あるサブトレーナーがトレーナになるまでの話。 作:七篠トレーナー
春のファン大感謝祭。
目覚まし時計のアラームが鳴り、彼は目を覚ました。布団の中から手を伸ばし、ようやく届いたアラームを止める。
大きくあくびをひとつし、体を伸ばす。疲れがまったくないわけではないが、事務仕事続きで凝りがちな身体をほぐすように、寝間着のまま軽くストレッチを始めた。
体を伸ばし、軽く屈伸をしてみる。……違和感はない。よし、と息を吐く。
両足を床に下ろし、いつものように片足ずつ重心を確かめる。
それだけで、ようやく一日が始まった気がする。
サブトレーナーとはいえ、自身の体が資本である以上、正しく動かせるかを確認するのは朝のルーティンのひとつ。だらしない姿を見せないためにも、自然と気が引き締まる。
歯を磨き、軽くシャワーを浴びて寝汗を流す。髪を乾かしているうちに、頭もすっかり冴えてきた。昨晩のうちに用意しておいたコーヒーを取り出し、カップに注いで一口飲む。
腕時計を見ると、待ち合わせまではまだ時間に余裕がある。
一服でもしようかと煙草の箱に手を伸ばしかけたが、今日は外部の来訪者も多い日。第一印象を悪くするわけにもいかず、換気扇の下に置いたままにしておく。
この手の「微妙な待ち時間」が彼はどうにも苦手だった。落ち着かず、そわそわしてしまう性分なのだ。時間潰しをしたが、時間はあまり進まなかった。結局は観念して、普段どおりの身支度に取りかかる。
胸元のトレーナーバッジと通行パスを確認し、玄関の姿見で寝癖や髭の剃り残しがないかをチェックする。後ろ髪を束ね、靴箱の上に置いてある香水をほんのわずかに腰元へ。
最低限のエチケットとして、香りすぎないよう注意を払う。かつて「香水の匂いは煙草以上に気を遣え」と言われたことを思い出したのだ。
外へ出ると、関係者以外立ち入り禁止となっているトレーナー寮の周辺はまだ静かだった。
だが、塀の向こうからは、既にざわめきが微かに聞こえてくる。イベント前のこうした穏やかな騒がしさには、不思議と心が和む。
今日一緒に見て回る予定のふたりとは、トレーナー寮のすぐそばにあるベンチで待ち合わせている。
どうやら他の新人トレーナーたちも、同じ場所で待ち合わせをしているようだった。実際、この場所は寮に近く目印も多いため、集合しやすい。自然とトレーナーたちが集まってきていた。
彼の視線に入った数名のトレーナーは、すでに担当のウマ娘が決まっているという噂も耳にしていた。そうした情報は、広くて狭い学園内ではあっという間に広まるものである。
彼は目が合ったトレーナーに軽く会釈を返し、彼らが連れ立ってその場を離れていくのを見送りながら、ふと思う。煙草、吸ってから来ればよかったかもしれない。
腕時計に目を落とすと、どうやら必要以上に早く来すぎたようだった。こんなに余裕をもって待つこともなかったかもしれない。
女の子との待ち合わせならともかく、これから顔を合わせるのは男だ。それを思うと、なんとなく悪い意味で身が震えるような気分になった。
「よっ」
「おはようございます」
桐野より少し小さいぐらいの青年。強い癖毛がすこしふわりとした髪型と濃い茶色の目。
少し幼い雰囲気。高校生ぐらいに見えないこともない。頭を下げた時に少しズレたメガネを直しながらにこりとした。
「おはようございます。椿。柚木さん」
二人に倣っても手を上げて挨拶を返した。
「二人って仲いいんですね。おれも智也でいいですよ」
パスを手にとって自分の名前を見せてくる。
「おれと桐野さんって同い年だよね。同期の仲だと年上ばっかりで緊張するんだよね」
人懐っこい笑顔を向けてくる。トレーナー試験は確かに難易度が高くて一発合格はそんなに多くないらしいし、四年制の専門学校のほうが合格率が高い事もあって三年制の専門卒の同期は更に少ない。学校自体がそれほど多くないし、生徒数に対して合格率が低い。浪人する人もいれば諦めて別の職業を選んだり、地方のトレーナーになるパターンも有る。
「晴でいいよ。智也って呼ばせてもらうし」
桐野も笑顔で返す。少なくとも悪い印象はなく、向こうから見ても印象的に悪くは見られてなさそうだ。
女性だらけの環境で男友達が増えるのは嬉しいことだった。
椿が先導するよう正門に向けてに歩き出す。進めば進むだけ熱気と歓声が聞こえ始めてくる。まだ入場時間にはなっていないので来場客の姿はまだない。ウマ娘たちがちらほら校舎へと向かっていく姿が目に映り、何人かのウマ娘が案内を含めてのスピーチをしている。
