腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
櫻の元に完全な事後報告で悟の坊ちゃんから「メンゴ〜! 傑に話しちゃった☆」な電話が来た。なお、相手の本当の口調はもっとシリアスだったものとする。
何でも彼女は特級呪術師の女に狙われているらしい。まさか「ユキとサクラ」でコンビを組み、C-1でも狙おうという魂胆なのか。とりあえず五条からは九十九由基に気をつけるよう言われた。
彼女的に夏油へ自分の過去(一部)がバレたのはそこまで焦るものではなかった。星漿体の死の件で気を病んでいた夏油は、きっと彼女の過去の件でも気を落とすだろう。そう判断した櫻は、最後に五条へ親友のケアをしっかりするよう頼んだ。
自分の、過去。
その過去を七海が知ったら彼はどう思うだろう。気持ち悪く思って、自分から離れて行ってしまうかもしれない。けれどいつかは話さなければならない日が来るだろう。自分が無数の生贄から生まれた人なのか呪霊なのかよく分からん存在で、人を殺したこともあるのだと。
「………っ」
その日の夜は、まったく眠れなかった。
様々な面で七海は恋人に負けていた。
まず身長。百八十センチを超えた七海は一年で彼女を抜かせなかった。というか、第二次性徴期はすでに終わっているはずの女がなぜまだ身長が伸びるのか。ハイヒールを履くと百九十の大台を破りそうな五条まで抜く。
食べる量も敵わない。櫻は七海の一週間分の食料を一食で食べ切れる。しかし体重は七海の方が重かった。そうだ、そこは勝っている。
身体能力も敵わない。これまで手合わせをした中で勝てたことは一度もない。ついでに何度か誘った灰原も彼女に勝てたことがない。灰原は途中で何度も目を瞑ってしまうのでダメだった。何がダメかって、少年の心が色々と耐えきれなかった。
階級も櫻が一級術師で、七海が二級。その背がはるか遠くに感じていた前よりはグッと距離が縮まったけれど、まだ彼女の隣にさえ並べない。七海は彼女に負けているのが嫌なのではない。いざという時に“守られる”側になってしまうのが嫌なのだ。
だから、灰原とともに鍛錬に勤しんだ。着実に二人は力をつけて、任務をこなしていった。
「七海はさ、何で
「自分に呪術師としての適性があったから…ですかね」
「へぇー……七海らしい答えだね」
「そう言う灰原はどうなんですか?」
「僕? 僕は人を助けたいと思ったから、この道を選んだんだ。妹が見える人間でさ、そのせいでよく危ない目に遭ってたんだ」
「…そうですか」
灰原のように熱い意志は今の七海にはない。安倍に似た質問をした時はどう返されたのだろうかと、思い出して────。
彼女は「どこかの誰かの、小さな幸せを守ってあげたいから」と、話していた。
七海はまだ、自分が呪術師であるための北極星を見つけていなかった。
その日きたメールには、なぜかパーティーメガネを付けた彼女の写真が添付されていた。
七海はパンを喉に詰まらせ、三途の川に招待されそうになった。
七海の腕の中に友人がいる。不思議なことに、友人の腹の途中から下がなかった。腹の部分からは血が今も流れていて、自分の服や地面を汚す。周囲の音が何も聞こえない。自分の息遣いさえ、聞こえない。
少し動かすと内臓がこぼれ落ちてくる。それを漏れ出ないように必死に手で押さえる。内臓は冷たかった。肌は真っ白で、まるで死人のようだ。うっすらと開いた目は濁っている。そこにあるべきはずのものがない。命が、ない。おかしいなと七海は思った。友人が呼吸をしていない。体は動かそうにも硬くて、どうしようもなかった。
「灰原…」
七海は逃げた。今回は二級相当の任務で、七海と灰原が当てられた。任務の後時間があったらパン屋を巡るのが七海の趣味で、それに灰原も付き合うことが多かった。「あそこにパン屋あるよ、七海!」「まだ任務中ですよ…」と、そんな話をしながら呪霊の討伐に向かった。
しかし呪霊は一級相当の呪霊で、二級の二人では太刀打ちできなかった。高専側がその脅威を見誤ったことで起きた悲劇である。
撤退しなければ、と思った時には遅かった。二人とも命からがらで、七海の中で走馬灯のようにいろんな考えがよぎった。走馬灯では印象深い五条がかなりの頻度で登場して、七海はそのムカつく顔面を殴りたくなった。五条のせいで彼女との思い出の数が相対的に減らされてしまった。
七海はしかし深傷を負ったけれど、助かった。灰原が逃げるように言った。七海はそれを拒んだ。その時点で重傷だった自分が囮になると、灰原は譲らなかった。
呪霊が、二人を襲った。
灰原の体が呪霊の口の中に入った。「逃げろッ!!!」と、灰原が叫んだ。七海はそこで、逃げた。感情が七色のクレヨンをすべて使って画用紙に限界まで塗りつぶしたような状態で、灰原の名前か、それとも悲鳴か、半狂乱になって逃げた。そんな中でも後ろから灰原の声が聞こえた。さいごの声だった。
「あとは、たのんだ」
それからのことはよく思えていない。補助監督と合流し、応援を呼んで、そして────そうだ。どうにか灰原の遺体を回収して、任務は五条に引き継がれることになった。
灰原は動かなかった。七海はもう、涙を流すこともできなかった。彼の血と灰原の血で服は赤黒く染まっている。時間が経ったせいでその血が体温を奪い、七海の顔は死人のように真っ青だった。
「………灰原」
何度も繰り返して友人の名前を呼ぶ。でも「七海!」と灰原は笑わない。どうしてだろう。どうして、七海は逃げたのだろう。
どうして、
「私、だけ………生き残った、のか」
その日、灰原雄が亡くなった。