腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
「違う」と言えたらよかった。私は人間だと。
しかし忘れてしまった記憶があるように、忘れていない幼少期の記憶もある。当時は理解できなかった内容が、成長した今なら理解できる。
アオムシ様として祀られていた彼女は蠱毒によって生まれた。無数の子供を生贄にし、そうしてできあがった。彼女が死ねばその死体から芋虫が生まれる。そいつが多くの人間や呪いを食らい、「アオムシ様」がまた生まれる。
六眼持ちの五条悟はしかし、彼女を「呪霊だ」とは言わなかった。だから彼女は「私は人間だ」と思えた。だというのにここでいきなりちゃぶ台返し。あなた、なんて事をなさるんですか! いくら旦那にたんまりと生命保険をかけているからって、料理に毒物が入っていると疑うなんて……。殺す時はもっとバレない方法で殺します!
「私に………触るなァ!!!」
ナナミンナナミン、助けてくれ。彼は彼女の妄想でしかないから助けてはくれない。彼女はもう、相手に迫られたタイミングから脈が異常数値を記録しているのだ。それはきっと五条も腕に触れたタイミングから気づいているだろう。
何度も振り払おうとしたが手は離れず、彼女は五条の横腹を蹴り上げた。つま先が相手の胴に食い込んだ感触はない。舌打ち一つ。ならばと、舌を噛み口内を血の海にした。仮面の隙間から虫が這い出る。グロテスクな光景に五条は一瞬ギョッとしたが、手は離さない。
「答えらんねーのかよ!」
「離せ離せ離せ!!」
手だけ仲良く繋ぐ形になり、体術の攻防が続く。櫻の攻撃がすべて無下限の防御に阻まれてしまうが、そこに増殖する虫が加勢に加わる。
五条が意識しなければならないのは足元と手の接触部分。それと大型ハンマーを振り回す体から放たれる重い攻撃。ランダムに迫るそれらを瞬時に選んで術式で防ぐ。
防戦一方なのは、答えを待っているから。どうしてそんなに返答に時間がかかる。なぜまるで罪が暴かれた犯人のように焦っている。ただ一言、「NO」と聞ければよかったのだが、やはり安倍櫻は何かを隠しているらしい。
少なくともあの異常回復は、反転術式とかそういった類のものではない。六眼で見たその呪力の流れは、呪力でできた呪霊が体を自己再生するものと同じだった。おそらく腕や足が吹き飛んでも再生するだろうと五条は考えている。
夏油と安倍の戦いで違和感を抱き、先日の特級討伐で確信に変わった。幼い頃の坊ちゃんの見立ては当たっていた。「こいつ呪霊じゃないのか?」って考えが。
でも待ってくれ、そうなったら呪霊と楽しく池の鯉を食べたことになる。ここ数ヶ月間で築いた先輩後輩なジェンガが崩壊することになる。それに高専に張られた結界は彼女を呪霊ではなく、人間とみなしていて────。
五条だって信じたくない。信じられない。だから、答えろ。
「オイ宇宙人、イエスかノーだ!! お前は人間か!?」
「離っ」
その瞬間、瓦に足を取られズルッと櫻が滑った。それを引っ張るようにした五条の手に力が加わる。金切り声のような悲鳴が上がった直後、二人の距離が離れた。
「え」
五条の手に残っている手。というか腕。綺麗に切断された腕の持ち主は、片手にナイフを持ったまま下へ滑り落ちて行った。
歌姫は知っている。
普段の些細な違和感の答えは、後輩と出かけた時にわかった。彼女がカフェで少し席を離した隙に、後輩がナンパの男たちに囲まれていた。仮面の下は日本人形のような作り物めいた愛らしい顔をしている。オフの時はもちろん外していて、だからその外見がハエどもを寄せ付けてしまった。
長身の彼女は立っただけできっとその圧で男たちを追い払えただろう。席に座ったままの彼女の手はしかし、震えていた。
安倍櫻は言うなれば、男性恐怖症だった。
握手や些細な接触は問題ない。ただ威圧的に迫られるとダメなのだそうだ。理由を聞いた時に視線をさまよわせた櫻は、重い口を開いた。
