あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。 作:七篠トレーナー
ガラガラ、とトレーナー室の扉が開いた。
涼やかな声とともに、メジロマックイーンが姿を現す。手には今日のトレーニング内容が記されたプリントを持っている。
陽の光を受けた芦毛の髪がきらりと透き通り、佇まいを際立たせていた。視線を奪うような静かな威厳を湛えていた。細身ながらも引き締まった体つきは、日々の鍛錬の証だ。シンボリルドルフとはまた違う、静かな威厳がそこにある。
「トレーナーさん。本日のトレーニングについてなのですが」
桐野は手元の作業を止め時計を見やった。もうそんな時間か。
授業が終わりこれからがトレーニングの時間。お嬢様らしい整然とした足取りで、メジロマックイーンは一足早くやって来て、内容を確認しに来たのだ。
「こんにちは、桐野さん」
丁寧な会釈に、桐野も慌てて頭を下げる。距離を感じるやり取りだった。彼は心の中で苦笑する。――お嬢様との会話というのは、どうにも勝手が違う。生活のレベルが違うというか、目に見えない距離感がある。話題のジャンルがそもそも別世界だ。
「こんにちは、マックイーンくん。今日も調子は良さそうだね」
「ええ。トレーナーさんのメニューは、翌日に疲労が残りにくいよう組まれていますから」
澄んだ瞳が細く笑う。
尻尾が小さく一度だけ揺れたのを、桐野は見逃さなかった。
「へぇ……参考に伺っても?」
彼女は軽く頷き、その細い手に持っていたプリントを差し出す。
そこには上半身を中心としたメニューと、周回コースでの走り込みが記されていた。効率性と安全性を重視したわかりやすい内容で、各項目には期待できる「想定効果」の補足メモもある。菊花賞を見据えたスタミナ強化のプラン――積み重ねてきた経験と知見の結晶だった。
「すごく細かいね。ありがとう」
プリントを返すと、メジロマックイーンは霧原のもとへ歩み寄り、内容を照らし合わせて話し合い始めた。淡い陽光の下、二人の声が穏やかに響く。
数分後、いくつかの微調整を加えたところで、マックイーンは満足げに微笑んだ。
その様子を見ていた桐野は、胸の奥で小さな感情を覚えていた。
自分も、こんなふうに信頼されるトレーナーになれるだろうか。
霧原との打ち合わせを終えたメジロマックイーンは、しばらく迷うように足を止めた。
耳を少しだけ動かしながらも視線が桐野の机と霧原の方を行ったり来たりする。
指先を胸の前でそっと組み、意を決したように桐野へ歩み寄ってきた。
「あの……桐野さん。よろしいですか?」
メジロマックイーンが、今度は桐野の机のそばまで歩み寄ってきた。
その声音はいつもの涼やかさを保ちながらも、どこか遠慮が混じっている。桐野は思わず首を傾げ、手元のスケジュール表を開く。トレーニングの予定に何か問題でもあったのだろうか。
しかし、マックイーンは少し言い出しにくそうに指先を合わせ、ちらりと霧原の方をうかがってから、意を決したように口を開いた。
「以前おっしゃっていた……その、桐野さんのお店のスイーツについてなのですが」
桐野は一瞬きょとんとし、次いで胸をなでおろした。トラブルではなかったらしい。「ああそっちか」という言葉を飲み込んだ。深刻な話題ではなく、甘くやわらかな期待が漂う空気だ。
霧原の方を見ていたのは、体重管理の問題もあって話題にしにくかったからだろう、と彼は察する。
「それその……桐野さんのところのお店は、老舗と伺いまして」
「わざわざ調べてくれたのか。まあ……老舗っちゃ老舗かな」
桐野の家は創業八十年。駅前の土地を先祖代々持っていたため、家賃もかからず細々と続けてきた喫茶店だ。最盛期は数十年前で、今は常連に支えられている。本人としては誇るほどではないと思っているが、メジロマックイーンの期待に満ちた眼差しは眩しかった。
「なので、秘伝のスイーツとかあるのかが気になりまして」