「うお。すげえな……」
椿が、その様子に思わずこぼした。
普段より幾分か速い時間帯のため、ウマ娘が寮から校舎へ移動する時間帯にかちあっている。
超マンモス校と言われるだけ有ってその様子は圧倒される。
だが今日は見回りとはいえ、この空気の中に身を置ける。そう考えると、この立場の“特権”も悪くはない。
「大盛況だね。チケットもそこそこいい値段するし、ちょっと奥に行ったらグッズ売り場もあるけど、あそこって毎年すごく競争率高いんだよねー。毎年SNSでもバズるんだよ。開園して10分でアクスタ完売って感じ。
三年前に一度だけチケットが取れたんだけど、あそこまで辿り着けなかったんだよね……はは」
なんと、あの高倍率チケットを一度引き当てたことがあったとは。彼は心の中で驚きつつ、柚木の“王者”としての実績に敬意を抱いた。
「詳しいな」
白椿は半眼でつぶやく。
「去年の物販戦争で全滅しましたからね。情報だけはちゃんと仕入れてるんです」
にこりと笑う柚木に、桐野は思わず苦笑する。
「イベントは見て回れるけど、グッズは品切れがあるからねー。限定グッズはたぶん秒で無くなるよ。まずお目当てのグッズを手に入れてから回るのがセオリーだよ」
その説明にも大きく頷く。なるほど、最前列の人々が、今にも閉じた正門をよじ登りかねないほどの気迫を見せているのも、それゆえだろう。
彼らはその騒がしさを横目に、予定通りのルートを進んでいった。
「……あれって俺たちも買えるのか?」
椿がふと気になったようで、視線をグッズ売り場の方へと向けた。
その動きに釣られるように、彼も同じ方向を見る。
実は、妹がシリウスシンボリのファンで、もし可能なら一つ二つ買ってやりたいと前々から思っていたのだ。
「いやーむりっしょ。おれ達は基本的には仕事があるから後回しになるし。多分目当てのものがなくなってるぐらいならともかく、完売まであるよ」
椿は腕を頭の後ろで組み、グッズ売り場に未練を残すように振り返っていた。そんな彼の様子に、智也がくすりと笑う。
在庫は「十分」と言っても、実際に足りるとは限らない。誰もがその含意を承知しているようだった。
(よく考えれば、原っち先輩に頼めばシリウスくんのグッズはもらえるんじゃないか?)
そんな思いが頭をよぎる。だが、口に出すのは野暮だろう。
「そういえば椿さん、トウカイテイオーをスカウトしたんだって?」
さらりと投げかけられた言葉に、桐野は改めて感嘆する。
この椿という男、なんと、あのトウカイテイオーのスカウトに成功していたというのだ。しかも飲み会のあと、わりとすぐに決まったらしい。聞くところによると、テイオー自身も最初から椿にスカウトされるつもりだったらしい――羨ましい限りだった。
「そういう智也だって、ナイスネイチャをスカウトしたんだって?」
白椿も負けじと返す。
バチバチだ。まるで水面下で火花が飛び交っているようだった。
(なんでこの二人と組むことになったんだ? 人選、間違ってないか?)
内心、思わず愚痴が漏れる。
よりによって、一強とも言われるトウカイテイオーのトレーナーと、まだ芽は出ていないとはいえ、霧原が目をかけている対抗バとも言えるナイスネイチャのトレーナー。
この二人、明らかに将来のライバル関係になることが予想される。
(喧嘩でも始まったらどうするんだ)
そう危惧もしたが、杞憂だったようだ。
二人は笑っていたし、むしろ楽しそうですらあった。特に穏やかな印象の智也ですら、その目には確かな意志の力を宿している。トレーナーとしての本質を、ふと垣間見た気がした。
それにしても、見た目に反して口も上手く、やり手なのかもしれない。
思い返せば、今回の見回りに配属されたのは全員新人トレーナーだ。
本格的な活動開始はそれぞれのタイミング次第。結局のところ、いずれ誰と組んでも、ウマ娘たち同士がライバルになる可能性は変わらない。つまり。誰と組まされても大差なかったのだ。
「いいなあ。ふたりとも、もう
そう口にした言葉には、無意識に悔しさが滲んでいた。
まだ
「いいだろ。俺達は先に戦わせてもらう。一年は歯噛みして見てると良い」
「晴はサブトレーナーだもんね。でも霧原トレーナーのとこでしょ。今年はともかく来年以降は怖いなあ」
「くっくっく」と、白椿が意地の悪い笑顔を浮かべて返してくる。対照的に、柚木はどこか難しそうな表情をしていた。