そして「昔、レ……」の段階で歌姫は彼女を抱きしめ、ひたすらに背中を撫でて号泣した。だからこそ、母親のような過保護さが加速している。
そこらの件は学長や一部の教師も知っているそうだ。他の人間には話さないよう彼女が頼んでいるらしい。だから任務時など、補助監督に女性が同伴しやすい。確かに歌姫が一緒の場合も女性が多かった。
だから五条の坊がやらかしたと聞き、歌姫は笑顔で殺しに向かった。犯人は「知らなかった…」などと供述している。
多方面から
「あぁ、もう大丈夫ですよ」
「………」
「友達が立ち直らせてくれたので」
歌姫が泣きそうな顔で彼女を見た。しかし櫻の言う「フレンド」はイマジナリーの方である。夢の中でいっぱい遊んでもらいすっかり立ち直った。百八十センチを肩車する百八十センチの光景は怪談で語り継がれる恐怖だった。
「歌姫先輩、五条の坊ちゃんと少し話したいことがあるので、二人だけにしてもらってもいいですか?」
「でも…」
「何かあったらすぐに呼びますから」
無理を通し、歌姫には退室してもらう。さて、肝心の
腹は決めた。いつ決めたのかと聞かれれば、今決めた。自暴自棄? そうだ、自暴自棄だ。
坊ちゃんが知りたいというなら、全部話してやろう。
「坊ちゃんはその件、他の人に話しましたか?」
「……いいや」
「ならよかったです。正式に二人だけで話せる場を設けてもらえます? そこで一つだけのぞいて全部お話しします」
「………」
「怪しいことじゃないですよ。友だちのことに関してだけ、話したくないんです。その条件含めて“縛り”を結んで構いません」
「…わかった」
ナナミンは彼女だけのものだ。誰にも話さないし誰にも渡さない。
そうして縛りを結んだ上で、後日櫻は身の上を覚えている限りすべて話した。この際に友だちの部分だけ伏せて語られた内容は、人間や呪術師の闇を浮き彫りにしたような話だった。
アオムシ様を崇める団体。蠱毒によって生まれた少女。薬物摂取時の幻覚が現実にそのまま投影されたような「アオムシ様」としての生活。そのあと処分されかけ起きた事件。少女は外へ出て児童養護施設に入り、それから今度は別の地獄を知った。
──────地獄の地獄のマトリョシカ。開けても開けても絶望が。サンタクロースはやって来ない。彼女は幸せ拒絶した。友だち百人できないよ。人間醜いアヒルの子。彼女も醜いアヒルの子。飛んだ先でも射抜かれて、地面に落ちて死んじゃった♩
「私は屋敷にいた団体の人間を殺し、義理兄も食い殺して、義理の両親も女中も殺しました。児童養護施設の先生や子供も殺そうとしました。人の第一印象も顔の美醜ではなく美味しそうか否かで判断します。私は人間でしょうか、呪霊でしょうか? それとももっと別の何かでしょうか? 貴方に問います、五条悟」
今度は真っ赤な目が、五条をとらえていた。
夏が過ぎて肌寒い季節がやってきた。判決の猶予期間を与えられた櫻はいつも通り過ごしている。交流会は今年も東京校の勝利で幕を閉じた。
五条はあの時答えを出せなかった。硫酸を飲まされたような苦しげな顔で、熟考した末に「時間をくれ」と話した。改めて考えるといくら最強と謳われる彼でもまだ十五歳の小童で、しかも甘やかされて育っている。
あのサングラスのように、本当の黒くて気持ちの悪い現実は
「この期間中に人を殺さない」の縛りも設けているので、首輪をつけられた状態で生きている感じだ。
「出かけんぞ」
との一言で休日。彼女は五条とともになぜか児童養護施設に来た。電車を乗り継いでしばらく。東京土産を片手に見覚えのある街に来て、見覚えのある道を通る。縁を切ったはずの場所で感激した院長に促されるまま、現在子供たちと遊んでいる。
いきなり現れた人外の美貌(五条)に女性の職員や少女、幼女までもが黄色い悲鳴をあげた。彼氏ではないのだ、院長。この男は後輩で、今彼女の死刑執行のボタンを押す役割を任せられているのだ。
「へぇー、そうなのね〜」
