視線が怖いからではない、と桐野は心の中で言い訳する。

 

「お、運が良い。当番は椿と一緒だ」

 

 桐野は別紙になっている当番表と見回りルートを眺め、指でなぞった。

 去年までは完全に「見る側」で、しかもチケット抽選に外れ続けて一度も現地に来られなかった感謝祭。今年は「運営側」だ。少しだけ優越感があるが、やっぱり一般人として参加してみたかったという気持ちも拭えない。

 

「ま、裏方のほうが特等席かもよ。全部の準備と舞台裏を見られるんだから」

「そうかもですね……。でもやっぱり一般人として屋台の焼きそば食べたかったなあ」

 

 感謝祭のチケット倍率はバ鹿みたいに高い。今までの感謝祭は、結局チケット抽選に落ちた。

 霧原に言っていた通り家族三人でスマホを握りしめながら、結果画面を見て肩を落としていた。

 今年は裏方だが、ほんの少しだけリベンジできた気がした。

 ちなみに今年も桐野家は兄の恋人含め全員落選だった。桐野家のくじ運は、昔からお世辞にも良くなかった。

 

「えっと、もう一人が……柚木(ゆのき)さんか。あー、何回か話したな」

 

 桐野は腕を組み、目を閉じて記憶を探る。

 男性で、同い年――思い出せるのはそれくらい。

 よそよそしい同期との交流を、それを理由にしてサボっていたことを思い出し、軽く反省する。

 

「もうちょい、ちゃんと向き合わないとな」

 

 Laneの連絡先一覧を開き、「柚木」の名前を見つけた。

 少し考えてからメッセージを打つ。

 

「桐野です。感謝祭の見回り、一緒になりました。当日はよろしくお願いします」

 

 間もなく返信が届く。

 

「連絡ありがとうございます!! こちらこそよろしくおねがいします!!」

 

 画面に浮かぶ元気な返事を見て、桐野の口元に思わず笑みが浮かんだ。

 

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