そんなやりとりをしながら、三人で歩いていると、空に小さな炸裂音が響いた。開園を知らせる花火だ。
そんな爆音に目を細める。いい加減慣れては来たが、
「お、はじまったか」
誰かがつぶやいたその声に、周囲の空気もざわめきを増していく。春のファン大感謝祭の幕開け――その言葉通りに、お祭りのような喧騒が学園内に広がっていった。
気づけば周囲には、いつの間にか一般客やウマ娘たちの姿が多くなっていた。誰も彼もが笑顔を浮かべ、楽しげに動き回っている。
園内を歩いているうちに、三人はふと気づく。トレセン学園の構内を歩き回るのは、思いのほか良い運動になるらしい。微かに足取りが重く感じたが、気にするほどではない。
「あ、そこの君」
前を歩く二人組の小さなウマ娘が尻尾に花びらをつけたまま走り回っていた。
「花びら、付いてるよ。尻尾の飾りつけにもいいけど、危ないからね」
ぺこぺこと小さなウマ娘が頭を下げると、一緒に来ていた子がその花びらを取って頭につけていた。その様子に三人は微笑ましく笑顔で見送った。
特に問題が起こることもなく、三人はかなりの距離を歩きながら、やがて模擬レースの観戦エリアへとたどり着いていた。
1600m芝――マイル戦。
出走しているのは新入生を中心に、オープンクラスの選抜、それにG2を制覇した実力者のウマ娘たちが数名。クラスも戦歴も異なるウマ娘たちが、歓声の中をターフにて一斉に駆け抜けていく。
その中でひときわ速い脚を見せていたのが、G2覇者のウマ娘だった。
本来は先行策を得意とするはずのそのウマ娘だったが――圧倒的な地力で、まるで逃げ馬のように先頭を走り抜けていた。
関係者用の一般立ち入り禁止エリアの関係者用観戦エリア、外ラチに寄りかかるようにして、白椿・柚木・そして桐野が並んでレースを眺めている。
「ペースメーカにもなってないな。無理に追いかけてスタミナが削られてる」
白椿が腕を組みながら言う。
「そうだね。余力もあるし、だいぶ力を抑えてるけど……地力がだいぶ違う。食らいついてるけど、そろそろ垂れそうだね」
柚木も冷静にレースを分析する。
その言葉通り、展開は一方的だった。
新入生にとっては厳しい戦いなのは当然として、オープンクラスのウマ娘ですら、このペースにはついていけていない。後方から差す構えのウマ娘もいたが、最終直線ですら、その差を埋めるには至らないだろう。
「逃げ馬が遠くなると、それ自体がプレッシャーになるからなあ。この展開で先頭が垂れるのは期待薄だな」
「マイルは短距離ほどの速度勝負じゃないけど、スタミナの管理が必要になるから、新入生には厳しいだろうな」
白椿と柚木が並んでレース展開を読みながら語る中、決着の瞬間が訪れた。
先頭を走っていたウマ娘が、2着以下に大差の五馬身をつけてゴールを駆け抜ける。
ゴールインの瞬間、観客席からは大きな拍手と歓声が巻き起こった。
1着でフィニッシュしたウマ娘は肩で呼吸を整えていたが、後続のウマ娘たちは膝に手をついて、荒い息を吐きながら必死に体力の回復に努めていた。
着実にスタミナを鍛えてきたことが、その差を生んだのだろう。
「次は短距離か。ここは結構見ものだぞ」
移動を考え始めていたが、白椿の言葉に足を止める。仕事の手は止めていいのかと疑問が浮かぶが、それ以上に桐野の表情からは明確な興味がうかがえた。それは柚木も同様だった。
「ちょっとした有名人が出る。まだ本格化はしてないけど、かなり走るって噂のウマ娘だ」
白椿の言葉を受けて三人の視線がパドックに向けられる。
そこに現れたのは、鹿毛の髪を高い位置でポニーテールに結い、勢いよくなびかせながら登場した一人のウマ娘だった。
その目には、まるで咲き誇る桜を映しているかのような活気が宿っている。
「バクシンバクシン!!」
突如、ウマ娘が両手を広げてポーズを決め、朗々とした声で叫んだ。
「うわ。リアルで見ると迫力すごいね」
柚木が笑う。パドックから観戦エリアまでは距離があるにもかかわらず、声ははっきりと届く。近くにいたなら、思わず耳を塞ぎたくなるほどの迫力だ。
「ヴィクトリー倶楽部のサクラバクシンオーだ。すごく速いウマ娘なんだけどな……」
白椿がどこか濁した口調で説明を加える。その言い回しからも、彼女の突き抜けた元気さがただ者ではないことをうかがわせた。
舞台に立つ彼女の姿は、まさに“元気いっぱい”という表現そのものだった。