メジロマックイーンの瞳がぱっと輝く。
窓から差し込む光を映して、宝石のようにきらめいた。
(秘伝のスイーツ? いや、この子の期待値めっちゃ高いな……)
とはいえ、彼女が本気で関心を寄せているのは伝わってくる。桐野は霧原に視線を送ると、小さく「いいよ」というサインが返ってきた。
「秘伝……はさすがに無いかな。でも、どういうのが好き?」
桐野はタブレットを取り出し、休日に実家で撮影しておいたパフェの写真をスライドで表示する。メジロマックイーンに差し出すと、彼女の瞳が一段ときらきらと輝いた。
「まあ。こちらは王道のフルーツパフェですのね。あら、スイートチョコレートのパフェなんてのもあるのですね」
窓辺の自然光に透ける苺の赤、ふわふわの生クリームの白、チョコソースの艶やかな黒。
写真越しでも、甘い香りが漂ってきそうだ。兄と妹の渾身の映える写真だそうだ。
イマイチ写真写りというものがよくわからない桐野は「なるほど。そうなんだ。すごい」と兄妹にいうのが関の山だった。
甘味は旅の途中で偶然めぐり逢うか、高い金貨と同じ重さの交換だった。
戦火に焼けた街で、行商人がくれた干し果実の甘さを思い出す。
今は、こんなにも容易く
ぱた、ぱた、と小さく左右に揺れる尾。期待と喜びが、尻尾の先からあふれているようだった。
その正直すぎる反応に、桐野は思わず口元を押さえて笑いそうになる。
メジロマックイーンの指が写真をそっと撫でるようにスクロールする。
その瞳はきらきらと輝き、尾は先ほどよりもはっきりと左右に振られていた。
生粋のアスリートであり、それでいて年頃の女学生である二面性。
なるほどこれは。と桐野はこの瞬間をずっと見ていたくなるほど魅力的に映った。
「もし好みがなければ、オーダーメイドでも作れるよ。と言っても組み合わせパターンの範囲だけど」
「オ、オーダーメイド……!」
まさに新世界! とでも言い出しそうな発見したかのように目を見開く。
確かにカスタムパフェというのは珍しい類なのだろう。
その姿は、菊花賞を目指す名門ウマ娘というより、甘味を前にした年相応の少女だった。
「アイスや生クリームの量を変えたり、フルーツを偏らせたり、チョコソースをキャラメルソースにしたりね」
「いいですわね……お好みのパフェを作っていただけるということですのね」
「ああ、うん。パフェじゃなくてケーキでもできるけど、当日焼きになるから種類は少ないかな。みんなでホールを分ける感じになると思う。パフェはオーブン使わないし結構臨機応変に対応できるね」
メジロマックイーンはしばらく夢見るような顔をして、それから小さく頷いた。
心底うれしそうなその表情に、桐野もつられて頬を緩める。
どれがいいかしら。と、とても悩ましげにするメジロマックイーンは楽しそうだ。
若い子はこれぐらいが良い。特に彼女らはアスリート。制限こそしてもこういうのも合間には必要だと桐野は考える。
どうやら、彼女との付き合いはこういうった形から入ると良いのかもしれないという光明を見いだした。
一歩前進したのだろうというなんとなくの確信を感じられた。その時だった。
「なんだ、食事の話か?」
扉が再び開き、オグリキャップが入ってきた。芦毛の髪を揺らしながら、すぐさまにタブレットの画面を覗き込む。その大きな体格はマックイーンの頭半分は優に上回る。シンボリルドルフやシリウスシンボリと並ぶと、ほぼ同じ背の高さだ。スタイルも抜群で、まさに走るための体をしていた。
「スイーツもいいが、軽食などもあるのか?」
興味はあるらしいが、甘いものより腹に溜まるものを求めているのが一目でわかる。
メジロマックイーンは依然として写真のスライドを止めることなく、夢中でスクロールしている。桐野はオグリキャップに視線を向けた。
「うちで出せるのは、ホットサンドとかオムライスとか、パスタかな。そのへんなら大丈夫」