ぽわぽわのわた毛みたいに微笑む院長はどうやら、彼女の言葉を信じていないようだ。照れ隠しの発言だと思っているらしい。一方で少年たちは長身女のセーターに強調された胸に性癖開花の鐘を鳴らした。
「ごじょーさんはわたしとあそぶの!」
「ちがう! あたしとあそぶのー!!」
「まぁまぁレディたち、みんなで仲良く遊ぼうね」
「「「キャ〜〜〜ッ!!!」」」
絵面は餌にたかる魚群。もしくは砂糖に群がるアリ。五条はそのまま少女たちに誘拐されて星になった。櫻もまたかけっこや隠れんぼをしたりと悠々自適に過ごす。
あぁそういえば、この傷はだれだれくんが付けた。このおもちゃは当時からあった。子供たちの笑みは変わらずここにあって、院長の笑みも皺は増えたけど変わらない。最初は見知った目線と世界が大きく違うせいで違和感を感じていたけど、溶け込むのはあっという間だった。楽しくて童心に帰る。地獄の中でも確かに幸せな時はあった。呪術高専に通うと決めたのは後ろ盾が欲しかったという気持ちもあったけれど、呪霊を祓って人を助ける機会があると思うこともあった。
こういう、大きくなったら忘れてしまうかもしれない、日常の小さな幸せを守ってあげたい。そう、安倍櫻は思ったんだ。
時間の流れは流星群。フルスピードで流れるのが彼らの人生だった。お土産も持たされて、「また来てね!」という院長の言葉に、櫻は手だけ振った。
電灯がチカチカと明滅する。今の時期、すでにあたりは暗くなり始めていた。
「それで、初恋ドロボーの坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめろって言ってんだろ」
「貴方は私が人間だと思いますか? それとも、呪霊だと思いますか?」
少し前を歩いていた長いコンパスが止まる。五条は上を向いて目を瞑り、後ろを振り返った。
「質問を先にしたのは俺だったろ。だったら先にお前が答えるのが義理だろ」
「わた、しは…………多分人間?」
「はっきりしろよ」
「………人間です」
「どうしてそう思う」
「……人を好きで呪いたいわけじゃないから。私は………私だって、好きで呪いたかったわけじゃない…!!」
呪わなければ死んでいたから呪ったんだ。死にたくないから呪った。
「私は、
じゃあ、生きればいいんじゃないの? ──と、五条が言う。櫻は一瞬の間を置いて「は?」と固まる。
「…私は自分の罪を告白したはずですよ」
「宗教団体の方はまだ調査中だけど、殺したのは安倍家の前当主とその息子に、当時勤めていた女中数名。で、妻は植物状態だろ?」
「………」
「お前がされたことと、したことを天秤にかけるのは正直ダルい。俺に任せてんじゃねぇよ、
「ですが、五条家の当主になったらもっと悩むことになりますよ。力があるとはそういうことだ。貴方は背負って、その分苦しむことになる」
「あぁ、そうだな。今までの自分が甘かったって、今回の件で少し分かったわ」
「ちなみに私は呪霊でも人間でも、じわじわと苦しむ様を眺めるのが好きです」
「性格ワッッッル!!!」
目の前の坊にだけは言われたくないな。彼女は心底思った。
「生きるために呪うなら、アンタは人間だよ。呪霊は呪いだから呪う。生きるために人間を呪わない」
「……そうですか」
「でも今後無関係の人間を殺すなら、俺はお前を殺す」
「じゃあ縛りますか」
「縛りは結ばない」
「……はぁ?」
「俺は信じてるからさ、
人を引き込む蒼い目。その下には窪みの形に沿って酷いくまがある。子供たちと遊んでいる時、五条はあくびをうつしていた。本当になんて、綺麗な目なのだろうか。きっとこの目は世界に愛された目だ。世界から嫌われた彼女とは、何もかもが正反対だった。
「…わかりました」
差し出された手を、彼女は弱々しく握った。
帰りの電車の人混みはまばらだった。門限を破ることになった二人は教師から怒られることになる。
櫻はこの日から、五条を「五条の坊ちゃん」ではなく、「悟の坊ちゃん」と呼ぶようになった。