腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
真冬の北海道は都民にゃ控えめに言って地獄である。真っ赤なお鼻の夏油と真っ青なお顔の櫻は、一刻も早く車の恩恵を求めた。
五条悟の覚醒以降、夏油は親友と組む機会が格段に減った。五条はきっと今も「俺たち最強」と笑顔で言うだろう。でも夏油はあの蒼い目を見ながら同じ言葉を言えるか、わからない。
一級の彼は力量さが近い先輩の安倍と組むことが増えた。任務を共にするとわかる。彼女の術式『
遅ればせながら夏油は彼女にリスペクト精神を持つようになった。それまでは一定の距離を置きたい先輩でしかなかった。
「そう言えばずっと聞いてみたかったんだけれど、夏油くんは呪霊の味をどういうふうに感じてるの?」
「味ですか? …まぁ、好きこのんで飲み込みたくはないですね」
「へぇー…そっか。美味しくは感じてないんだね」
隅と隅によって二人は会話する。外は雪で大荒れだ。安倍はずっと携帯をいじっている。ふと気になった夏油は少し体をそらして携帯の画面を盗み見た。家入も恐ろしい速さでメールを打つが、安倍も早い。これは女子にだけに許された奥義なのかもしれない。
画面に影が差したことで、櫻は迫り来る暗殺者の存在に気づいた。
「寒いのにアッツアツですね」
「…? 暖房は利いてるけどまだ寒いよ?」
五条が最初からノーデリカシーで接してくるなら、夏油は一歩近づくたびに京都人の「ぶぶ漬けはいかがどす?」のような本性を見せ始める。だが夏油の技『ぶぶ漬けはいかがどす?』は、宇宙人の次元で生きている櫻には効果がなかった。
「ワァ……!! 白い恋人が欲しいって、ナナミンくん! お土産に買わなくっちゃ!」
「熱いどすわぁ……」
「白い恋人って北海道でしか買えないんだっけ、確か? ねぇねぇねぇねぇ、黄昏の夏油くん」
「私に聞くより補助監督に聞いた方がいいのでは? ────ちょ、「黄昏の」って何ですか?」
「確かにそうだね。へい、補助監督!!」
恋する乙女は、恋するようになってからさらにぶっ飛び具合が増している。走行中に立とうとした彼女は車が急停止したせいでシートベルトに呻いた。おっと失礼しやしたぜ、と狐が一目散に逃げて行く。夏油は一瞬目を逸らして、再度「黄昏の」の抗議をした。五条の「坊ちゃん」のように悪意ある表現にしか感じない。
「君はだって、黄昏ているでしょ? ずっと、星漿体の事件以降から」
「そ……れは」
「悟の坊ちゃんが強くなったことに悩んでいるのか、はたまた別のことに悩んでいるのか、私は知らないけれど」
「………」
例えば、一生懸命に練習した演技をお遊戯会で少女が披露したとする。しかし少女は失敗して、倒れてしまう。その様子を見た大人たちが微笑みをもって立ち上がり、拍手する。少女にあふれんばかりの、
夏油の息が浅くなった。冷や汗が浮かぶ。寒さも暑さも感じられなくなった中で、強烈な映像がフラッシュバックする。今も耳の中にあの拍手がこびり付いている。夜に目を瞑って寝ようとした時や、朝洗面台に立って歯磨きをしている時。あの音は彼にささやく。
ハッ、と荒い呼吸を耳にした櫻はお隣に視線を向けた。死人みたいな顔が、死人みたいな目で虚空を捉えている。「う〜ん」と彼女は返信の来たメールを見て、また隣を見てからもう一度メールを見て、携帯の画面を閉じた。
「豚骨ラーメンを食べましょう」
「ハ?」と声を上げた夏油を無視し、櫻は補助監督に頼んで近場のラーメン屋を探しに行ってもらった。
街中の路肩に止まった車がハザードランプの光を点滅させている。二人きりになった空間で、櫻は口を開いた。
「君は悟の坊ちゃんより善性が強いんだね」
「……はぁ」
「友人との差が広がるだけで、そこまで追い込まれたりはしないか。じゃあ……キッカケは星漿体の死かな?」
「………」
「うん、その顔は当たりみたいだ」
真っ赤な目が、夏油を見ている。悟の目が吸い込まれるようなそれなら、この目は人の心を冷たくする。現に夏油の心臓は、付け根から冷え切ってしまったようだった。指がかすかに震える。その震えを紛らわすように強く両手を握った。
「………
救いたかった少女の命を救えなかった。夏油は弱くて、悟は最強の力を手に入れた。両手からこぼれ落ちたものを歓喜の拍手で迎えたのは彼が守りたいと願った人間たちで、だから、もう、夏油は分からなくなっている。
「重い質問だね。呪術師は呪いを祓う仕事だ──じゃ、納得いかない?」
「いきません」
「それが自分の適職だから働く。それでもいいと思うけどね。夏油くんは仕事に理想とかやりがいを持ちたいタイプなんだ」
「そう言う、安倍さんはどうなんですか?」
「私はどこかの誰かの、小さな幸せを守るために呪霊退治に励んでいるんだ。まぁ、私自身が誰にも害されないように、純粋な力を付けたいって理由もあるけれど」
「それが、確固たるあなたの芯なんですね…」
「いや?」
「………え?」
「一番は七海くんだから」
「この状況で私は惚れ気話を聞かなくちゃいけないんですか?」
灰原が七海のノロケを聞くように、夏油は彼女からノロケを聞いている。任務のたび、毎回! ちょっといい加減にして欲しい。
「夏油くんは何のために呪術師になったの?」
「私……は、非術師を守るために術師になった」
「………あぁ、そう。なるほど」
真っ白だった夏油は、真っ白のまま大志を抱いた。眩しいなぁ、と櫻は思った。彼女はもう真っ黒だから、夏油のように星漿体が死んだ場面を見たとしても、彼のように心の底から苦しむことができなかっただろう。
知らなかったんだね、人間の醜さを。人間はとっても醜いアヒルの子で、たまに白鳥が混じっているんだ。院長って言う白鳥がね。
「君は白鳥なんだね。醜いアヒルの子がウジ虫みたいに、たくさんいることを知らないんだね」
夏油の顔が持ち上がった。仮面をつけていないのに、彼女の表情は仮面をつけたような無表情だった。
「私はね、どこかの誰かの、小さな幸せを願う気持ちは“術師”としてある。でも
それでも一握りの人間がどこまでも優しくて甘ったるいから、彼女は呪いではなく、人間として存在している。
「………」
夏油はまた下を向いてしまった。遠くから、「ありましたよー!」という声が近づいてくる。そろそろ時間切れのようだ。彼はポツリと呟いた。
「…‥ラーメン奢ってください、
いいよ、と櫻は携帯を開いて返した。