スイーツよりも、軽食は本格的だ。創業八十年の喫茶店らしく、どこか懐かしいメニューが今も残っている。それこそ秘伝のメニューとまではいかないが、代々受け継がれたレシピやその時勢によって移り変わってきたレシピなど色々ある。らしい。今の店主である兄が言っていた。
「ナポリタンとか、ビーフシチューをかけたオムライスは人気だよ」
「おお……カフェテリアではあまり見ないな。楽しみにしておこう」
桐野は苦笑する。
「でも厨房は広くないから、順番に作ることになるよ。量も期待ほどは用意できないかもしれない」
その言葉の直後、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。振り向けば、オグリキャップの顔がほとんど目の前に迫っていた。桐野は思わず仰け反る。
獲物を狙う肉食獣――いや、捕食者に見つめられたような圧。物理的に食べられるわけではないと分かっていても、圧がすごい。レースでもこの圧を掛けられようものならたしかにこれは脅威だろう。
「言っておくけど、本当にたくさん食べるよ、オグリは」
「当日は貸し切りにしておくんで、そのへんは準備しないとですね」
桐野は、一度だけカフェテリアで見たオグリの食事風景を思い出す。
あれはもはや伝説だった。どう考えても物理法則がゆがんでいるとしか思えない量を次々に胃袋に収め、少しの間だけ学生服の腹部がパンパンになっていたのに、次に見たときには元通りだった。魔法使いを自認する自分よりよほど魔法のようだ。
ウマ娘の燃費は謎だ。だが、多く食べられる方が健康的でいい。少食で苦労しているタマモクロスの話も聞いたことがある。誰も故障せずに走り切れるのが理想だ。
そんな中、低い声が割り込んだ。
「楽しそうな話をしてるな?
低い声が、室内の空気を震わせた。開きっぱなしだった扉の横に立っていたのはシリウスシンボリだ。
扉の枠に背を預け、腕を組んで立つシリウスシンボリ。
切れ長の目と鋭い視線、腰まで届く鹿毛の髪。壁に寄りかかる立ち姿。そのすべてが絵になる。
桐野は思わず心の中で「少女漫画の王子様か」と呟いた。
「シリウスくんもこんにちは」
桐野の声に、彼は口角だけをわずかに上げる。
その仕草一つで、からかいと余裕を同時に漂わせるのだからずるいと桐野は思う。
「魔法使い」というあだ名は、初対面で軽く手品を見せたときの冗談の名乗りを彼女が気に入ってしまった。廊下で彼女にそう呼ばれたとき、取り巻きの後輩たちに「見せてみろ」と煽られ、手品を披露した結果、何故かいるマジシャンとして噂まで広まってしまった。
受けが良い事で調子に乗ってしまった桐野の自業自得な部分もやや否めない。言われればちょっとした手品を披露する姿とそれを遠巻きに何を意味しているかわからない視線を送る青鹿毛のウマ娘がちょっとした日常になっていた。
ちなみに、彼はトレーナーの霧原を「
どう見ても大型犬の霧原に対してそれなのだから、完全に彼女なりの感性なのだろう。桐野も一度からかおうとしたが、結局自分も「魔法使い」呼びなので黙ることにした。藪をつついて蛇を出す必要はない。
「シリウスくんもどうだい? 気に入るメニューがあればいいけど」
メジロマックイーンからタブレットを受け取った桐野は、それをそのままシリウスシンボリに手渡した。彼女は長い睫毛の下の目を細め興味なさそうに写真をスライドさせていく。霧原から、シリウスシンボリはあまり甘味に興味がないらしいと聞いていたことを桐野は思い出した。
「……」
やはり無関心かと桐野が少し残念そうにしたとき、シリウスシンボリの指がふと止まった。
「このスパイスカレーってのは何だ?」
鋭い視線が桐野を射抜く。
桐野の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
「それね。オレの得意料理なんだ。いろんなスパイスを使ったカレー。やっぱり喫茶店といえばカレーなんだよね。