だが、それもまたひとつの魅力――トレセン学園には、さまざまな個性を持ったウマ娘たちが集っている。
「元気ですねえ。ああいう子もいいね」
柚木はにこにことした顔でサクラバクシンオーを見ていた。
それを見た桐野は内心で「マジか……」と呟いた。
どうにも自分の手には余りそうな手合いに見える。相性がよくなさそうだ。
サクラバクシンオーは二番人気らしく、一番人気には、これまた短距離でG3を制覇したウマ娘がいた。
パドックが終わり、返し馬へと移る。
それが終われば、ウマ娘たちはゲートに入場していく。
その様子を三人で眺めながら、桐野は胸の鼓動が自然と高鳴っていくのを感じていた。
声援も静まり返り、少し遠くから聞こえる喧騒だけが残っている。
『エキシビションマッチ。芝、1200m、枠入り完了しました――』
しん、と澄んだ空気がより一層張り詰めた。
ガコン。
その音と同時に、ウマ娘たちが弾かれたように走り出す。
『―――スタートしました!』
スタートダッシュは問題ない。特化して上手いわけではないが、現時点では十二分に見える。
すぐに先頭を奪っていた。
「なかなかスカウトが決まらないらしいね、彼女」
レースの様子を眺めながら、柚木がちら、と白椿に視線を向けた。
「ああ。どうにも――長距離を制覇したいって願望が、彼女のスカウト難易度を爆増させてるんだよ。バクシンオーだけに」
「面白いつもりか? 審議にもならない」
「嘘だろ……」
引き合いに出すにはどうかと思うが、皇帝・ルドルフもこういったダジャレを言う。
それよりも微妙だった。
「なるほどねえ。根っからのスプリンター気質だもんね、彼女。口説き……説得するのは難航しそう」
眼の前を「バクシンバクシーン!」と叫びながら駆け抜けていくサクラバクシンオーを見送りながら、柚木が言った。
流石に「口説き落とす」とまでは言えなかったのだろう。
聞こえてくる足音のリズムは一定で、フォームにも乱れはなさそうだった。気迫は言うまでもない。
――しかし、そんな裏があったとは。
桐野は、もう少し自分も情報を集めておくべきだったと反省した。
サブトレーナーの立場に甘んじて、時間がないわけでもないのに情報収集を怠っている。
万が一「やっぱりサブじゃなくて、正式にトレーナーをやってくれ」と言われた時どうするのか。出遅れどころか、ゲートが開いてもその場に立ち尽くしているようなものだ。
「しっかしトップスピードまで速いな。本格化がまだって聞いてるけど完成形がわかりやすいタイプだ」
その速さに、桐野は思わず感嘆の声を漏らした。
G3制覇の実績を持つウマ娘は現在三番手で二バ身差、好位を追走しているといったところ。いつでも抜け出せる態勢を取り、さすがに地力の差を見せつけている。
最終的には綺麗に差し切り、一バ身半の差をつけて勝利を収めていた。
清々しく笑っているサクラバクシンオーに対し、むしろ勝利したウマ娘のほうが脅威を感じているように見えた。
今はまだ経験の差があるが、適性条件が整えば――いずれ重賞で再び顔を合わせる日が来るかもしれない。G3を勝てる実力を持つ者だからこそ、今の時点での能力差から将来的な伸びを予測して戦慄する。
その目には、静かな警戒と焦りが宿っていた。
思えば、話を聞く限り、気性難とは別の方向に個性の強い性格のウマ娘はちらほら存在する。
桐野のチームもクセはあるが、現時点では全員の性格を受け止められるだけの余裕を持った構成になっている。
もちろん桐野がまだ気づいていないだけで、実際には問題が潜んでいる可能性もあるのだが「知らぬが仏」という言葉が脳裏をよぎった。
「課題はスタミナなんだろうな。あとはトレーナー側にあの勢いをどうにか制御できる能力が必須というか、そっちのほうが重要そうだ」
そう呟いた白椿の横で、柚木が苦笑いする。
「おれだったら無理だな。押しきれない気がする」
「オレもそう思う。ああいうタイプの子を導くには、相性が合うことが何より重要だろうな」
三人はそれぞれの考えに頷き合う。
そして、誰からともなく同じ想いが胸をよぎる。
(((絶対に言うこと聞かないだろ……)))
三人の胸には、同じ結論が浮かんでいた。
それでもきっと、誰かが彼女を導く日は遠くないはずだ。
ファンサービスとして両手を振るサクラバクシンオーの姿を、三人は物言わず見つめていた。
当面2日に1話更新でがんばります。