腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
映画館に行ってから少し遅めの昼食を取り、適当にぶらついてから一緒に寮に帰った。七海はこの後、部屋の前で待ち伏せしていた野郎三人に囲まれた。
寄った眼鏡店で櫻は「もしかしたら…」と思い、例のヘンテコ眼鏡を探したが売っていなかった。
何というか、部屋に帰ってもまだ足が地面につかないようにふわふわとした気持ちで満たされている。好きの愛とは違う。改めてそこで彼女は自分の感情が“恋”の愛なのだと理解した。枕をバンバン叩く。小さなホコリが一斉にジャンプして部屋の中を舞った。
それから歌姫や冥冥に謝辞のメールを送って、携帯を閉じた。気持ちが競りすぎて、二人の教えを半分以上はど忘れしてしまったが仕方ない。櫻は今人生ではじめての恋にイかれた期間なの。
携帯にはホットドックの形をしたストラップが付いている。ガシャポンの小さな紙曰く、こいつの名前は『ホットドッグマン』。七海が偶然このガシャポンを見つけ、二人で回したのだ。七海は彼女のコロネを、櫻は七海のホットドックマンを交換した。
「ぬわぁ〜〜!!」
手足をばたつかせていた彼女はベッドから落ち、慌てて携帯をキャッチした。
そして正式にお付き合いが始まった。ただ櫻は一級という等級と呪霊探査虫の利便性から、任務でいないことが多い。空いている時間は七海の自主練に付き合うこともあった。
なるほどさすがは四年。ペーぺーの七海では太刀打ちできない。まず向こうは体術に長けている。小・中で磨かれた武道の技術が重い一撃一撃となって襲ってくる。加減はされているが、蹴りを受け止めた腕の骨にヒビが入ったこともある。
相手にベタ惚れされている自覚のある七海はこの時焦ったが、櫻は取り乱さなかった。むしろ「弱いと死ぬからね」と言った。その顔は恋人ではなく、一人の術師としての顔だった。ただそれはそれとして、櫻はそのあと盛大に落ち込んだ。
同じ学舎にいれば食事をともにするようになり、集まる場所は自然と一年の教室になった。この頃には灰原は「いっぱい食べる姿を拝めるならいいや」と、推しを応援するファンの気持ちで時折食べ物をスパチャしていた。だから、七海もパンをスパチャした。灰原ともどもスパチャを返される時もある。
いっぱい食べる君は、そう。
「…………かわいい」
ボソッと、二人だけの教室で七海はつぶやいた。隣人の灰原は「え?」と自分の顔を指している。バカやろう、なぜそうなる。
「灰原の気持ちが最近になってわかりました…」
「安倍さんは食べるのがレースカー並に早いけど、何でも美味しそうに食べるからねぇ」
「早食いは健康に悪いと思いますけど」
「……七海も遠慮なくのろけるようになったね」
先ほどまで本人が一緒に昼食を食べていたのだから、その時に言えばよかったのに。灰原はため息をついて七海を見る。妹がいる灰原は女子の生態を無意識のうちに理解している。ブアイソな友人の眉間にはこれでもかと皺が寄っていた。
「……だって、恥ずかしいでしょう」
富士山の先っちょだけ雪が積もっているみたいに、七海の耳の先が赤くなっている。
安倍さんは七海のことが大好きだけれど、七海も十分に安倍さんのことが好きだなぁ。そんなふうに灰原は思った。
ホットドッグとチョココロネが揺れ動く。カチカチと音を鳴らして電波が二つのキャッチボールをリレーする。よーいドン!
ホットドッグからチョココロネへ渡されるバトンは早いけど、チョココロネからホットドッグへ渡されるバトンは遅い。顔文字のない文面が二人の常だった。かと思いきや、数日間ホットドックから返信が来ないこともある。
『ナナミンくん、ナナミンくん。台風の名前は百四十個もあるんだって』
『はじめて知りました。調べたら色々な国が名前を出し合って決めたみたいですね』
『コグマとコイヌがあるよ! 今年はコイヌが来てくれるかもしれないね』
『台風は好きじゃないですね。相変わらずお忙しいようですが、怪我などはされていませんか?』
『大丈夫! ナナミンくんも絶対にケガしないでね。本当にケガしないでね。絶対だよ?』
『分かりました』
夏が来た。七海に合う眼鏡を任務の合間に探していた櫻は、結局見つけられずに七海建人の誕生日を迎えた。色々と考えた末にプレゼントは詰め合わせのパンを贈っている。納得のいくパンに出会えた時、七海は本当にかすかに笑う。
任務の都合でその表情になったのか見れなかったけれど、補助監督に協力してもらい選りすぐりの店を選んだから、願わくば七海にとっての“小さな幸せ”が見つかっていたらいいと思う。
彼女にとっては今の一瞬一瞬が特大の幸せになっているから、それで十分だった。
それから補助監督伝いに特級術師の五条と一級術師の夏油に重大な任務が入ったことを聞いた。彼女はその時東北の任務に当たっていた。
二人は
天元様って美味しいのかな、と一瞬危ない思考に進んだ櫻は慌てて帰還命令を出す。
実力的にも夏油は十分な戦力になるだろう。去年彼女が勝てたのも相手がこちらの術式を知らなかったからで、知った上で今戦えば『
問題児二人。ただし彼らは言う。自分たちが「最強」であると。
車窓から星を眺めていた櫻は、「二人とも若いなぁ…」と思った。
久しぶりに呪術高専に戻って来たら、お通夜だった。空気が重い。イレギュラーが起こり星漿体の少女は殺され、護衛にあたった二人も重傷を負った。その際に一番星を捕まえた五条は、真の意味で呪術界最強の座を手に入れた。
七海と灰原もこの任務に参加することになったと聞いた後、星漿体の事件を知った櫻は心臓が止まったかと思った。
七海くん、七海くんは? 無事? 死んでないよね? 死んでいたら──と、精神状態が一気に悪化した。無事だと知りすぐにほっとしたが。
帰ったら問答無用で抱きしめようと決めていた。前髪が萎びていた夏油や以前より目のギラギラが増した五条には悪いけれど、今の彼女の一番は七海だ。任務の失敗に対し先輩としてねぎらいの言葉をかけてやる暇はない。一刻も早く彼ピッピを捕まえてこの目で生存確認をする必要がある。
肝心の七海は教室にいた。ちょうど座って灰原と話し込んでいる。七海が彼女の存在に気づいた時にはすでに、櫻は両手を広げていた。
「戻ってらし──」
「七海!! くん!!!」
椅子ごと後ろへ吹っ飛ばされた七海は倒れた。灰原は「oh…」みたいな顔で胸の下敷きになった友人を見る。ガシャンとかなり派手な音を立てたせいで、その音が二年の教室にも伝わった。「ん?」と気になり音の場所へ向かった二年生ズは、あらまぁこんなお天道様が高い時間なのにお盛んなのね、と反応する。男たちは内心「羨ましいな…」とも思った。
何とか彼女を説得し離れてもらった七海は、衝撃のあまり鼻から血が出ていた。「俺も抱きしめてよ〜」と悪ノリした五条はすぐに前のあれやそれを思い出して謝ろうとし、本当に抱きつかれた瞬間、変な声を出して逃走した。
七海の五条への好感度はマイナスを下回った。