コーヒーとカレーって意外と合うんだけど、ウチのカレーはチャーシューカレーで、一度チャーシューを作って、それを使って各種スパイスを惜しげなく入れて……隠し味もある。
元々は普通のカレーだったんだけど、一時期スパイスにはまってね。好みのスパイスカレーを作ろうと試行錯誤すること数年。完成したのが、このスパイスカレーなんだ。自慢の逸品だよ」
気づけば早口になっていた。シリウスシンボリが半眼でわずかに引いているのが見え、桐野は頬をかいた。
この世界では手頃な値段でさまざまな種類が買える。集めて作るうちに楽しくなりはまり込んでいた。最終的には兄や妹にも評判となってメニューに加えられた。手間はかかるが、カレーは数日置いても美味しくなるうえに日持ちもする。難点は、手間のぶん割高でそれほど数が出ないことくらいだった。
「……いいだろう。アンタの自慢なんだな。私を納得させてみろ」
挑発するような笑みを浮かべるシリウス。
長い尻尾が一度だけ、興味を示すように揺れた。
料理対決でも始まるかのような空気に、桐野もむっとなる。
「いいよ……。まずかったらお代はいらない」
対抗心から口をついて言葉がでる。もっとも、実際には食事代は霧原が事前に支払うことになっている。なにせ、オグリキャップがいる。嵐のような食欲の到来を、早めに兄に告げる必要があった。
メジロマックイーンは呆れたように、オグリキャップはすでに食べることに思いを馳せながら、その様子を見ていた。
シリウスシンボリは半眼のまま小さく鼻を鳴らした。
「そこで見ているルドルフくん。なんかいい感じに取りまとめてくれたりしないかな?」
シリウスシンボリが背を預ける扉の向こう。そこに同じように寄りかかっていたシンボリルドルフの尻尾が見えていたので、桐野は声を掛けた。シリウスシンボリが舌打ちするのが聞こえた。
「いやね。面白そうな流れだったので、しばらく静観していたよ」
入ってきたシンボリルドルフに、桐野は下手なウインクをしてみせる。ルドルフは咳払いを一つ。昨日の夜の件が漏れ出す心配はなさそうだ。
「私もご相伴に預かろう。トレーナー君は料理ができないから、桐野くんの手料理というのも趣がある」
意外な事実に桐野は霧原を見た。霧原は力なく笑う。もしかしてこの人、トレーナー能力に全振りで生活力がないのでは――桐野はぼんやりと思う。本人はこんなはずではと言っていたが飲み会をした時に酔いつぶれていた様子が浮かぶ。
桐野は実家の喫茶店でよく調理を手伝っていたいた。トレーナー向けの専門学校で調理師免許と管理栄養士の勉強もしていた。実務経験の必要があるため資格の取得はできてはいない。ウマ娘の食事バランスの回答には特に苦労した覚えがある。
「原っち先輩。いつ頃なら予定良いですかね。個別に連れて行くよりは全員で行ったほうが良いと思うんですよね。
ワゴン車借りて、みんなで行きましょう。オレ運転できますんで」
「そうだね。それが良さそうだ。ちょっとまってね、スケジュールを確認するよ。ああ、5月頭はどうかな」
各自が自分の予定を確認し、問題なさそうだとわかると、勝負は5月頭に決まった。
「ルドルフくんはどういうのが好みとかある?」
これまでに三人から聞いた希望をメモしていた桐野は、手を止めてシンボリルドルフに目を向けた。
「これと言って好き嫌いは無いよ。強いて言うならリンゴがいいね」
「じゃあケーキじゃなくてアップルパイでも焼こうか」
ルドルフの瞳がわずかに満足げに輝いた。問題はなさそうだと桐野はメモに追加した。
話し合いが終わり、霧原とウマ娘たちはトレーニングに向かった。
静かになったトレーナー室で、桐野は書類仕事に戻る。
窓から射し込む午後の光が、机の端に四角い明かりを落としていた。
よく食べ、よく動き、怪我をせず、元気いっぱいにターフを駆けてほしい。
胸にそんな願いを抱きながら、桐野は静かにペンを走らせた。
体調改善が難しいため、少し投稿間隔を開けさせていただきます…。陳謝。